『里山資本主義――日本経済は「安心の原理」で動く』

(藻谷浩介、NHK広島取材班著、角川oneテーマ21)

写真》新緑に里山を思う

 年寄りじみていたなあと、年寄りになって思うことがある。若かったころの嗜好についてだ。小さな旅、というのもその一つだろう。あのころ、海外旅行に出ようなどという気はまったくなかった。いや、それどころではない。北アルプスを踏破しようとも、湘南をドライブしようとも思わなかった。東京23区内から郊外電車に乗って30分足らず、川を渡ればそこに丘の連なりがある。その穏やかな自然に心惹かれたりしていた。

 

 1970年代、その丘陵地を貫く電車を降りて山道をほんのちょっと歩いていたとき、目を疑う光景に出会った。それは、まぎれもなく炭焼きの窯だった。煙が立ちのぼっていたかどうか、という記憶はすでにおぼろだが、現に使われているものではあったと思う。

 

 半世紀近くも前なので、もしかしたら幻想ではなかったかという懸念もある。それでネットを調べてみたら、多摩市文化振興財団のサイトに貴重な資料を見つけた。財団発行の「パルテノン多摩 MUSEUM NEWS」(2005年12月1日付)が、同財団の刊行物『写真で綴る多摩100年』を引用して、1970年代の炭焼き作業を写真付きで紹介していたのである。僕が窯を見た場所は多摩市内ではないが、同じ一つながりの丘陵地帯にある。

 

 写真は1971年の撮影。野良着姿の女性が小屋から籠を運び出していて、遠くに宅地向けの配水塔が見える。説明文にあるように「ニュータウン開発による雑木林の消滅」や「ガス・石油へのエネルギーの転換」が進んだころで、都市近郊の炭焼きは風前の灯だった。

 

 僕が川向こうの丘に見た穏やかな自然は、「里山」と呼べるものだ。言葉を換えれば、人里の近くにあって麓の人々に恩恵をもたらしてきた山である。なかでも大きな恵みは、薪や炭だった。その素材となるコナラやクヌギなどの二次林では、切りながら森を保つという循環が繰り返されてきた。里山の新緑がまぶしいのは、そんな事情で落葉広葉樹が多いせいだ。そこには、人も生態系の一員だというエコロジーが根づいている。

 

 で、今週は『里山資本主義――日本経済は「安心の原理」で動く』(藻谷浩介、NHK広島取材班著、角川oneテーマ21)。筆頭著者は1964年生まれ。日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)出身のエコノミストで、シンクタンク研究員。この本は、NHK広島放送局が制作する地域情報番組のシリーズ企画をもとにしている。2011年から1年半、放映されたらしい。「里山資本主義」という言葉は、この企画から生まれたという。

 

 この本は2013年夏に刊行されると、たちまち話題を呼んだ。2014年の「新書大賞」にも選ばれている。なんと言っても、書名がキャッチーだ。「里山」の語感がいい。だが、それだけではないだろう。3・11からまだ2年後で、福島の原発事故は日本の国策が里山の炭焼き小屋を置き去りにしたことのしっぺ返し、という反省が世間に強かったからだと思う。ただあまりに時流に沿っていたので、その時点で僕は本を手にとらなかった。

 

 それが、さらに4年たってどうだろう。あの反省は、ほとんど消えてしまったのではないか。3・11の直後には駅のエスカレーターが止まり、長い階段を喘ぎあえぎ昇ったものだ。原発に頼らずに暮らすのならなんのこれしき、と思ったことを記憶している。今、あの決意を忘れた自分に気づくと恥ずかしくなる。「東京五輪・パラリンピックに間に合わそう」を合言葉に巨大工事を急ぐ都市の風景からは、里山回帰の機運がもはや感じられない。

 

 今こそ里山ではないか。そう考えて、今回はこの本を選んだ。刊行直後の書評に「長所だけを強調しているきらいもあるが、日本の有力な選択肢として熟考したい」(朝日新聞2013年8月4日朝刊)とあるから、過度にのめり込むことなく読もうと思う。

 

