『戦争法原理』

(『人間不平等起源論 付「戦争法原理」』〈ジャン=ジャック・ルソー著、坂倉裕治訳、講談社学術文庫〉所収)

写真》いくさは盤上で

 戦争がこんなにもリアルに思えたことが、60年を超える来し方にあっただろうか。今春以降の極東情勢である。とりわけ4月は、その緊迫が頂点に達した。連休が終わっても自分は生き永らえているだろうか。半ば本気で、そんな心配をしたのである。

 

 もちろん、いま中東シリアで進行していることや、かつて旧ユーゴスラビアであったようなことが、ここ東京で起こるという予感はない。街路を兵士たちが駆けまわり、ビル壁が弾痕だらけになる、という地上戦が繰り広げられることはまずないだろう。僕たちにとってリアルな戦争とは、突発瞬時の災厄だ。飛翔体があれよあれよという間に近づいてきて、迎撃されなければどこかへ着弾する。と同時に反撃が始まって恐慌状態に陥る。

 

 もしも、その飛翔体に核弾頭が付いていたらどうなるか。着弾地点の周辺は、なにもかもが吹っ飛んで影もかたちもなくなる。いや、それだけではない。放射性物質がところかまわず飛散して、生き延びた人々も幾年もの間、目に見えないリスクに曝されるのである。

 

 そう言えば、と思いだすのは1962年のキューバ危機だ。ソ連がキューバに攻撃用ミサイルを配備しようとしている、しかもそれは核も搭載できるらしい。そんな情報を米国政府がつかんで米ソ核戦争の懸念が一気に高まった。僕は小学生だったが、給食の時間にラジオから流れる子ども向けのニュース解説を聴いて「一触即発の事態」に心がざわついたのである(当欄2015年11月13日付「米大統領選で僕の血が騒ぐワケ」)。

 

 ただ、あのときと今度を比べると、大きな違いがある。あのときは、子ども心に「大人がうまく解決してくれるだろう」と思えた。そして実際、上記拙稿でとりあげた『13日間――キューバ危機回顧録』(ロバート・ケネディ著、毎日新聞社外信部訳、中公文庫)にあるように、米国のジョン・F・ケネディ大統領とソ連のニキータ・フルシチョフ首相が書簡による対話で事態を収めるのである。期待に応えて、大人は賢明だった。

 

 今の大人にそんな賢明さがあるか、というと首をかしげざるを得ない。目につくのは強権政治に根ざす大国志向やポピュリズムに支えられた自国第一主義だから、冷戦時代の超大国首脳のように、自らが世界の守り手という傲慢半分の矜持が感じとれないのである。

 

 で今週は、『戦争法原理』という古典論考。『人間不平等起源論 付「戦争法原理」』(ジャン=ジャック・ルソー著、坂倉裕治訳、講談社学術文庫)に収められている。著者(1712〜1778)はジュネーブ出身、フランス思想界で論陣を張ったあのルソーである。

 

 中身に入るまえに、訳者解説によって予習しておきたいことがある。まず、戦争法とは何か。それは、「複数の政治体の間の関係を調整する」ための「『国際公法』ないし『万民法』の一領域」と位置づけられる。ここで、政治体は「国家」と言い換えてよいという。

 

 この論考が執筆されたとみられる1750年代、欧州列強はオーストリア側とプロイセン側の二方に分かれて七年戦争を始めた。植民地をめぐっても紛争が絶えない。こうしたなかで「戦乱と無秩序をいかに克服するか」が思想界の論題に浮上した。すでに欧州には「法にかなった正当な戦争と正当でない戦争とを区別することで、戦争を可能な限り制限しよう」と考える戦争法の発想があった。著者の立論はこの系譜にある、と訳者はみる。

 

 もう一つ、解説によって知ったのは、この論考が著者の存命中に刊行されたものではないことだ。20世紀後半、遺された草稿の断片をつなぎ合わせることで2部構成のうちの第1部が「復元」されたという。論考全体の前半でしかないから、戦争法について十分に明示的には論述されていない。「万民法」は「制裁をもたないために」「空想の産物になっている」という悲観論が出てくるくらいだ。読みどころは、むしろ著者の戦争観にある。

 

