『十津川警部 ロマンの死、銀山温泉』(西村京太郎著、文春文庫)

写真》山形といえば紅花

 テレビ界を席巻していた2時間ミステリー(2H、Hはhourの頭文字)が存亡の危機にあることは、当欄ですでに嘆いた(2017年3月24日付「渡瀬恒彦、2Hとともに去りぬ」)。それを蒸しかえすつもりはないが、このまま座視してもいられない。世の2H党は、それをなぜ求めるのかを、ああでもない、こうでもないと語ってほしい。飲み会の格好の話題にはなる。そこから再興の可能性も見えてくるだろう。今週は、その糸口となる一文。

 

 そのまえに、事情に通じていない方のための予習講座。そもそも2Hとは何か。テレビ番組表には、かつて一世を風靡した火曜サスペンス劇場(日本テレビ系)や今春幕を閉じた土曜ワイド劇場(テレビ朝日系)のような2時間ドラマ枠があって、この枠で放映されるものはすべてその範疇に入る。ただ、そこにも「2Hらしさ」のあるものとないものがある。「らしさ」の真髄は、あのまったり感。僕がここで語りたいのは、そんな2Hらしい2Hだ。

 

 まったり感は、渾身の一作からはなかなか出てこない。定番のシリーズものにこそ、それは宿る。たとえば、西村京太郎原作の十津川警部シリーズ、内田康夫原作の浅見光彦シリーズがそうだ。どちらも複数局が競作してきたのだから、2Hのど真ん中にあると言ってよい。ほかに笹沢左保原作の「タクシードライバーの推理日誌」や原作のない「温泉若おかみの殺人推理」(ともにテレ朝系)も、とくに挙げておきたいシリーズではある。

 

 一つのシリーズは年に2回ほどのペースで放映されてきた。これは1960年代、邦画全盛期に封切られていたシリーズものの頻度に近い。回を重ねても俳優陣やその役柄がほぼ固定されているので、観ていると行きつけの店で和んでいる気になる。2Hでは、事件の謎を解く人々――刑事やルポライター、タクシー運転手やおかみ――が常連。毎回、お約束のギャグを飛ばすキャラも顔を出す。ここが、まったり感の源泉だろう。

 

 マンネリには違いない。だからこそまったり感があるのだが、それも度が過ぎれば娯楽作品として失格だ。そこで、スパイス役を果たすのが旅情。作品の舞台に観光地を選んで、回ごとに場所を代えるという趣向が目立つ。刑事やタクシー運転手が管内や営業域にこだわらず津々浦々へ足を延ばすだけではない。同じおかみが次の回ではまったく違う温泉郷の旅館を仕切っていたり、警察署長や捜査検事が転勤を繰り返したりという形式もある。

 

 ここで、ちょっとディープな2H視聴法を伝授しよう。テレビを観ながら、ネットを駆使して旅行気分を味わうというものだ。地元の観光協会サイトに入って、ロケ地となった名所旧跡をたどる。旅館やホテルは実名で出てくることが多いので、その公式サイトを開いて露天風呂の画像にエア入湯する。これは再放送ものではうまくいくのだが、初放映ではアクセスが殺到して画面がすぐに出てこないことがしばしばだ。世に2H党は多いのである。

 

 で、今週は長編ミステリー『十津川警部 ロマンの死、銀山温泉』(西村京太郎著、文春文庫)。なぜ「十津川警部」なのか、そして「ロマンの死」なのか、とは聞かないでほしい。実は先日、1泊2日の東北旅行に出て山形県銀山温泉に宿をとった。梅雨どきなので名所巡りは難しそうだ、ならば温泉街そのものを楽しもう、と選んだのである。そのご当地ものが、この1冊。カッパ・ノベルスから2002年に出た。文春文庫版は11年刊。

 

 十津川警部ものというと鉄道ダイヤを駆使したアリバイ工作などが思い浮かぶが、この一編にはトリックらしいトリックが出てこない。どちらかと言えば、社会派の風合い。だが、リアリズムで権力権威の深部に切り込むという緊迫感はない。では、どこに読みどころがあるのか。ページを繰るうちに感じとれたのは、2000年前後の世相がそのまま映しだされていることだ。それは、登場人物のなんとなく盛りあがらない様子にみてとれる。

 