 この本は、NHK取材班(井上恭介、夜久恭裕両氏)が取材で見聞きしたことをルポ風の記事にまとめ、筆頭著者がその読み解きをするというつくりになっている。主舞台は、広島局のある中国地方。とりわけ山あいの地域が多い。それは、「里山」を論じるのにふさわしい場所だったと言えよう。「中国山地は、準平原とも呼ばれる浸食の進んだ地形」だ。そこにあるのは「もこもこした山」で険しくないから、人々の生活と結びつきやすい。

 

 岡山県真庭市には、製材作業で出る木くずを無駄にしない建築材メーカーがある。活用法の一つは、そのまま炉に流し入れる木質バイオマス発電。もう一つは、ペレット状に固めてボイラーやストーブの燃料として売ることだ。また広島県庄原市では、「過疎を逆手にとる会」を旗揚げして町おこしをする人が、裏山で集めた木の枝を燃やす「エコストーブ」をつくった。これらの動きは、いずれも里山で炭を焼く営みの現代版と言ってもよいだろう。

 

 読ませどころの一つは、こうした話を地元自慢に終わらせていないことだ。取材班は、欧州オーストリアに出張して木質エネルギー先進国の事情を報告する。そこで見たのは、製材会社が供給するペレットがガソリンのようにタンクローリーで運ばれ、町の一軒一軒に届けられる様子だ。配達された家では、ペレットが全自動で貯蔵庫からボイラーにくべられる。「住人はペレットに全く触れることなく、スイッチ一つで利用できる」というわけだ。

 

 供給側を見れば「森林マイスター」がいる。中小の私有林を管理する人だ。「山の木を切りすぎず、持続可能な林業を実現するために必須の職業」という。そこにあるのは「森が生長した分だけを切る」(森林研修所長の言葉)とする鉄則だ。オーストリアが緑の党元党首を大統領にいただく背景には、需給双方に緑志向のシステムが根づいていることがあるのかもしれない(当欄「欧州揺らぐときのハプスブルク考」2017年3月17日付)。

 

 さて、では里山資本主義とは何か? NHK取材班は「大都市につながれ、吸い取られる対象としての『地域』と決別し、地域内で完結できるものは完結させようという運動」であり、「外部への資源依存を断ち切ることで実現する」と説明する。反グローバル経済の主張に共鳴しつつ、排他主義ではないことも強調している。「地域がベースとなった産業」を重んじるので「互いにつぶし合うほど競争しなくてすむ」というのが、その理由だ。

 

 筆頭著者は、里山資本主義を「お金の循環がすべてを決するという前提で構築された『マネー資本主義』の経済システムの横に、こっそりと、お金に依存しないサブシステムを再構築しておこうという考え方」と位置づける。そこには、マネーゲームの末にリーマン・ショックに至った流れへの批判がある。「サブシステム」の一語からは、通貨経済を受け入れながら別の支えも用意するという柔軟な発想が見てとれる。副題に「安心」とある所以だ。

 

 「外部への資源依存を断ち切る」の見本は庄原市にある。社会福祉法人の理事長は、デイサービスに来た高齢女性から「うちの菜園で作っている野菜は、とうてい食べきれない」と聞いて「お年寄りの作る野菜を施設で活かせばいい」と思いついた。そして、施設のワゴン車が高齢者宅を回り、野菜を買い込むようになる。支払いは地域通貨。地元には、その通貨が使えるレストランもできて、そこでも手づくり野菜が食材に生かされているという。

 

 この本には、里山資本主義らしい逆転の発想が満ちている。たとえば、耕作放棄地の草で乳牛を育てる青年が、こうした放牧では乳の均質化が難しいのを逆利用して「日によって違う牛乳の味」を売り込んでいるという話。「ばらついていることの価値」の再発見だ。

 

 読了して、日本社会は実はかなり里山化しているのではないかとも思う。地ビール、地ワイン、ご当地B級グルメ……。どれもみな、脱外部依存をめざしている。ところが、それらはすぐにブームと化して、どこもかしこも似たような試みを始め、そのことで里山らしさが薄れていく。里山資本主義の要諦は、小さな経済圏を大事にすることにある。全国市場や世界市場で注目を浴びようなどという目立ちたがり精神とは、相容れないように思う。

 

 これは、メディアのブーム志向が里山世界になじまないことを物語ってもいる。せめて当欄は、山の恵みならぬ本の恵みをひっそりと集める里山ブログをめざすことにしよう。

(執筆撮影・尾関章、通算366回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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