『南方熊楠コレクション――動と不動のコスモロジー』

(南方熊楠著、中沢新一編、河出文庫)

写真》照り返す常緑広葉樹

 このあいだ当欄で里山のことをとりあげたとき、クヌギやコナラの新緑について書いた(2017年4月28日付「里山のことはもう忘れましたか?」)。明るく、軽やかで、みずみずしい。そんな魅力が落葉広葉樹林にはある。僕が子どものころから馴染んだ東京近郊の雑木林もその一つである。だから樹木の緑と言えば、あの軽快感や透明感がすぐ頭に浮かぶのだが、それは個人史によるところが大きいのかもしれない。そうではない緑もある。

 

 たとえば、照葉樹林。葉っぱが分厚くてテカテカ感のある常緑広葉樹が優勢な林だ。樹種としては、シイ、カシ、クスノキ、タブノキ……といった名が挙がる。こうした森林の連なりはアジアの亜熱帯、暖温帯に広がっており、西南日本はその樹林帯に属する。このことは知識としては知っていたが、それを実感したのは関西に住んでいたころだ。軽やかでなく重い葉、透けるのではなく照り返す緑。そして匂いのきつい樹木もある。

 

 照葉樹林帯の気配をとりわけ強く感じさせるのは和歌山県だ。町にいても、神社の境内などで堂々とした常緑広葉の大木に出会う。山間に入ると、今や植林された杉林が多いが、それでも原生林は残っている。あの多湿な半島を包むものは照葉の空気にほかならない。

 

 その空気が生みだした知の巨人に南方熊楠がいる。理系文系をまたにかけて、博物学にも民俗学にも通じた人。開国まもない明治の世にもかかわらず、米国からキューバ、英国と渡り歩いた国際派。それでいて象牙の塔に籠る大御所とはならず、和歌山県の南紀に腰を据えて自然と書物に向きあった在野精神の持ち主。どの一つをとっても現代人の僕たちが魅せられる人物だ。今年は、その生誕から150年の節目にあたるという。

 

 僕はこの先人に深い敬意を抱いている。当欄の前身では、その著作集『《南方熊楠コレクション》第五巻――森の思想』(責任編集・中沢新一、河出文庫)をとりあげたこともある(文理悠々2011年12月16日付「熊楠が僕らの時代にやってくる」)。このときは表題の通り、彼の思想の今日性に焦点をあてた。いま、生誕150年と聞くと、その先駆性の高さに改めて気づく。ならばもう一度、熊楠本をひもとくことにしよう。

 

 で、今週は同じシリーズの『南方熊楠コレクション――動と不動のコスモロジー』(南方熊楠著、中沢新一編、河出文庫)。この文庫シリーズは独自に編んだアンソロジー企画で、これは第四巻にあたる。初版は1991年刊。僕が手にしたのは2015年の新装版だ。

 

 著者熊楠は1867(慶応3)年、現・和歌山市で生まれ、1941(昭和16)年末に亡くなった。幕末から明治、大正、昭和戦前を生き抜いた人である。編者は50年生まれの人類学者、思想家。80年代にニューアカデミズムの学究として名を馳せた。この本では冒頭に編者執筆の約60ページの解題があり、続いて著者自身の文章が並ぶ。論考のほか在米期の手紙、在英期の日記と、25(大正14)年に書かれた「履歴書」と題する書簡だ。

 

 書名にある「動」と「不動」とは何か? 編者解題は、そのことを著者の生涯に重ねて解説している。編者によれば「熊楠の人生は、大きく分けると、三つの位相でなりたっている」。最初は「空間を放浪した」、次いで「動きを止め、不動点で沈潜した」、おしまいは「その場で動きつづける」。それぞれ、海外に出ていたころ、熊野の山に隠棲したころ、南紀田辺に落ち着いてから、に相当する。位相を象徴するのは地球、森、町と言える。

 

 この解題で、編者は熊楠に惹かれる理由を披歴する。そこに見てとれるのは「魂の内部に、いつも異質な領域からヘテロな力が流入」する主体であり、「『変化する全体性』をかかえてしまった人間」だ、という。その生は「ポストモダン的テーマ」なのだ、とも。そう考えると、熊楠世界の根源にあるのは「動」「不動」のうち「動」のほうだ。「不動点」にあっても異種(ヘテロ)の力を取り込んで動力源を蓄えていた、とみるべきだろう。

 

