『社会学の考え方〔第2版〕』

(ジグムント・バウマン、ティム・メイ著、奥井智之訳、ちくま学芸文庫)

写真》社会科の時間

 土曜の晩、ニュースに続いて「ブラタモリ」(NHK)を観るというのは一つの習慣になった。この番組はもともと、タモリが東京近辺の町をぶらぶら歩きするというものだった。当人が連日出演の民放昼番組から解放されると、首都圏を離れて列島各地を歩きまわるようになったが、それでますます波に乗ってきた感じがする。彼は、名うての起伏フェチ。先日の神戸編でも、坂道に対する偏愛が歴史への知的好奇心と巧くかみ合っていた。

 

 こんな話題で始めたからと言って、街歩き談議をしようというのではない。この番組は8時15分に終わるのだが、問題はそれからだ。次に控えているのが、このあいだまでは「超絶 凄ワザ!」だった。NHK公式サイトに「高い水準を誇る日本のものづくり」「不可能を可能にする技術者の『凄ワザ』が世界を変える!」とある。バリバリの科学技術番組だ。力作も多いようだが、夕食後のまったり気分でいる僕の視聴欲はとたんに失せた。

 

 NHKが今春の番組改編で「凄ワザ」の時間枠を変えたのは、そんな理科敬遠派の心理を読みとったからなのか。社会科の授業が終わって理科の時間になると頭が痛くなるという人は多い。僕もその一人だった。それがどうして、理系に進むことになったのだろう。

 

 ひとつ考えられるのは、高度成長期に蔓延した世界観だ。1960年代には、モノの豊かさこそが幸福をもたらすという確信が広まっていた。世の大勢はマルキストではなくても、唯物論者だったのだ。そういう環境下で、僕も理系に誘導されたように思う。

 

 では、昨今はどうか。日々の暮らしを省みると、モノに囲まれながらもモノを超えたものと格闘していることに気づく。今この瞬間も、パソコンに向かってなにかを書いている。スマホでメールを点検したり、タブレットでニュースをチェックしたりというのも日常だ。それらの機器を動かしているのは半導体というモノの塊だが、僕が働きかけたり働きかけられたりしている相手はモノではない。ネットワークという社会そのものだ。

 

 で、今週は『社会学の考え方〔第2版〕』(ジグムント・バウマン、ティム・メイ著、奥井智之訳、ちくま学芸文庫)。バウマンは1925年にポーランドで生まれ、71年からは英国リーズ大学で教授を務めた。今年1月に死去している。メイは英国の現役研究者。本のカバーには「碩学と若手の二人の社会学者」が「日常世界はどのように構成されているのか」「日々変化する現代社会をどう読み解くべきか」という問いに「挑んだ」とある。

 

 書名からわかるように、この本には第1版がある。1990年刊のバウマンの単著だ。その邦訳も、同じ訳者の手で93年にHBJ出版局から出ている。第2版の原著は2001年刊。メイの序文によれば「第1版の最良の部分を維持しつつ、その全体的な魅力をもっと高めるように、新たな内容を付け加えた」。付加した「新たな題材」には「グローバル化」や「ニュー・テクノロジー」が含まれる。その新訳が、この文庫版(2016年刊)だ。

 

 僕は碩学バウマンが執筆した大著を若手メイが当世風に微調整したくらいに考えていたが、どうも違うらしい。後段の章で「ハイテク機器」を話題にしたくだりに「著者二人は、PCで原稿を書いているが、互いに、異なるシステムを使っているので、本書の執筆に際して異なるシステム上の要求に対処しなければならなかった」とある。大御所はすでに70代だったはずだが、新世代とやりとりしながら自ら論考を書き改めていたらしい。

 

 この本に現代を見抜く力があることは、序章を読んだだけでもわかる。社会学が「人間の世界」を読み解くときの「鍵(キー)」は「動機づけられた個人」よりも「多方面にわたる人間の相互依存の網の目」にあると言い切っているのだ。ネットワークの重視である。

 

 ネットワーク社会については、「秩序と混乱」と題した章に的確な指摘がある。現代は「情報が物体と離れて自由に移動できる」ので「コミュニケーションは、事実上、瞬間的なものとなり、距離は意味を失う」ようになった。「空間の価値喪失」だ。かくて、「いまここ」と「遠く離れたそこ」の間に境界線を引けない「脱領域的」なコミュニティが現れた。そんな「グローバル化」が「権力の存在形態や分配構造にも影響を及ぼしつつある」という。

 

