『悲の器』(高橋和巳著、河出文庫)

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 いまの時代、エリートがいなくなったなあ、とつくづく思う。この兆しは全世界に共通するようにも感じるが、すでに顕著に見えるのが日本社会の中枢部だ。霞が関の高級官僚はまぎれもなくエリートのはずだが、それなのにエリートらしさがなくなってしまった。

 

 なによりも、「総理のご意向」騒動がそうだ。あの文面がどれほど真実を表しているかどうかは問題ではない。たとえ首相がなにも言っておらず、だれかが勝手につけ加えた言葉だったとしても、それが葵の御紋のように使われたことがエリートの実情を物語る。もちろん、官庁は上下関係で成り立つ組織だから「総理」は最強の存在だ。だが、その「意向」さえも冷静に吟味するほど、昔の高級官僚はエリート然としていたように思う。

 

 先日の当欄「役人コトバを嫌って、佐高本に酔う」(2017年4月7日付)では、お役人が「……してございます」という気味の悪い丁寧表現を用いる事情を考察した。この語法は、官僚が自らのエリート度の高さを薄めてみせる小道具だということ、さらに官僚たたきの風潮から身を交わす防具だというのが僕の見方だった。それに加えてもう一つ、首相官邸の官僚支配が強まったことが背景にあるらしい、と今回の騒動からわかった。

 

 この状況をポピュリズムの台頭と重ねてみよう。当欄「仏大統領選挙済んでポピュリズム考」(2017年5月26日付)でとりあげた『ポピュリズムとは何か』(ヤン=ヴェルナー・ミュラー著、板橋拓己訳、岩波書店)によれば、エリート批判はポピュリズムの「必要条件」ではあるようだ。だから今、日本でも高級官僚が批判の矢面に立たされているが、ただその標的そのものが弱体化している。本当に闘うべき相手は、たぶん別にあるのだろう。

 

 かつての日本社会は、どうだったか。1960年代を振り返ってみると、日本社会は霞が関の官僚集団によって統治されている、と子ども心にも感じていた。政治家には知的で賢明で公正な人もいたが、いい加減そうな人も多かった。清濁併せ呑むという生き方が指弾されないどころか、かえって大人物の条件のように受けとめられる傾向もあった。そのせいか、政策決定でも国会答弁でも官僚集団がすべてを仕切っていたように思える。

 

 あのころは良かった、というつもりは毛頭ない。ただ、かつて日本社会を支えたエリート体制の本質を見抜いておくべきだ、とは思う。ポピュリズムのように感情を高ぶらせるのではなく、理性によって脱エリート依存の社会を築くためには過去から学ぶ必要がある。

 

 で今週は、昭和日本のエリートについて考えさせてくれる1冊。長編小説『悲の器』(高橋和巳著、河出文庫)である。著者(1931〜1971)は中国文学が専門の人だが、団塊の世代にとってはカリスマ作家だった。自身は戦時に少年期を過ごし、戦後に大学で学んだ。軍国主義から左翼の台頭へ、そして再びの右旋回。そんな世相に揉まれた知識人の嘘や弱さを肌身に感じて、世に問うた。それが、戦後生まれの若者の心をとらえたのである。

 

 この作品は1962年に文藝賞を受け、直後に河出書房新社から単行本が出た。今回の文庫化は去年9月。その直後に僕は拙稿を書いたのだが、きっかけを見いだせずに寝かせていた。それが最近、霞が関エリートたちの情ない姿を見るに至り、書き直して出稿することにしたのだ。もう一つの理由は、俳優野際陽子さんの死去。ネット情報によると、彼女は1963年、本作のドラマ化作品(TBS系)に出演したという。その追悼の思いもある。

 

 作品は「一片の新聞記事から、私の動揺がはじまったことは残念ながら事実である」という一文で始まる。記事によれば、某大学法学部教授正木典膳(55)は妻に先立たれた身なので、名誉教授の令嬢(27)との再婚を決めたが、これに対して同居の家政婦(45)が民事訴訟に打って出た、という話だ。「肉体をふみにじり、女ひとりの運命をもてあそんだ」として「婚約不履行」と「共同生活不当破棄」を理由に損害賠償を求めたのである。

 

 この話題はしばらく新聞を賑わす。「漫談家と婦人評論家の対談」「農家の主婦の投書」「いわゆる進歩的文化人の寸評」……。週刊誌も令嬢のひと言を引きだし、総合雑誌は典膳の弟である神父の「弾劾文」を載せた。ネット社会の先取りのようなメディアの集中砲火だ。

 

 小説の舞台となる某大学は、東大とみてよいだろう。まだ旧憲法下の話だが、「わが国の官僚組織の人材供給源である最高学府」と形容されているからだ。正木はその帝国大学助教授から検事となり、戦後、最高検察庁から古巣に戻った。学究ではあるが、権力の側について官僚社会の空気も吸っている。彼の醜聞を糸口に一つの小説世界を構築することで、著者は日本の政治体制の中心にいたエリートの危うさをえぐり出したと言えよう。

 

