『ユリイカ』(復刊第1巻第1号、1969年7月1日発行、青土社)

写真》「折々のうた」再掲(朝日新聞朝刊2017年4月6日)

 心にズシンとくる訃報が多い春である。3月には、ミュージシャンのムッシュかまやつさんが逝った。俳優の渡瀬恒彦さんも旅立った。そのたびに、当欄はゆかりの本をとりあげて故人をめぐる記憶を紡いだ(2017年3月10日付「どうにかなるか、ムッシュに聞こう」、2017年3月24日付「渡瀬恒彦、2Hとともに去りぬ」。そして4月に入り、詩人の大岡信さんである。切ないが、同じ行為をもう一度繰り返すことにする。

 

 訃報に触れてなにかを語るというのは決して後ろ向きのことではない。いやむしろ、死者との間に新しい関係を結ぶ前向きの企てとは言えないか。ただそれは、死の直後に限るべきではないだろう。本という、時の猶予を与えてくれるものがあるからだ。僕たちは読書によって、生物としては去った人を精神世界に呼び戻して語りあうことができる。古典を読むとは、そういうことだ。訃報は新たな古典の誕生を告げる知らせでもある、と僕は思う。

 

 大岡さん逝去を伝える報道では、新聞連載の「折々のうた」に触れたものが多かった。掲載元の朝日新聞のみならず、ほかのメディアも触れていたから、国民的なコラムだったと言えよう。1日1編、古代から現在までさまざまな詩歌を選びだし、その魅力を約200字ですくいとるという宝石箱のような記事。1979年に始まって2007年まで続いた。計6762回。万葉集の収録歌数を超える、と朝日新聞の記事にはあった。

 

 この連載は、僕が朝日新聞社に在籍した36年間にすっぽりと収まる。最初のころ、大岡信という筆者名を見て幾分の違和感があったことを覚えている。現代詩畑の難解な文章が新聞という媒体に耐えるだろうか、と訝しんだのだ。だが読んでみると、その書きぶりは簡潔にして平易で理と情を兼ね備えていた。それは、その後に社内で見かけたご本人の姿と重なる。どちらかと言えば、詩人というよりは折り目正しい知識人という感じだった。

 

 ことわっておくと僕の先入観は、現代詩は難しいから嫌い、というのではなかった。むしろその逆で、難しいからこそ畏れ敬うという類いのものだ。学生時代を振り返ると、二つの雑誌が思い浮かぶ。『現代詩手帖』(思潮社)と『ユリイカ』(青土社)。ともに今も健在だが、1970年前後には言語芸術の枠を超えて若者の心をとらえていた。そこには、言葉の解放が社会の呪縛から解き放たれることにつながる、という確信のようなものがあった。

 

 僕が大岡信の名を初めて目にしたのは、両誌のうちのいずれかだったと思う。天沢退二郎、吉増剛造といった名前といっしょに目に飛び込んできた。彼らの作品を読みまくったという記憶はないのだが、言語空間を自ら構築している様子がうらやましく思えたものだ。

 

 で、今週は『ユリイカ』(復刊第1巻第1号、1969年7月1日発行、青土社)。当欄が雑誌をとりあげるのは、前身のコラム時代を通じて初めてだが、今回はそれが許されるだろう。この号が「復刊」と銘打たれた理由は、1956〜61年の第1期があるからだ。創刊した伊達得夫の早世とともにいったん途絶えた。彼を慕う清水康雄が青土社を起こして蘇らせたのが、この1冊だ。編集後記には「復刊は私の夢であった」とある。

 

 当欄で触れようと思うのは当然、そこに掲載された大岡作品だ。ただ、それに先立って復刊第1号を素描しておきたい。なによりも驚かされるのは、詩の世界にとどまっていないことだ。綺羅星のような書き手の一群がいる。広義の文化の横溢がある。

 

 巻頭は、種村季弘「アナクロニズム」の第1回。人類の宇宙観は球殻宇宙→無限宇宙→膨張宇宙と変遷してきたが、近代になっても球殻にこだわる「地球空洞説」があったという話だ。「球体の内壁に沿って海や大陸がへばりついている」という珍説である。水平線から船が現れる様子も、もっともらしく理屈づけたらしい。「中世にはこれに似た宇宙模型図の構想がいくつもあったのではないか」と問い、「人間のあくなき母胎還帰願望」を顧みる。

 

