『ハプスブルク三都物語――ウィーン、プラハ、ブダペスト』(河野純一著、中公新書)

写真》オーストリアワイン Heurigerは新酒の意

 世界情勢が騒がしい。そんななかで、もっと知りたいのにあまり深掘りされなかったニュースもある。去年12月のオーストリア大統領選もその一つだ。やり直しの決選投票でリベラル系の候補が右派ポピュリストといわれる候補を抑え、勝利したのである。

 

 この結果を受けて、英紙ガーディアンは「安堵のため息が欧州全域で聞かれるだろう」と書いた(デジタル版、2016年12月5日付)。英国の国民投票がEU(欧州連合)離脱を決めた。米国の大統領選でドナルド・トランプ氏が選ばれた。自国第一のポピュリズムが席巻するなかで、よその国との協調をうたう政治家が辛勝したことをこう表現したのである。この新聞が左派寄りであることを差し引いても、なるほどとうなずける。

 

 ただ僕が「もっと知りたい」と思うのは、それとは違う角度からだ。新大統領となったアレクサンダー・ファンダーベレンという人が気になる。苗字はvan der Bellen。分けて読めばファン・デア・ベレンだ。興味深いのは、緑の党の元党首ということである。

 

 そこに注目すると、この大統領選の格別の意義が見えてくる。それは、欧州政治の対立構図が保守主義対社会民主主義だけでないことを示した。今回で言えば、右派ポピュリズム対環境保護主義だ。しかもその選挙戦で、環境派が今をときめくポピュリストを制したのである。言い換えれば、彼の地には右派の暴走を止める安全弁が複数用意されているということだ。翻って此の地はどうか。社民勢力は力を失い、有力な環境派勢力も見あたらない。

 

 英紙デイリー・テレグラフのデジタル版にあるAFP電(2016年5月23日付)によると、新大統領はもともと社会民主党員だったが、1990年代初めに緑の党に加わり、その後、党首となった。社民から緑へ。それがどんな理由による転身かはぜひ知りたい。

 

 気になることはもう一つある。これも同じAFP電の受け売りだが、彼は1944年にウィーンで、ソ連のスターリン体制から逃れた「難民の子」として生まれたという。そのころのウィーンはナチスの支配下にあった。父はロシア貴族出身で、母はエストニア人。ユダヤ人排斥の嵐が吹き荒れるさなか、別の方向からやって来た異民族だったわけだ。複雑な思いがあっただろう。彼らがどんな境遇だったのか。それも、知りたいと思うことである。

 

 オーストリアという国は、今では中欧の小国として扱われがちだ。だが、歴史をさかのぼれば、一大帝国を築いた時代が長かった。文化の発信も、だれもが思いつくクラシック音楽など芸術領域ばかりではない。物理学でも哲学と重なる発展があり、実証主義のエルンスト・マッハや、その論敵ルートヴィヒ・ボルツマン、そして量子力学の建設者エルヴィン・シュレーディンガーらを輩出している。ひと言で言えば、奥が深いのである。

 

 で、今週は『ハプスブルク三都物語――ウィーン、プラハ、ブダペスト』(河野純一著、中公新書)。名門ハプスブルク家とともにあった中欧の3都市に焦点をあて、それが生みだしたものを紡いでいる。2009年刊。著者は1947年生まれ。略歴欄によればドイツ語、ドイツ文学の専門家だが、とりあげる話題は建築あり音楽ありワインありで、文化全般に対する造詣の深さがうかがわれる。欧州史を、西欧とは別の角度から照らしだした1冊だ。

 

 まずハプスブルク家の源流をさかのぼると、スイスの一領主だった「ライン川の支流アーレ川沿いに住む伯爵家」に行き着く。この本によれば、家名は鷹“Habichit”の城“Burg”に由来するので「鷹城家」か。ルドルフ1世が1273年に神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれてまもなく、ウィーンへ移った。皇帝は、ふつうの王よりも一格上だから今でいえば2階級特進の感じか。以来、ウィーンは1918年まで「ハプスブルクの都」だった。

 

 この名家は、神聖ローマ帝国に皇帝を多く送り込んだ。その帝国が消滅しても、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国を治めた。一族がこれほどの力をもった背景には「結婚政策」がある。15〜16世紀に皇帝だったマクシミリアン1世は、妻がブルゴーニュ公の娘だっただけでなく、子や孫の結婚相手もスペインやハンガリーの王家から選ばせた。その結果、「ヨーロッパの約半分」を「支配下」に置いたのである。

