『ポピュリズムとは何か』(ヤン=ヴェルナー・ミュラー著、板橋拓己訳、岩波書店)

写真》朝日新聞2017年5月1日朝刊国際面

 「ほっ」ということだろう。5月の第1日曜日にあったフランス大統領選挙決選投票の結果である。欧州連合(EU)の統合路線を支持するエマニュエル・マクロン氏が、反EUを掲げて強硬な移民規制に乗りだそうとするマリーヌ・ルペン氏を大差で破った。自国第一主義ばかりが目立つ国際情勢にあって、欧州の要となる国の新大統領に近隣との協調を重んじる人が就いたことはなによりの安心材料だ。「ほっ」とする所以である。

 

 ただ、この決戦投票はふつうではなかった。どの国であれ、政権選択選挙では大政党同士がしのぎを削るものだが、その図式が見られなかったのだ。マクロン氏は既成の政党から距離を置く候補。一方、ルペン氏は右翼政党とされる国民戦線を率いてきた人だ。大統領選そのものには与党で左派の社会党も野党で保守の共和党も候補を立てたが、どちらも4月の第1回投票で敗れ、姿を消したのである。こんなことは西側先進国では珍しい。

 

 あえてつけ加えれば、マクロン氏はそれでも既成政党の重力圏にいる人とは言える。とにもかくにも、前任者フランソワ・オランド大統領の社会党政権で経済相を務めていたのである。今回、彼が政党に縛られずに出馬した背景には、右翼政党の勢力拡大に危機感を抱く声が左派のみならず保守層にも広がっていたという事情があるだろう。親EUを合言葉に幅広く票を集めるには1党に与しないほうがいい。そんな計算があっても不思議ではない。

 

 となると、この事態を呼び起こした張本人は、やはりルペン氏だ。というよりも、ルペン人気が半端ではなかったということである。ここで僕のような世代が驚かされるのは、彼女が今浴びる喝采と彼女の父ジャン=マリ・ルペン氏がかつて受けた扱いとの差の大きさだ。父は、1972年に国民戦線を旗揚げした人である。あのころの右翼は、民主主義国では時代錯誤の極みとみなされ、怖くはあったが冷笑の的となる脇役に過ぎなかった。

 

 こんな転変は、いったいどうして起こったのか。メディア流に言えば「ポピュリズムの台頭」の一語で片づけられるだろう。では、そのポピュリズムとは何なのか。当欄もこれまでわかったようなことを書いてきたが、きちんと理解できてはいない。米国大統領選の大番狂わせ、英国国民投票の「まさか」、フランス大統領選の奇異な構図というカードが出そろったところで、この潮流を動かしている社会のメカニズムを探ってみようと思う。

 

 で、今週は文字通り、『ポピュリズムとは何か』(ヤン=ヴェルナー・ミュラー著、板橋拓己訳、岩波書店)。著者は1970年西ドイツ生まれの政治学者。英国オックスフォード大学などで学んだ後、米国プリンストン大学の教授となった。この本の原著は去年刊行され、邦訳は今年4月に出た。著者本人による「日本語版への序文」は、1月にあったドナルド・トランプ米大統領の就任演説にも言及している。まさに旬の1冊と言えよう。

 

 この本は冒頭で、「ポピュリズム」という言葉の乱用を戒める。米国の大統領選出レースでは、トランプ旋風を指して言われただけではない。民主党の候補者指名争いで健闘した左派バーニー・サンダース氏も「ポピュリスト」呼ばわりされたという。「この言葉はたいてい『反エスタブリッシュメント』の同義語として用いられ、特定の政治理念とは無関係のように見える」。だが著者は、こうした大雑把な定義には同意しない。

 

 この本は、序章で「本書は、われわれがポピュリズムを識別し、それに対処することを手助けしようとするものである」と宣言している。これは、いま僕たちが求めているものだ。著者によれば、既成社会のエリート層――すなわちエスタブリッシュメントを批判するだけではポピュリストの「必要条件」を満たしても「十分条件」にならない。では、どんな特質がそろえば、その名を与え得るのか。読み進んでいくと、その答えが見えてくる。

 

 ここでのキーワードは「人民(the people)」だ。日本語でジンミンと聞くと一党独裁の社会主義体制をイメージしがちなので、ヒトビトくらいに訳したほうがよいのかもしれない。著者は、この集合名詞でポピュリズムの本質を見抜く。「ポピュリストは、自分たちが、それも自分たちだけが、人民を代表していると主張する」。裏を返せば「ポピュリストはつねに〈反多元主義者〉」というのである(〈 〉箇所は原文では傍点付き、以下も)。

