『歌謡曲が聴こえる』(片岡義男著、新潮新書)

写真》蔦の葉

 「つたのからまるちゃぺる」と聞いて、初めはなんのことやらわからなかった。メロディーの心地よさに惹かれて僕も口ずさんでいたが、「蔦」が「絡」みついた「チャペル」とわかり、情景を思い描けるようになったのはしばらくたってからだ。今や和製ポップスのスタンダードナンバーと言える「学生時代」のことである。平岡精二作詞作曲。1964年に世に出た。この歌を歌ったペギー葉山さんが4月に死去した。享年83。

 

 メディアの訃報では、ペギーさんの代表曲として「南国土佐を後にして」「ドレミの歌」を挙げている例が多かったように思うが、僕は真っ先に「学生時代」を思い浮かべた。その日は一日じゅう、この歌を口のなかで口ずさんでいた。それは、理由があってのことだ。

 

 これは記憶をもとに書くしかないけれど、ペギーさんが出たテレビ番組で忘れられない場面がある。たぶん1970年代、彼女がフジテレビ系の長寿番組「ミュージックフェア」に出ていて曲の合間に将来の夢などを語っていたときのことだ。司会役の南田洋子・長門裕之夫妻が「そうですか、音楽学校をつくりたいのね?」と相槌を打つと、きっぱりと言い返したのだ。「いや、学校じゃないの、音楽学院。学院のほうがいいでしょ」

 

 唐突な逆襲ではあった。なぜそんな細部にこだわるのか、とも思った。だが、後にペギーさんが青山学院女子高等部卒と知って納得する。彼女の脳裏には、青学のイメージが焼きついていたのだ。これはそのまま「学生時代」の蔦の絡まる礼拝堂につながる。そう言えば、詞を書いた平岡精二さんもまた青学出身だった。この歌から匂ってくるミッションスクールの空気は青学のそれであり、彼女のアイデンティティそのものだったのだろう。

 

 平岡さんは、ヴァイブラフォン奏者として知られるジャズミュージシャン。つくった曲には「爪」「あいつ」などもある。これは歌詞を聴けばすぐわかるように、恋人との別れを歌ったものだ。「爪」は、ペギーさんの持ち歌でもある。平岡・ペギーのコンビは「学生…」のような青春歌謡を発信しただけではなかった。大人の恋をしっとりと歌うジャズも残してくれた。これもまた青学のおしゃれな気風がもたらしたものと言えるかもしれない。

 

 気になるのは、ペギーという名の由来だ。進駐軍のクラブで歌っていたこともあるので、ジャズ歌手のペギー・リーから名づけたのだろうと思っていたが、そうではないらしい。彼女はこの疑問に、自身のブログコメント欄で答えている。学生のころ、電話の混線で知りあったアメリカ人と受話器を通じて英会話の練習をするようになり、名前をつけてと頼んだら「あなたの声のサウンドはPEGGYだ」と言われたのだという。

 

 当欄はこれまでも和製ポップスの先人を思い返してきた。NHK「夢であいましょう」の坂本九や日本テレビ系「シャボン玉ホリデー」のザ・ピーナッツ(2016年7月15日付「選挙翌日、夢とシャボン玉しぼんだ」)、グループサウンズの加瀬邦彦(2015年5月8日付あなたとは世界が違うという話」)やムッシュかまやつ(2017年3月10日付「どうにかなるか、ムッシュに聞こう」)という面々だ。だが、それよりさらに源流がある。

 

 見えてくるのは、電話の「混線」がしばしばあり、そこに聞こえてくる声の主が米国人でも不思議ではなかったという時代だ。戦争が終わって一転、洋風であることが憧憬の的となった。そんな世相を背景に生まれたのが、平岡・ペギーのジャズではなかったか。

 

 で、今週は『歌謡曲が聴こえる』(片岡義男著、新潮新書)。2014年刊。2012〜13年の『新潮45』誌連載をもとにしている。著者は当欄常連の作家。日系二世の父をもち、バタ臭い印象がある。これほどの歌謡曲通であることは、この本で初めて知った。

 

 著者が歌謡曲に目覚めた瞬間は強烈だ。1962年、大学4年の夏に房総からの帰途、フェリーを降りた東京・竹芝桟橋。なんの催しか、仮設舞台に派手な着物姿のこまどり姉妹がいた。「強い風を受けて裾はまくれ上がり、袂は水平になびき、はためいた」「マイクロフォンで拾われスピーカーから放たれる彼女たちの歌声は、風にちぎれていろんな方向へと飛んでいった」。それが、同じ双子デュオでもザ・ピーナッツでなかったことに僕は驚く。

