『ミュシャのすべて』

(堺 アルフォンス・ミュシャ館〈堺市立文化館〉協力、KADOKAWA編、角川新書)

写真》展覧会の記憶

 ちょうど25年前になる。1992年の早春、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボを訪れた。旧ユーゴスラビアでは東西冷戦が終結して民族間の対立が露わになり、北部クロアチアで分離独立をめぐる内戦が勃発して間もないころだった。僕は科学記者として「国際貢献」の実相を新聞記事にする取材班に加わっていたので、旧ユーゴで国際医療NGOの活動を追いかけた。このとき、首都ベオグラードからサラエボにも足を延ばしたのである。

 

 サラエボに赴いたとき、そこはまだ平穏だった。街頭活動は激しくなっていたようだが、戦闘はなかった。「われわれは、あんな真似はしない」。病院で取材に応じた医師の一人が口にした言葉は、今も忘れられない。自分たちは民族感情を暴発させたりしないという自負の念を感じた。だがそれからひと月もしないで、ボスニア・ヘルツェゴビナも内戦状態に突入する。3年半に及ぶ戦闘は、旧ユーゴ紛争でもっとも苛烈なものだったと言えよう。

 

 ただ、あのときは嵐の前の静けさで、仕事の合間に街をぶらぶら歩きすることもできた。たぶん、早朝ではなかったか。静まりかえった石畳の旧市街に入って一瞬、頭がクラクラしたことを覚えている。「僕はいま、京都にいるのではないか」。そんな錯覚に陥ったのだ。低層の家並みが続いていて、軒の出し方などは日本の町家にそっくりだった。木造も多かったように思う。欧州の一角なのにアジアの風土が入り込んでいる、と痛感した。

 

 ボスニア・ヘルツェゴビナは、かつてユーゴスラビア社会主義連邦共和国に属する一つの国だったが、今は完全に独り立ちしている。ただややこしいのは、その国がボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国の二つから成り立っていることだ。ボスニア・ヘルツェゴビナという名の国の一部にまったく同名の連邦もあり、そのなかにまた構成単位があるという入れ子構造。この複雑さはそのままこの国の民族事情を映している。

 

 この地域の住人は、大きく分ければボシュニャク人、クロアチア人とセルビア人の3民族から成る。ボシュニャク人は、オスマン帝国支配の時代にイスラム教を信ずるようになった人々の流れを汲む。クロアチア人はカトリック教徒が主流。セルビア人にはギリシャ正教を信仰している人が多く、スルプスカ共和国の中心勢力となっている。ここで見落とせないのは、いずれも南スラブ人であることだ。宗教が民族を分かったのだとも言えよう。

 

 この状況は、一朝一夕に生まれたものではない。この地域に外から巨大な教権や政権の大波が押し寄せ、それに呑み込まれた史実が、そこにはある。サラエボの街で感じたアジアの気配も、その名残だろう。民族のモザイク模様は、歴史の投影にほかならない。

 

 で、今週は『ミュシャのすべて』(堺 アルフォンス・ミュシャ館〈堺市立文化館〉協力、KADOKAWA編、角川新書)。2013年に『ミュシャの世界』(同館協力、新人物往来社)として出た単行本に加筆して、改めて編集したものだという。

 

 アルフォンス・ミュシャ(1860〜1939)は、チェコ・モラビア地方出身の芸術家。姓は母国語読みではムハという。ポスターから絵画、工芸まで幅広い作品群を生みだした。後半生に打ち込んだのが、テンペラ・油彩画20点の連作「スラヴ叙事詩」。それが今年3月から6月初めまで東京・国立新美術館で開かれた「ミュシャ展」(主催は同館など)で一挙公開され、僕も閉幕直前に駆け込みで観てきた。平日なのに30分待ちの大行列。

 

 展覧会場に入って、まず驚かされたのは「スラヴ…」作品群の大きさだ。大きめのものは約6m×約8m、それ以外のものも縦横それぞれ数メートルはある。一部は「撮影可能」とされていたから、いまどきのことでスマホを掲げて撮る入場客が目立った。

 

 ことわっておきたいのは、「スラヴ…」がこの展覧会のすべてではなかったことだ。鑑賞順路では、この後に「ミュシャとアール・ヌーヴォー」「世紀末の祝祭」といったコーナーが続く。ただ制作順でみれば、前後が逆転する。ミュシャは世紀末のパリへ出てアール・ヌーヴォー風のポスターや装飾パネルなどを手がけた後、20世紀に入って民族愛に根ざす歴史絵画の大作に取り組んだ。優美から重厚へ。この変身はどこに起因するのか。