 この作品の読みどころは法学をめぐる記述。主人公の学説は「すべての犯罪は」「確信犯とみなす」とする「確信犯理論」だ。「すべての行為の行為責任は、その行為をなした行為者に帰せられねばならない」との立場なので「正木厳法主義」と呼ばれている。

 

 この確信犯論議をめぐっては、旧憲法下の検事局の描写に圧倒される。局内には「確信犯問題研究調査班」があって、検事たちが「禁入室」の一室で大議論を始める。そこで繰り広げられる理詰めのやりとりに、この作品は約10ページも割いている。ルソーやカントなど先哲の思想をもちだしての論理展開。考えてみれば、この青臭さこそがエリートらしさではないか。官庁は象牙の塔の延長だった。それが今、ただの組織に変質したように思う。

 

 この小説では、主人公を1958年に岸信介政権が提出して結局は未成立に終わった警察官職務執行法(警職法)改正案に向きあわせる。正木は国会の公聴会に与党側から呼ばれるが、不賛成を表明する。犯罪の予防力を強める法制に異を唱え、「現に犯された行為に対してのみ厳罰をもってのぞめば充分」と言い切ったのだ。行為によってのみ責任を問う、というのが「確信犯理論」の帰結だった。法学者としての筋を通したのである。

 

 ここで正木は「意識的な犯罪を、その可能性の予測によって検束しうるとすれば、すべての人間を検束しうる」と過剰予防を戒めている。彼の「確信犯理論」は「厳法主義」だが、その一方で「人が自由であることを認める」。昨今の共謀罪拡張論にはない平衡感覚だ。

 

 公聴会に臨む前、正木は学生運動家から法案撤回の立場をとるよう迫られて、こう言っていた。「川に一つの橋をかけるのに、これだけの材料と、こうした構造が必要だと工学者が設計図を示せば、人は信用するだろう」「わたしは法律家だ。君たちが心配してくれなくとも、公聴会では学問的にたしかなことのみを述べるであろう」。専門案件は専門家に任せろ、というわけか。興味深いのは、正木がここで科学技術を引きあいに出していることだ。

 

 理系の物事に素人は口を出せないという思い込みが、統治制度にまで及んでいたのである。日本社会のエリート体制は専門家任せの風土の表出だったのだとも言える。3・11の原発事故で理系専門家の信頼度が低下した今、正木の論理はもはや通用しない。

 

 正木の発想の問題点は、作品に出てくる無名な筆者の雑誌論考も指摘している。「正木法学の、統治機能よりは公共役務、個人権よりは社会的職分を重視し、一切を法的地位に還元しようとする主張は、かつてある進歩性をもっていた」。それは「天皇機関説の崩壊後」に「統帥権の体系に代置」すべく出された機関説の一つとみてよいという。だが「官僚合理主義」にのみ期待して「法の王国から、人間の自然的価値を追放した」と痛烈に批判する。

 

 私生活の話題に戻って苦笑を禁じ得ないのは、家政婦と令嬢二人への愛を断ちきれない正木の自省だ。「私はまったく無関係に二つの像を思い浮べ、しかも、なんの罪の意識もなく、その重複する像を同時に眺めていた」「排中律が、そのとき私の精神のなかで根拠をうしない、倫理的にではなく、論理的に自分が破滅しそうな危険を感じた」。人間の情愛に「排中律」を当てはめようとする愚かさ。それもまたエリートの弱点かもしれない。

 

 エリートは頼れない。だから、僕たちがもう少し論理的にならねばならないのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算374回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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コメント
《英訳することで、若い時には読み飛ばしていた、深い内容を改めて読めるのも楽しみです》(藤田伊織さん)
同世代ですから、そのお仕事の意義深さがいっそう強く感じられます。別の言語に置き換えることで高橋和巳の世界を普遍化できる。と同時に、ご自身にとっても発見があるのでは?
ご完訳を楽しみにしております。
  • by 尾関章
  • 2020/05/14 10:08 AM
尾関晃さま
「悲の器」ーーそれが、戦後生まれの若者の心をとらえたのである。
もう3年も前の書き込みですが、コメントさせてください。
私は1970年に大学に入りました。大学は、すでに何事も起こっていなかったような空間でした。でも、高校生時代に見てきた出来事にうなされるように、真剣に高橋和巳を読みました。それが、来年没後50年ですが、もう風化してしまっていました。でも、日本以外の国では、まだ、この時代の日本のように、苦しんでいる人々がいて、そういう人たちに読んでもらいたくなって、英訳することにしました。高橋和巳の小説でこれまで外国語に翻訳されたものはありませんでした。現在は、すでに著作権継承者から正式な許諾をいただいて、英訳を進め、もう14章まで進んでいます。今年中には完了させて、来年の記念の年に間に合わせようと、頑張っています。翻訳は非常に手間がかかります。ブログにもお書きになったように、法学理論など難しい言葉の羅列です。でも、英訳することで、若い時には読み飛ばしていた、深い内容を改めて読めるのも楽しみです。関心のありそうな方々にご紹介いただければ幸いです。
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