 次は、植草甚一「コミック・ワールドの異端者と人気者をたずねて」第1回。登場するのは、19世紀末〜20世紀初めに活躍した英国の挿絵画家ヒース・ロビンソンだ。機械仕掛けを笑いのタネにした絵が多い。画集の解説文を「訳してみよう」との記述もあり、どこまでが植草本人の弁かがわかりにくいが、巨大な土木工事などを描いた後期作品群について「人間がコントロールできなくなった世界の一部分のように見えてくる」と評している。

 

 2編からわかるのは、この雑誌が理系の話題を好んで取り込んでいたことだ。地球空洞説は、今日の宇宙物理学から見れば検証に耐えない奇説に過ぎない。だが、人間の想像力がへんてこな宇宙も思い描けると知ることは科学者の思考の柔軟体操にはなるだろう。「へばりついている」の連想で言えば、最近話題のホログラフィック宇宙論――3次元世界は2次元の面に記された情報から立ち現われるという理論――に、そんな柔らかな発想を見る。

 

 ヒース・ロビンソン論も、技術社会史として読める。これが執筆されたころはコンピューターの台頭期で、それから20年ほどして情報技術(IT)全盛期に突入する。この一文が「最近の『パンチ』や『ニューヨーカー』に見られるコンピュターをつかった皮肉なユーモア」(原文のママ)をロビンソンの系譜と位置づけているように、すでに情報社会を斜めから見る批評の先行例もあった。『ユリイカ』は、その匂いを感じとっていたわけだ。

 

 目次を見ると執筆陣には、英文学者にして元宰相の息子吉田健一がいる。哲学者で実存主義の紹介者として知られる松浪信三郎もいる。ドイツの巨匠ギュンター・グラスの詩抄も載っている。ひと色に染まらない、目くるめくような文化世界がそこにはあった。

 

 では、大岡信はこの号に何を書いたのか。それは、全7ページの「断章〔1〕」だ(1は原著ではローマ数字)。書きだしは「動きというものがどういうものであるかを知るためには、超高速の宇宙空間ロケットを思い浮かべる必要はないし、競走馬の疾走を思い浮かべる必要もない」。パリの画廊の一室では、「パネルにとりつけられたボールや針金、あるいは鋼鉄片や木片が、じつにゆっくりした速度で、少しずつ前後左右に動いている」。

 

 モーター仕掛けのオブジェで、「私」は「ありありと、『ものが動く』ということの異様さを思い知らされた」とある。「超高速」ではなく、「停止状態に無限に接近しつつ、なおかつ動きつづけているもの」。その姿がもたらす「深い嘔吐感」は「たぶん、生命というものを対象化して眺めるときに感じるであろう嘔吐感と同質のものなのだ」という。自分はきのうの自分と同じだが、きのうとはかすかに違う。そのことを見事に言いあててはいまいか。

 

 僕は、ここで準静的という熱力学用語を思いだした。物質系の状態が熱平衡からほとんど踏みはずすことなくおそるおそる変化していく過程を言う。可逆的であって、完全には実現できない。人生は非可逆なので準静的ではないが、それに限りなく近いのだろう。

 

 この1編の主役は、「言葉」だ。夢はもともと平板だが、それを語るときに「深さ」や「奥行き」が出てくることを指摘して、その源泉は「語り手の意識の中にあるのか?」「言葉の中にあるのか?」「意識は言葉ではなかったか?」と畳みかける。言葉に魔力を感じているのだろう。一方で、その弱点にも言及する。「類として同一視」することだ。電柱は1本ずつ異なるのに、「電柱」という言葉で括ったとたん「類概念として単一化されてしまう」。

 

 最大の読みどころは、詩人の役目を要約した箇所だろう。それは「異質な諸要素を結び合わせる」ことよりも、「言語宇宙という、かれの内面にあり、同時にかれをその内面に包みこんでいるところの、この豊饒な組織的活性体を、何かしら不思議な力の助けによって、一瞬切り裂き、解体させる」ことにあるという。詩は「ある大きな全体」から突き出た部分の「断面」が集まってできており、「断面からしか、全体は始まらない」とも言い切る。

 

 まとめあげるのではなく切る――。あの温厚な知識人がそんなことを……と一瞬たじろぐ。だが「折々のうた」6762編は、そうした断面を掻き集める作業の果実だったのかもしれないと思って納得する。断面の向こうに、詩人大岡信の全体が見えてくるようだ。

(執筆撮影・尾関章、通算364回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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