 

 それが知りたくて、ネット通販でこの本を手にとったという次第。奥付に「協力」とある大阪府堺市の文化施設には、ミュシャや彼と関係が深い芸術家の作品約500点が集められているという。作品の画像提供などで大きな力となったのだろう。執筆陣は、多くの展覧会企画を手がけてきた冨田章氏、19世紀末のフランス文化に通じた白田由樹氏、チェコに留学経験があり、連作「スラヴ…」の制作事情に詳しい小野尚子氏の3人。

 

 冒頭の冨田氏執筆部分では「ミュシャには二つの顔がある」と言い切っている。一つは、前半生の「グラフィック・デザイナー」。もう一つは、後半生の「歴史画家」。後者の志向が強まったのはどうしてか。「きっかけは一九〇〇年のパリ万国博覧会で、オーストリア政府の依頼によりボスニア・ヘルツェゴヴィナのパヴィリオン装飾をおこなったことだった」。この記述を読んで、僕はなるほどと納得する。あのサラエボが思いだされたのだ。

 

 当時、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア=ハンガリー帝国の一部だった。オスマンという一つの帝国が去った後、別の帝国が居すわっていたのだ。ミュシャは「スラヴ民族がゲルマン民族に支配されている状況」のもとで、被支配域文化の展示を支配体制の側から頼まれたことになる。スラブ色の強いモラビアの出身者として、さぞ複雑な心境だっただろう。このときに「スラヴ民族の歴史を描く最初の構想を抱いた」らしい。

 

 小野氏執筆部分によると、ミュシャは南スラブを取材して「現地に残る古きよき素朴な生活体系や伝統に大きく感銘を受けた」。それをもとに描いた万博展示館の内装壁画は、従来のようにアール・ヌーヴォー風の植物をあしらいながら「歴史上の出来事を緩やかに関連付けて並べている」。本人が後年、展覧会のカタログで打ち明けているように「南スラヴの壁画の制作中」に「《スラヴ叙事詩》となる大作を制作する決心をした」のである。

 

 ミュシャは1910年、チェコ・ボヘミアで古城の一部を借りて家族とともに移り住み、翌年から「スラヴ…」にとりかかる。城内のホールは「自然光が明るく射しこむ広いアトリエ」となり、そこに大ぶりの画布を張る「伸縮可能な鉄製の枠」が置かれた、という。最初に構図や人物の位置取り、ポーズを決めてゆき、次いでその再現写真を撮るという手順。モデルは自分自身や家族、そして地元の人々が務めたとみられている。

 

 そうやって十数年がかりで完成した連作は、時空の両面でスラブ民族の歴史を広くとらえていた。まず空間について言えば、東欧、中欧を中心に地中海から北海、バルト海まで南北を貫いて、さらにロシアも視野に入れている。時間軸も壮大だ。通し番号1「原故郷のスラヴ民族」では紀元前3〜6世紀ごろの原風景が、19「ロシアの農奴制廃止」では19世紀モスクワの光景が描かれ、20「スラヴ讃歌」では第1次大戦戦勝国の国旗がなびく。

 

 なかでも圧巻は、チェコを舞台に反骨の宗教家を描いた作品群だ。その中心にあるのは、7「クロムニェジーシュのミリーチ」、9「ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師」、10「クジーシュキでの集会」から成る「言葉の魔力」3部作。それぞれ、14世紀に娼婦たちの避難所となる修道院を開いたヤン・ミリーチ、14〜15世紀にキリスト教改革を訴えたヤン・フス、フス処刑後に闘争を呼びかけたヴァーツラフ・コランダが登場する。

 

 13「フス派の王イジー・ス・ポジェブラト」も強烈だ。ボヘミア王が椅子をひっくり返して怒っている。ローマ教皇の使者が、フス派の聖体拝領がカトリック方式と異なるとしてやめるよう求めたのを拒む場面だ。プロテスタント勃興の先取りだったと言えよう。

 

 民族主義は抵抗のなかでこそ輝く。自国第一の排他主義のなかで、ではない。ミュシャが浮かびあがらせたスラブ2000年余のイメージから、そんなことが伝わってくる。

(執筆撮影・尾関章、通算375回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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