『蕪村の名句を読む』(藤田真一著、河出文庫)

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 当欄でときどき話題にするように、僕は2カ月に1度、句会というものに出ている。俳句のコミュニティーには結社と呼ばれるものがあって、ときに党派の匂いが漂っているのだが、僕が加わる会はずっと緩い。その道の達人が宗匠となり、俳諧に一家言ある人が顔を揃えてはいるものの、僕のような素人もいて勝手気ままにやらせてもらっている。ひとことで言えば、言葉のサロン。短詩の極限に込めた思いを互いに語りあう場となっている。

 

 そういうサロン型の句会しか知らないので、俳句のことを真正面から論じる資格は僕にはない。ただ、それを遠目に観察するにはうってつけの立ち位置にいる。講評で俳人流の文学観を聞いていると、作品そのものよりそちらのほうを論評したくなったりもする。

 

 そんな文学観の一つが、写生を尊ぶ精神だ。叙景に最大の価値を見いだす流儀で、近代俳句の開拓者正岡子規が主張したらしい。ここでは、風景が感情の対立概念として位置づけられる。人は5音、7音、5音の言葉を紡げと言われると、そこに万感の思いを注入したくなるものだが、それを生のかたちで出すことを戒めたのである。内心の思いは、あなたの目に映る対象のありようににじんでいる。それを過不足なく描きだせ、ということだろう。

 

 これは、僕自身の若いころの志向にはぴったりくる。20歳前後には生意気にも小説を書こうという野心があったのだが、このとき念頭にあったのはふつうの物語ではなかった。フランスのヌーヴォーロマンを読みかじり、アラン・ロブ=グリエの作風に惹かれたりしていた。そこでは感情の露出がほとんどなく、モノの世界がそのまま詳述されている。禁欲と言ってよいほどに無機的な描写。今思うと、これは写生句に一脈通じるものだろう。

 

 ただ最近は、子規流に異論を呈したいと思うようになった。果たして、この世界は風景対感情、あるいはモノ対ココロだけか、と問いたいのだ。もう一つ、コトという範疇があるではないか。モノは寄り集まって系(システム)をつくり、その系は情報によって動かされてコトを遂行する――20世紀末からの情報技術(IT)によって実現したネットワーク社会では、そんな様相が際立っている。僕たちは、コトの群れに取り囲まれているのだ。

 

 だから、21世紀の俳句にはコトに重きを置く第三の道があってよいというのが、サロン派素人のひとりごとなのだが、今回はそこには踏み込まず、写生句の源流を謙虚にたどってみようと思う。そこにもまた、新しい発見があるかもしれないからだ。

 

 で、今週は『蕪村の名句を読む』(藤田真一著、河出文庫)。与謝蕪村(1716〜1784〈旧暦では1783〉)は江戸中期の俳人。絵描きでもあり、句の絵画性は高い。子規はその著作「俳人蕪村」で、新時代の文学の特長に「結果たる感情を直叙せずして原因たる客観の事物をのみ描写し、観る者をしてこれによりて感情を動かさしむること」を挙げ、この点で蕪村は芭蕉に勝る、と論じている(引用は青空文庫)。写生派の琴線に触れたのだ。

 

 『蕪村の名句…』は1997年に『風呂で読む蕪村』(世界思想社)として刊行され、去年暮れに文庫化された。著者は1949年生まれ。近世の俳諧文学が専門で、蕪村をめぐる著述が多い。この本の大半は、蕪村自身が晩年に来し方の作品を解説するという「架空講義」の形式をとる。生涯を「関東遊歴」「上洛と遊歴」「夜半亭・前」「夜半亭・後」の4期に分け、載せた句は自句だけで約80。「夜半亭」は蕪村が受け継いだ流派の名である。

 

 なの花や月は東に日は西に

 掲載句のうち、もっとも有名なのはこれだろうか。絵画そのものだが、ただ見たまま、というわけではなさそうだ。日が西に傾くときに東の空に現れるのは満月。そんな太陽、月、地球の三体関係を正確にとらえている。しかも、地表を覆うのは黄一色。「西陽―東月の対句仕立てそのものよりも、その光を菜の花畠のなかにとらえたところがわたしの案じ場」という。菜種栽培が盛んだった世情も窺える。理科と社会科をまたにかけたような大構想。

 

 春の海終日のたりのたりかな

 (「終日」は「ひねもす」、二つめの「のたり」は、くの字形の繰り返し符号)