 本題に入る前に、著者が自分の名前について語った論考「南紀特有の人名――楠の字をつける風習について」に触れておこう。出生地の近くに楠の古木が立つ神社があり、神職が氏子の子の命名にあたって文字を授ける風習があった。その代表例が「楠」「藤」「熊」の3文字。生きものばかりだ。著者は、このうちとりわけ紀州の深い森を感じさせる2字をもらった。照葉樹林の風土を身にまとって育ち、そして世界へ飛びだしたのである。

 

 今回焦点を当てたいのは、1897(明治30)年のロンドン日記だ。元日から大晦日までほぼ全日の行動がわかる。著者は大英博物館に通う身だったが、空いた時間を見つけてあちこちを動きまわっている。乗り物は「カブ」「バス」「トラム」。自動車や電車が登場したころだが、馬車式だった可能性が高い。とくにカブ、即ちタクシーはそうだ。さらに「汽車」や「地下汽車」。当時の地下鉄は電力の導入期で、まだ蒸気機関車が走っていた。

 

 そんななかで僕がうらやましく思ったのは初夏のキューガーデン。ロンドン西郊にある王立の植物園だ。6月4日には友人たちと連れだって訪れ、昼下がりのひとときを過ごした。「汽車にてキウに至り、ハム及卵をくい、麦酒のむ後、植物園一覧す」。きっと、鮮やかな芝の緑を眺めながら遅めのランチをとったのだろう。キューは博物学の留学学徒にとって、ただの息抜きの場ではなかった。日本からの要人のお供をして来園したりもしている。

 

 著者のロンドンでの交遊を分析してみると、いくつかのことがわかる。英国の東洋学者や民俗学者、生物学者らと臆することなく面談しているが、おもに大英博物館本館や自然史博物館でのことだ。いわばビジネスのつきあいである。これに比して、博物館通いの「途上」や「帰途」に立ち寄る相手は多くが日本人だ。ロンドンには邦人社会がすでに根を張っていたことに驚かされる。著者はその中心にいて、宴会の幹事役も務めている。

 

 そのなかには、見世物団の一員で渡欧したらしい本業彫刻師の美術骨董商がいて、彼の店が溜まり場のようになっている(長谷川興蔵執筆「語注」による)。日本社会に収まりきらなかった青年群像が往時の世界の首都に吹き寄せられていたと言ったら言い過ぎか。

 

 こうした交流の様子から、そのころのロンドンでは日本人が疎外されていたのかもしれないとは思う。東洋人への偏見もあったのだろう。それが露わになったのが大英博物館殴打事件だ。著者は11月8日、図書室で英国人とみられる閲覧者を「ぶちのめす」。相手は「積年予に軽侮を加しやつ也」とある。このときは館に一札入れて収まった。これより早く4月にも、路上で「女の嘲弄」に遭ってあばれ、警察に拘束されたことが記述されている。

 

 だが、著者は狭い在英日本人社会に籠っていたわけではない。一例を挙げれば、三民主義を唱えた中国の革命指導者孫文との出会いだ。3月に限っても16日の初対面から月末までに、その名が日記に記された日は8回。26日から3日間は連日、夕食をともにしている。「夜、孫文氏とオクスフォード街ビアナ食肆に食す」「孫文氏とトテンハムコート街ショラー方に飯す(下等食店)」という具合だ。よほど意気投合したのに違いない。

 

 もう一つ興味深いのは、ハイドパークで無名人の演説をしばしば聴いていたことだ。この公園のスピーカーズコーナーという一角で足をとめたのだろう。たとえば、6月30日は「夕、ハイドパークにて無神論の演舌きく」、翌夕も「無神論演舌きく」、一日おいてまた「無神論演舌」だ。やがて「演舌家」の一人が博物館を訪ねて来たりもする。革命家、無神論……。著者の心は、既成社会主流から疎ましがられた人や思想に敏感に反応している。

 

 編者提案の「三つの位相」で言えば、このロンドン時代は第1期「空間を放浪した」に相当する。だが日記を読むと、町に住みついて「その場で動きつづける」という点で第3期にも似ている。著者は「孤高」と言われるが、その心はいつも他者とともにあった。

 

 排他の風潮が強まる今、熊楠から教えられることは多い。彼は差別に怒ったが、偏狭にはならなかった。むしろ抵抗の人、異端の人に耳を傾けている。寛容とはそういうことだ。

(執筆撮影・尾関章、通算371回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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