 論考本体を見ていこう。著者によれば、戦争は当事者が「冷静で理性が働く状態」にあって「自らの存在の安全と、脅威となっている存在とが両立できない」と判断したときに起こる。ただの殺人には帰せない、というわけだ。条件として挙げるのは「明白で一貫した意志」や「持続的な決意」の存在、そして「関係が相互的」ということだ。双方とも和平の成立までは、戦闘がなくとも兵器の準備などの「軍事行動」を続けることになるという。

 

 著者は、戦争が人間の自然な本性に起因するという考え方をとことん批判する。17世紀英国の哲学者トマス・ホッブズは「万人の万人に対する闘い」に人の自然状態をみたが、これに対して異を唱える。「人間は自然にかなったあり方では、平和を好み、臆病」というのだ。しかも、個人レベルの問題は「関係性や利害を絶えず変化させる絶え間ない流れ」に曝されているので、戦争を特徴づける「一貫」や「持続」は生まれにくいと論ずる。

 

 「名誉心、利害心、偏見、復讐心、危険や死をものともしなくさせうるような情念はすべて、自然状態における人間とは無縁」としたうえで「ほかの人とともに社会を形成した後になってはじめて、他の人を攻撃しようと考える」と言い切っている点は、性善説がやや過ぎるように思う。ただ戦争様式の攻撃に限って言えば、組織的な武力行使なのだから、当を得ていると言えよう。そこにあるのは、人々が「人為的な協約」を結んだ社会だ。

 

 その「人為的な協約」を具現したものが、政治体としての国家と言えよう。この本は、それが戦争に走りがちな理由を説明する。ひとことで言えば、制約のなさだ。個々の人間は寿命が限られているので、いつまでも生きられない。どんな金持ちでも、胃袋の大きさを超える大食は無理だ。「自然によって定められた力と大きさの限度」があることを本人も承知している。ところが、国家には「その大きさにいかなる定めもない」というのである。

 

 一つの国家は「安全と保全のために、近隣のいかなる国家よりも強大であることが求められる」――人間と違って制約を自覚することなく、強迫観念ばかりが膨らんで戦乱の泥沼にはまる。これこそが近代史ではないか。だから、戦争を町のけんかにたとえるのは愚かなことだ、と僕は思う。集団的自衛権の論争で、不良グループに殴りかかられたときに友だち同士が力を合わせる話がもちだされたが、その比喩は国家の生理を見落としている。

 

 さて、ここで著者の国家観に立ち入らなくてはならない。18世紀中葉と言えば、フランスはまだ絶対王政の統治下にあったが、それでも、国を成り立たせているものを「社会契約」とみた。この本でも「政治体の生命の原理、そういってよければ、国家の心臓となるものは、社会契約」と明言している。著者の思想によれば、その契約は「一般意志」に宿る。これは人々が結びついて生まれる公の「自我」がもつもので、公共の利益を追求する。

 

 で、再び戦争の話に戻ろう。戦時に相手の国家を滅ぼそうとすれば、心臓部の社会契約を断てばよいのだが、そのありかは一般意志という無形の存在なので「簡単には破棄できない」。そこで攻撃の矛先は、生命そのものではなく「生命を維持させているもの」に向けられる、と著者はみる。結果として「政府、法律、習俗、富、所有物、人間たち」といった「国家を保全させているすべてのもの」を消滅させる企てにつながる、というのだ。

 

 ここから、唐突な思考実験が出てくる。回りくどい兵糧攻めをしなくても「社会契約が一撃で断ち切れてしまう」なら「この一撃で国家は滅亡するけれども、人間はただのひとりも殺されはしない」。無血戦争が実現する、という理屈だ。出勤したら、職場はそのままなのに経営者が代わっていたという企業乗っ取りに似た事態だろうか。社会契約が株式のようにやりとり可能なら、そんなこともあるだろう。だが、現実にはありそうもない。

 

 それで思うのは、国家という政治体の古臭さだ。近代を象徴する社会契約は、今日の民主社会でも実体を伴っているように見えない。それなのに戦争の技術は制約をわきまえず、人類にとって致死的となった。だから無血とは逆に、人が滅んで国の名が残ることもある。

(執筆撮影・尾関章、通算372回)

 

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