 

 「ポピュリズムとは、ある特定の〈政治の道徳主義的な想像〉」と、著者は論じる。そこにあるのは「道徳的に純粋で完全に統一された人民」対「腐敗しているか、何らかのかたちで道徳的に劣っているとされたエリート」の構図だという。エリートが堕落しやすいかどうかはさておくとして、人民がそんなに「純粋」であり、しかも「統一」されているとは言い難いように思う。著者も、それを「擬制的(フィクショナル)」と書いている。

 

 ここで引かれるのが、米国の政治家ジョージ・ウォレス氏のアラバマ州知事就任演説(1963年)だ。この人は1968年、米独立党から大統領選に出馬した。公民権運動に反対する右派として僕の脳裏には焼きついている。演説では、「いままでにこの地を歩んだ最も偉大な人民の名において」とことわったうえで人種分離政策を表明したという。強烈な違和感を覚えるのは、人民の分断を「人民」という言葉をもちだして訴える奇矯さである。

 

 著者は「いったい何がこのアラバマ州知事に全てのアメリカ人――ただし『暴政』の支持者たち、すなわちケネディ政権や、人種分離を終わらせるために活動している人びとの支持者を明らかに除いたもの――の名において語る権利を与えたのだろうか」と問う。そこに「偉大なアングロサクソンの南部」を「真のアメリカ」とする歪んだ合衆国観をみて、ポピュリズムの核心には「一部の人民のみが真に人民」ととらえる見方がある、という。

 

 なるほどと思ったのは、ポピュリストに「党」でない党派が目立つことを論じたくだりだ。本文や原注が挙げるのは、フランスの「国民戦線」、イタリアの「北部同盟」。オランダの自由党も、その中心母体は「財団」を名乗っているという。この傾向を、著者は「政党(a party)」という言葉から読み解く。それは「まさに(人民の)一部(a part)」に過ぎない。自分たちは一部ではなく、「真の人民」の「残余なき全体を表している」というわけだ。

 

 著者は、いくつかの学説を踏まえて「民主主義的な政治家」とポピュリストを比べる。その考察によれば、前者は自らの代表権を「仮説」と位置づけて「経験的に反証できるようにしている」。信を失えば、次の選挙で退くということだ。これに対して、後者は「道徳的」な代表を自任するので反証を受けつけない。ピンとくるのは、科学の条件として反証可能性を挙げた哲学者カール・ポパーの見解だ。ポピュリズムは科学と相性が悪いのだろう。

 

 反証可能ということは、間違うことがあるということだ。だから、民主主義は可変の仕掛けを用意する。そこでは「マジョリティの判断は誤りうるし、議論の対象になりうると想定され、マジョリティの交替が前提とされている」。ところが、ポピュリズムでは人民という名の「あらゆる制度の外にある同質的な実体」が想定され、「ひとつの正しい道徳的な決定がある」と考える。民主主義は柔らかいが、ポピュリズムはこわばっている。

 

 「自由委任」と「命令委任」の対比も出てくる。前者は議員に裁量を委ねるが、後者は議員に裁量権がない。民主主義的な憲法下では、政治家は自由委任される代わり、その判断の当否を次の選挙で問う。一方、ポピュリストは自らを「真の人民の忠実なスポークスマン」と規定するので、命令委任に近い立場を標榜する。だが実際は、何を委ねられているかを自分で「解釈」するだけだという。結果としては、こちらのほうが任せきりになる。

 

 貴重な助言は、憲法をめぐる記述だ。著者は、自身がポピュリストとみなす政権を例に挙げて、ポピュリズムの憲法には「多くのきわめて特定的な政策選好を変更不可能にする」という懸念があることを指摘する。見落とせないのは、民主主義の国では「そうした選好をめぐる議論が、日々の政治闘争の対象である」と言い添えていることだ。高等教育の無償化など個別のテーマをもちだして改憲すれば、ポピュリズム憲法同様の硬直が待っている。

 

 僕たちは人民である前に人間だ。人間は誤るのだから政治も柔軟でなくてはならない。

(執筆撮影・尾関章、通算370回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■原則として毎週金曜日に更新、通算回数は前身のブログ/コラムを含みます。

■ブック・アサヒ・コム「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

コメント
コメントする