 小説は「十月一日の昼ごろ、京成(けいせい)電鉄江戸川(えどがわ)駅前の雑居ビルの五階にあるN金融の支店に、目出し帽をかぶった若い男が押し入った」という描写で始まる。消費者金融を襲った強盗事件だ。支店長は「危険なときは、現金を渡せ」という本店の方針通り、そんなときのために準備していた100万円の束三つを渡そうとした。男は「札束を二つ、ジャンパーのポケットにねじ込んだ」。不思議なことに束一つを残したのである。

 

 それからしばらく東京都内で奇妙な出来事が続く。1単位200万円の犯罪だ。子どもの誘拐事件では身代金が400万円、社長愛人宅での現金強奪事件でも被害額は同じ。ともに男女2人組の犯行だったので1人200万円の分け前になる。さらに大手企業幹部が電車内で罠にかかったように痴漢事件を起こして、ここでも1単位が動く。被害女性が要求して手にした示談金が200万円だったのだ。定額しかとらない企ての続発である。

 

 強盗をしても人命は奪わない。誘拐では子どもを傷つけずに返す。罪を犯して富を再分配する義賊の匂いもするが、それならもっと大金のあるところからもっと高額を手に入れそうなものだ。なぜ200万円なのか。そこにも、なんとなく盛りあがらない世相がある。

 

 この小説では、一連の出来事を起こした実行グループがすぐに明かされる。ロストジェネレーションの若者7人。「自分が勤めると、すぐその会社が倒産してしまう」という元ホームレスの男子がいる。「高校の二年のときだったかな、どうしても、家にいたくなくて、飛び出しちゃったんだ」という元暴走族の女子もいる……みんなで東京を離れ、銀山温泉で旅館を営もうとする。計1400万円は、老舗旅館を買い取る資金だった。

 

 ミステリーとしては、7人がひとりふたりと殺されてゆき、その謎解きが焦点になっていくのだが、例によって筋は追わない。むしろ、若者たちが銀山温泉に求めたものは何だったのか、あの温泉町にはそれが具わっているのかを、旅の記憶が薄れないうちに考えたい。 

 

 本文によれば「銀山温泉は、十軒あまりの旅館そのものが売り物」。渓流銀山川を挟む旅館街は「木造の三階建、四階建の建物」が並び「大正ロマンの世界がそのまま、現在に生きている」。若者たちはそこに惹かれたようで、自ら「ロマンの残党」を名乗る。

 

 ここで僕が引っかかるのは、ロマンは2Hのまったり感と同じだろうかということだ。デジタル大辞泉によれば、「ロマン」は「夢や冒険などへの強いあこがれをもつこと」という意味を含むのに対し、「まったり」には「ゆったりしている」「だらだらしている」の意がある。どちらにも現実から逃げるという側面はあるものの、片方は羽ばたこうとする野心が満々、もう一方は羽を休めよういう方向にある。似て非なるものと言えよう。

 

 僕が銀山温泉に感じた魅力は、ロマンとはちょっと違う。小雨が降るなか、渓流沿いの山道を登ると銀山の跡があり、その坑道に入ってみた。蒸し暑さを一瞬忘れる冷気。ここはその名の通り、江戸前期まで銀採掘の鉱山町だったのだ。元禄期に廃山されると、今度は湯治場に。ところが大正初めに水害で流され、そのあと現れたのが木造中層の建築群だ。そこには切実な地域史がある。その移ろいを愛おしみながら湯に浸かる。これがまったりだ。

 

 この小説でロスジェネの男女は温泉郷にロマンを求めたが、それをつかみとれたとは言い難い。現地では高級旅館に対抗するため、夕食メニューをラーメンやカレーなどB級グルメにして宿代を安くするという奇策をとる。ロマンをうたう湯の町にも東京同様、競争があったのだ。そこで生き抜こうとすればロマンから離れなければならないという皮肉。1人200万円の切符を不正入手してたどり着いたのは結局、しがない現実の世界だった。

 

 最近感じるのは、ロマンという言葉が安易に使われ過ぎてはいないかということだ。たとえば、天体観測の話になると「夢とロマン」が常套句のように言われるが、宇宙探究はこの世界のしくみを知ろうという作業にほかならない。まして地上生活で生き延びる話なら、夢見心地ではいられないはずだ。現実を冷静沈着に分析しなければならない。そんな厳しい日々が続くからこそ、ときに弛緩がほしくなる。ここにこそ、2Hの存在理由がある。

 

 最後にもう一度、念を押したい。2Hの醍醐味はロマンではない。まったりだ。

(執筆撮影・尾関章、通算377回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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