 1980年代末に東欧の社会主義独裁体制が崩壊したのも、いまポピュリズムの嵐が吹き荒れているのも、その例だろう。この本がとりあげるのは「多数が少数を監視」という状況だ。英国の哲学者ジェレミー・ベンサムは近代の管理方式として、目に見えぬ少数が多数を一望する「パノプティコン」という監視施設を提案したが、その逆の構図が見えてきたという。透明性が高まったとも言えるが、ネットの炎上や報道の過熱のような怖さがある。

 

 この本によれば、グローバル化が進んだことで権力が支配に使う手段も様変わりした。支配される側は、支配する側の目が届くところに引き寄せられて管理されるのではなく、むしろ突き放される。最近の企業は「特定の場所に縛られることはなく、いったん緩急あれば、どこかに拠点を移す準備がいつもできている」。従業員が経営陣のやり方に反発しようものなら「職場の閉鎖」や「会社の売却」などの仕打ちが待ち受けている、というわけだ。

 

 グローバル化で「わたしたちの行為は、地球上のどこかに住む、だれとも知れない人々に影響を及ぼす」ようになった。では、「道徳観」はそれに追いついているのかという問いも投げかけられる。人々は漠然とした不安に襲われると「身近な、目に見え、触れることのできる標的」に意識を向ける。だから、防犯カメラの取りつけなどには熱心だ。だがこれは不安解消のローカルな「はけ口」に過ぎない。グローバルなリスクは残ったままだ。

 

 地球温暖化は、この文脈の延長線上にあると言えよう。著者は、それを「能率の向上や生産の増進の名の下に大量のエネルギーを使用しようとする無数の努力の予期しない結果」とみる。こうした営みは、各々の分野で「それぞれ飛躍的前進や技術的進歩として称賛され、短期的目標に照らして正当化される」。ところが地球規模で見れば、その「努力」が大気の二酸化炭素濃度を高めて平均気温を押しあげ、気候を変動させるというわけだ。

 

 遺伝子工学も同様に批判される。遺伝子を改変されたウイルスや細菌は「明確に規定された目的と、果たすべき個々の有用な仕事をもっている」が、使ってみて「有害な副作用」が見つかれば、その時点で役立たずになる。これも、短期のことしか見ない正当化だろう。

 

 近代の行動様式は「全体を、多くの小さな当面の仕事に切り分ける」。これで費用対効果は高まるように見えるが、実は「気にも留めない費用」がついて回る。それは、当該の仕事と無関係の人々が引き受けることになる。だから「部分的・個別的な合理的行為が多数あることの最終的な帰結は、非合理性の減少ではなく増加である」。思い浮かぶのは、原発事故だ。被災地の人々が背負う苦難は、事業者が無視した「費用」だったのではないか。

 

 テクノロジーの章では、供給が需要を生む現実が描かれる。その駆動力は「このような技術があるが、それを何に使おうか」という論理だ。日常生活の「問題」があげつらわれ、「解決策」として買い物が促される。そんな消費活動が「私化」をもたらすという。「公共交通機関の衰退に対処するために皆が自動車を購入すると、それによって騒音、大気汚染、交通混雑、ストレスなどの問題が悪化する」。ここにも無関係な人々への無関心がある。

 

 読み終えると、科学技術が人間社会のスケールを混乱に陥れたのではないかと思えてくる。それは一人ひとりの悩みを解消する一方で、世界全体に及ぶ難題を再生産している。巨大技術は地球環境を左右する存在となり、情報技術(IT)は地球全体を網で覆った。ところがそれを考案した人間は、時間軸でも空間軸でも遠くを見通せない。それどころか、問題はグローバル化するのに人間は私化するばかり、という皮肉な現象が起こっている。

 

 この本には、社会科の先生が理科の話をしている感じがある。理科がそれだけ肥大化して、影響力を強めたということか。今や、理科の肥満を癒すためにも社会科は欠かせない。

(執筆撮影・尾関章、通算365回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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コメント
《scienceの方面からの評をあまり見たことがありませんでしたので、興味深く拝見》(奥井智之さん)
訳者の方からのお便りに感激。ご本を一読して、科学技術に近い人ほど読むべき書物という印象を受けました。まさに理科には社会科が必要なんだと思います。
  • by 尾関章
  • 2017/04/24 2:04 PM
尾関章様 『社会学の考え方』訳者の奥井です。拙訳書、丹念にお読みいただいた上に、貴ページでお取り上げをいただき、厚く御礼申し上げます。ご高評ですが、scienceの方面からの評をあまり見たことがありませんでしたので、興味深く拝見しました。末尾ながら、今後のご健筆をお祈り申し上げます。御礼まで。
  • by 奥井智之
  • 2017/04/24 12:44 PM
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