『ちょっとピンぼけ』(ロバート・キャパ著、川添浩史、井上清一訳、文春文庫)

写真》ネガという言葉

 今年の4月は格別の思いで過ごした。ちょうど40年前、新聞記者になった春のことが記憶に蘇ったのだ。「そう言えば……」と、あのころの仕事ぶりを思い返すと40年の時間幅に改めて気づかされる。いろんなことがすっかり変わった。その一つが写真である。

 

 日本の全国紙記者は入社後、地方支局に送り込まれることが多い。僕も、北陸地方の県庁所在地で最初の4年間を過ごした。そこで先輩から真っ先に教わったのが、写真現像の手順だ。当時の支局には必ず、暗室があった。そこには、現像液を湛えた丈の高い角型タンクが置かれている。光がほとんど絶えた闇のなかでフィルムをパトローネから引きだし、陶製のおもりをつけて沈める。それが、新人記者が身につけるスキルの第1号だった。

 

 この原体験は、記者の取材行為の原点が「目撃」にあることを物語っている。世間には、ジャーナリズムというと記事を思い、写真は記事に添えられるものととらえる向きもあるが、業界内の受けとめ方は異なる。証拠を一つ挙げれば、僕たちはいつでもカメラ必携であったことだ。取材だけではない。私事で遠出するときもそれが当然のたしなみだった。たまたま事件や事故に出くわしたなら、必ずシャッターを押せ、と教えられていた。

 

 だから僕たちは、鞄のどこかにカメラを潜ませておく、というのが習いになった。年を経るごとに小型カメラの性能が高まったのは大助かりだったが、それでも、フィルムを入れ忘れていないか、電池は足りているか、といったことをいつも気にかけていたものだ。

 

 やがて、それが大きく様変わりする。まずは1980年代、「使い捨てカメラ」とも呼ばれたレンズ付きフィルムが登場する。自分のカメラを持ってくるのを忘れても、売店でこれを買えばとりあえずジャッターを押せる。そんな安全弁を手にしたのである。

 

 2000年代に入ると、デジタル化が一気に進む。新聞社では写真部員でさえもデジタルカメラを使うのがふつうになった。書くことを主務とする記者もデジカメを持つようになったが、それだけではない。携帯電話端末の撮影機能も、とっさの出来事には対応できるようになった。さらに続いたのが、スマートフォンの出現だ。くっきりしていて紙面にも耐える写真を撮れる装置をポケットに入れて持ち歩ける時代が到来したのである。

 

 で、今週は『ちょっとピンぼけ』(ロバート・キャパ著、川添浩史、井上清一訳、文春文庫)。著者は戦場カメラマンの草分けとして、あまりにも有名だ。1913年、オーストリア=ハンガリー二重帝国時代のハンガリー・ブダペストで、ユダヤ人家庭に生まれた。スペイン内乱の報道写真で名をあげ、第2次世界大戦でも戦地に赴く。54年にインドシナ戦争の休戦協定が結ばれる直前、ベトナムで地雷によって一命を落とした。

 

 原著は、大戦後まもない1947年に米国の出版社から出た。邦訳は56年、ダヴィッド社から刊行される。79年に文春文庫の1冊となった。この本の魅力は、なんと言ってもその題名だろう。邦題は、原題の“SLIGHTLY OUT OF FOCUS”をそのまま訳している。

 

 ということで、まずは書名の由来と思われる記述に触れておこう。第2次大戦中のことだ。イタリア・シチリア島攻略の米落下傘部隊輸送機に同乗取材後、飛行場のテントに設けられた暗室で現像して米軍情報班の将校とともにジープに乗り込む。その車内で焼いたばかりの写真を見返したときの感想。「それらは、ちょっとピンぼけで、ちょっと露出不足で、構図は何といっても芸術作品とは言えない代物であった」(「ちょっとピンぼけ」に傍点)

 

 そうなのだ、報道写真は腕の確かな写真記者が撮ってもぶれることがある。いや、腕は確かであってもぶれるということが、ニュースの一部なのだろう。輸送機内はこうだった。「降下用意」の緑灯が灯る。「兵隊達はみんな立ち上って、彼らのパラシュートの留紐を真直にのばした。私は自分のカメラを用意した。次に赤い灯……降下の合図である」。こんなドタバタのなかで、これはという一瞬を切りとるのだ。ぶれていてこそ戦争の真実が伝わる。

 