 

 町の話に入ろう。三都は意外と近距離にある。著者も「ウィーンの町を歩いているとき、ふと見かけた道路の行き先表示板に、片方はプラハ、もう一方はブダペストと書かれたものを見かけ、はっとした」と打ち明ける。オーストリアの首都ウィーンからみると、チェコの首都プラハは300km、ハンガリーの首都ブダペストは250kmほど。東京から名古屋へ行くのと大差がない。そして、いずれの町も川が流れる内陸都市という共通点がある。

 

 だから、橋をめぐる話題が多い。たとえば、ウィーンのドナウ川に1876年に架けられた橋は、ルドルフ皇太子橋→帝国橋→赤軍橋→帝国橋と名前を変えていった。皇太子の心中事件があった。第2次大戦後のソ連軍占領もあった。相次ぐ改名に歴史が刻まれている。1970年代には橋が崩れ落ちる事故があり、80年に再建される。その完成式典の話が印象的だ。そこにオーストリアの人々の「帝国」に対する相反感情がみてとれる。

 

 著者によれば、キルヒシュレーガー大統領はこう述べたという。「ウィーンは帝国の時代には、諸国民の間の『帝国の橋』であった。今日では、中立国オーストリアの首都として、ウィーンは再び諸民族間の橋を形成している」。かつて帝都は民族をつないだが、そこには支配被支配の関係があった。これからは平和共存の橋渡しをしよう――帝国主義への反省はにじむが、「帝国」への郷愁を中立国の理念に投影しようとしているようでもある。

 

 支配された側のブダペストはどうか。ドナウ川を挟むブダとペスト両地区の間に幾本かの橋がある。二重帝国時代の1896年に架けられ、皇帝のフランツ・ヨーゼフを地元読みしてフェレンツ・ヨージェフ橋と命名されたものは、代替わりして「自由橋」と呼ばれている。一方、妻エリーザベト妃に因むエルジェーベト橋の名は今も残る。彼女がハンガリーを愛したことで好感をもたれていたからだという。これも一つの相反感情だろうか。

 

 そもそも三都には異民族の混在があった。この本によれば、ウィーンはもともとローマ人が北方の脅威に対抗して築いた防御拠点だった。プラハはモルダウ川の浅瀬が隊商を呼び寄せ、11世紀にはドイツ人やユダヤ人が商いを営んでいた。ブダペストにはケルト人が先住していたが、一時ローマ軍の駐屯地となり、10世紀ごろにウラルからマジャール人が移って来た。この多様性の素地が、それぞれの町に彫りの深い文化を生んだのだろう。

 

 多様性は相対的な視点を生み、批評精神を高める。一例は、ウィーンで19世紀末に興った「分離派(セツェシオーン)」の芸術運動。当時の帝都はフランツ・ヨーゼフ皇帝のもとで市壁が壊され、環状のリング通りができてネオゴシックやネオバロックなど懐旧的な様式建築が並んでいた。これに反発したのが分離派の建築家だ。オットー・ワーグナーは著書『近代建築』で「われわれの芸術的創造の唯一の出発点は近代生活」と宣言したという。

 

 著者の解説によれば、ウィーン分離派の作品は、同時期のアール・ヌーヴォーなどと比べると「幾何学性、直線性」が強調され、「実用的な機能性」も具えているという。欧州でもっとも鋭敏に近代を感じとり、それを文化に取り込んだのがこの都市ではなかったか。そう言えば、と思い浮かぶのはウィーン学団だ。そのメンバーが哲学と科学の垣根を超えて思想を深め、旧来の形而上学と対峙したのも、分離派の潮流と共振している。

 

 印象に残るのは、画家志望のアドルフ・ヒトラーが1907年にオーストリアの地方都市からウィーンに出てきたときの話だ。この本には「都市改造の終わっていたウィーンのリング通りの風景に非常に感激したといわれている」とある。将来の総統は、分離派の人々とは逆に重厚な装いの建築に魅せられたということか。この都には、多様な文化が交じりあって新しいものを生みだす力学と、大国の夢を追う力学が交錯しているように思える。

 

 では、僕たちの社会はどうか。後者のほうが勢いを強めているように見えるのが心配だ。

(執筆撮影・尾関章、通算360回)

 

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