 

 それからの歌謡曲遍歴は半端ではない。それは『全音歌謡曲全集』(全音楽譜出版社)という本を読み、その掲載曲のシングルレコード(「七インチ盤」)を買うことから始まった。はじめは新曲中心だったが、やがて過去の歌謡史もたどるようになる。そのために『全音…』とは別の全集も読み込んだ、という。そのおかげだろう。著者は、終戦直後のヒット曲「リンゴの唄」(サトウハチロー作詞、万城目正作曲)などについても蘊蓄を披露している。

 

 だがここでは、著者の知識よりも体験に目を向けて話を進めることにしよう。中学生だった1953年のことだ。「ある日の夜、ラジオから聴こえていた若い女性が歌うジャズを耳にした父親は、その人はなんという歌手かと僕に訊ねた」。著者が「ナンシー梅木だそうです」と告げると、父は言う。「ナンシーと言っても僕のような二世ではないね。しかし彼女ならいますぐアメリカへいっても、いろんな客の前で歌って、盛んな拍手が来るよ」

 

 著者は父の感想をこう読み解く。「彼が問題にしていたのは英語だったと思う」「発音とは構文であり、そのことは歌であってもなんら変わりはない」「発音そのものも重要だが、それよりもっと切実なのは、構文の正しい理解だ、ということを父親は言いたかったのだと、いま僕は思う」。戦後ほどない日本にも英語をきちんと話せる人々がいた。こうして英名を名乗るジャズ歌手が現れる。ミッションスクールに通うペギーさんもその一人だった。

 

 このナンシー梅木という歌手を僕はリアルタイムでは知らない。この本によると、北海道や東北の進駐軍施設で歌っていたが、その後、東京の民放ラジオなどで活躍するようになった。1955年に米国へ渡り、歌手だけではなく女優の仕事もこなした。特記すべきは、映画「サヨナラ」(ジョシュア・ローガン監督、1957年)でアカデミー助演女優賞を受けたことだ。米国では、本名に戻してミヨシ・ウメキとして活動していたという。

 

 ナンシーは日本時代、歌謡曲を英語だけで歌うことを試みた。「君待てども」(東辰三作詞作曲)の英語版「アイム・ウェイティング・フォ・ユー」(原文のママ)だ。この言葉が、そのまま冒頭の旋律に載った。「英語の歌詞がつき、その歌詞で歌われることなど、誰も想像すらしなかった歌」が英詞と編曲で大化けしたのだ。そして、日本の歌手が「まるでアメリカの歌手のように英語で」「日本で歌って録音する」。そんな画期的な作品となった。

 

 ところが彼女は米国でミヨシになったとたん、今度は日本語を求められる。英語の歌を日本語や日本語交じりの詞にかえて歌うLPもつくられた。さらに興味深いのは、英語で歌うときには「オリエンタルのアクセント」があるという話だ。著者はそれを聴き逃さず、彼女にとって「容姿と演技のチャーミングな様子にさらに加えるなにものか」は「かすかにではあったが確実に存在した、オリエンタルのアクセントだった」と推察している。

 

 この本にはもう一人、芸名に英名を含む歌手が登場する。「有楽町で逢いましょう」(佐伯孝夫作詞、吉田正作曲)のフランク永井だ。著者は、彼が雑誌かどこかで語ったらしい「歌詞の日本語の発音のなかに英語の歌詞の発音のしかたを自分は取り込もうとしている」という趣旨の発言を覚えていて、それは「英語ふうに発音してみる」ことではないと断じる。桑田佳祐流のようには表に出さず、内面に込めた「英語ふう」のニュアンスなのだろう。

 

 おもしろかったのは、田端義夫のギター話。彼は1954年に東京・銀座で買った「アメリカ製の電気ギター」に自分なりの改造を加えて、生涯愛用したという。「オッス」で始まるバタヤンの演歌世界も米国のエレキサウンドと表裏の関係を成していたのである。

 

 敗戦国日本と戦勝国アメリカの違いが際立った時代、その狭間に独自の音楽世界が芽生えた。それを花開かせたのが、ペギーやナンシーやフランクだ。グローバル化の今、その懐かしい旋律群は当時の日本社会が米国に対して抱いていた距離感を伝えてくれる。

(執筆撮影・尾関章、通算367回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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