 当たり前かもしれないが、戦場では腹ばいでいることが多いんだな、とも痛感した。たとえば、シチリア島攻略後のイタリア本土戦線。「私はぴったりと地面に腹をつけ、頭を大きな石の蔭によせ、両よこばらは私の両側の二人の兵隊に掩護される。砲弾の炸裂のたびに私は頭をもたげて、私の前方のぺちゃんこにされた兵隊と、爆発の淡く、立上る煙を写真にうつす」。手ぶれどころの騒ぎではない。ピントを合わせるのは至難だっただろう。

 

 この本最大の読みどころは、1944年6月6日(Dデイ)にフランス北部で展開された連合国軍のノルマンディー上陸作戦だ。このときも著者は、海岸に這いつくばっていた。砲弾の破片が降り注ぐなか、ひたすらシャッターを押しまくる。撮りきっても「濡れて、ふるえている手」ではフィルムを交換できない。「予期しない、新たな恐怖が頭のてっぺんから、足のつま先まで私をゆすぶって、顔がゆがんでゆくのが自分にも感じられた」

 

 著者は、このあと味方の装甲艇が近づいてくるのを見て海へ引き返す。「私は戦場から自分が逃げ去ろうとしてることに気がついた」「“俺は船へ手を乾かしにゆこうと思ってるだけなんだ”と自分にいいきかせた」。危険は見届けなくてはならない。だが、見届ければ自らが危険になる。記者の葛藤だ。さてここで気になるのは、彼にとって生命の次に大切なもののこと。「濡れないようにと、頭上高くカメラをさし上げていた」とある。さすがだ。

 

 この章には、「そのときキャパの手はふるえていた」というキャプションが付いた写真が載っている。波のまにまに兵士らしき人影が見え、後方に上陸用舟艇と思しき船が写っている。たしかにぼんやりとしていて、きっと震えのせいだろうと感じさせる。だが後段に、フィルムがロンドン事務所に届けられてからの暗室作業で助手が「昂奮のあまり」温度管理を誤ったためとある。その「昂奮」も含めてDデイの真実だったのだ、と僕は思う。

 

 書名には、たぶんもう一つの妙がある。戦場記者には強面の印象がつきまとうが、この本で綴られているのはユーモアたっぷりの自画像だ。取材の合間に恋を成就しようとする。クビを通告されても仕事を続ける。どこでもすぐに友だちをつくる。「ちょっとピンぼけ」の語感はそんな人間性と響きあう。もっとも人間らしい人間が非人間的な現実を生け捕る。彼の写真から戦争の愚を感じとれるのは、そんな構図があるからかもしれない。

 

 人間らしい人間は彼の周りにもいた。著者が1942年、ニューヨークで失業生活を送っていると、週刊誌の編集部から特派員として英国へ渡ってほしい、と注文がくる。ただ旅券がないし、ハンガリー出身で「敵国人扱い」されているので米国政府の出入国許可も要る。ここで、在米英国大使館に元地質学者の一風変わった情報官がいたことが幸いする。ワインを酌み交わすうちに意気投合して、英総領事や米国務省を動かしてくれた。

 

 英国内の米軍基地で離陸直前の中尉を撮ったときは、写真に写った爆撃機の「鼻先にある小さい黒い点」が問題となった。それが、「最大の機密」とも言える爆撃照準器だったのである。著者は軍法会議の予備訊問に呼ばれるが、その中尉は動じることなく、撮影者には照準器と軍用食の空き缶の違いもわからなかっただろう、という趣旨の証言をした。「不可抗力」だったと弁護してくれたわけだ。寛容な機知が通用する時代だった。

 

 その基地から24機が出撃して、17機しか戻らなかった日のこと。損傷機から負傷した乗組員が運びだされる。息絶えているような人もいる。操縦士には額に傷があった。近づいてレンズを向けたとたん、「どんな気で写真がとれるんだ!」となじられる。このあと「自分を嫌悪し、この職業を憎んだ」とある。と同時に「死んだり、傷ついたりした場面こそ、戦争の真実を人々に訴える」とも書く。きわめて今日的なジャーナリストの苦悩である。

 

 報道写真家が今も戦場に出向くのは、同じ信念からだろう。ただ、ふと思うのは核戦争の脅威だ。そこでは「死んだり、傷ついたりした場面」を撮る時間すら与えられないまま、世界が廃墟となる。ジャーナリズムは、それが起こる前に真実を伝えなければならない。

(執筆撮影・尾関章、通算368回)

 

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