 これもまた、よく知られた句。ついつい瀬戸内の海だろうか、などと写生地に推理を巡らせてしまうが、「どこか特定の海の景色を詠んだものではありません」とある。「日本の過半を遍歴したわたし」が「もっとも春らしい海の姿を言葉の形にしようとした」。それは、冬とは打って変わった穏やかさ。「静謐(せいひつ)そのもの、有(あり)ていにいえば退屈にすら見える」ものだった。記憶を重ね合わせ、そこから普遍の属性を引きだしている。

 

 二つの有名句から言えるのは、蕪村の写生句は景色の再現ではないらしいということだ。推察するに、作者はまず構図を脳裏に思い描く。それは大自然の要素を素材に、理系知や観察力を駆使して組み立てた一幅の絵画と言ってよい。そのイメージを選りすぐりの単語に結びつけて短詩空間に映しだす。そんな感じだろうか。子規が重んじる「客観の事物」は蕪村の眼前には存在しない。それは彼の想念のなかに広がっているように思われる。

 

 ほととぎす平安城を筋違に

 (「と」の二つめは一ツ点の繰り返し符号、「筋違」は「すじかい」)

 僕がもっとも惹かれた句だ。ほととぎすの声がしてそちらを見ると「平安の都をはすかい方向に引いた声が残るばかりであった」。架空の自句自解によれば、そんな意味だという。「京の街並みはいわゆる碁盤の目状になっていて、その直交する街区を斜めにつっ切っていくのだと、面白がって句作りした」と打ち明けている(「区」は原文では行人偏の難しい漢字、訓読みで「ちまた」とも読む)。なんとも幾何学的な構図ではないか。

 

 この句の工夫は絶妙だ。「京の町を『平安城』と唐土(もろこし)風の言い方で、ひとくくりにすることで、天からの視線が感じられようにした」。その結果、僕たちはx軸とy軸から成る平面をz軸方向から見下ろすよう促される。そして、「『筋違に』という言いさしの先に、消え去りつつある声の余韻を伝えようとした」のも心憎い。「……に」と述語を言い残したことで疾走感を演出したのだ。視点と表現の斬新さには驚くしかない。

 

 鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉(「野分」は「のわき」)

 疾走感と言えば、これもそうだ。鳥羽殿とは、京都洛南にある離宮。平安後期の院政時代には政治権力の拠点となっていた。この句では、政局を揺るがす事件が起これば周辺が慌ただしくなるに違いないとみて、史的空想を広げている。嵐のさなか、武者のまたがる馬が数頭走り抜けていった。「都でまた何かただならぬ事態が発生したのか」。架空講義を読むうちに、蕪村はジャーナリスティックな感性も具えていたのだと思えてくる。

 

 中々にひとりあればぞ月を友(原句で「々」は、くの字形の繰り返し符号)

 この句も、写生と言えば写生。ただ、被写体は月一つだ。「独りぼっちの名月の夜となったが、これがかえって幸いして、我ひとり心行くまで月を友として満喫できる」といった句意らしい。着目すべきは「月を友」の「を」だ。「『月の』にすると、彼方の月に主体が移って、ねじれ現象を起こしかねない」「わたしひとりが月を友とするのだと、『我』を前に押し出したほうがよい」。そんな意図の表れという。自我の主張ととってもよいだろう。

 

 こうしてみてくると、18世紀の文人蕪村の句には近代の兆しが詰まっている。理系っぽい宇宙観や普遍を求める自然観、モダンアートのような幾何学性、ジャーナリスティックな臨場感。ときには、菜種のような商品作物が顔をのぞかせて都市市民の影も透けて見える。そして極め付きは、「月を友」とする自我だ。孤であることの楽しみ方を身につけはじめた個と言い換えてもよい。個人主義の感覚がすでに育まれていたことがわかる。

 

 蕪村は大坂(大阪)郊外に生まれ、若いころは東京で暮らし、その後、京都に定住した。三都の多様な文化を吸い尽くした個人史が、次の時代を先取りさせたのかもしれない。

 

 写生句のあるものはモノを通してコトを見る。そこには時代性というコトもある。

(執筆撮影・尾関章、通算378回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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コメント
《オーティス・レディングの ”The Dock of the Bay” を想いだします》(虫さん)
僕は「……月を友」で“Blue Moon of Kentucky ”を思い浮かべてしまう。この句にカントリー&ウェスタンの甘い情感はありませんが。
  • by 尾関章
  • 2017/07/21 7:35 PM
春の海終日のたりのたりかな

蕪村のこの句を読むと、オーティス・レディングの ”The Dock of the Bay” を想いだします。蕪村にオーティスのような寂寥感や孤独感はないとは思いますが。
  • by 虫
  • 2017/07/21 3:09 PM
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