『日本人の英語』(マーク・ピーターセン著、岩波新書)

写真》aの思考、theの心理

 20年あまり前、英国ロンドンに駐在していたころのことだ。新聞記者という仕事柄、欧州の大陸側へ渡る機会は多かった。そんな出張をしていて僕がいつも感じたのは、ある種の解放感だ。何から解き放たれたのか。それは、英語という言語の重圧である。

 

 もちろん僕が、フランス語ならペラペラ、ドイツ語もなんとかなる、ということではまったくない。手持ちの欧州語は英語だけ。幸いにも僕は科学担当であり、取材先は英語を国際語として用いる人が多かったので、職務はそれで事足りた。それ以外も、ホテルやレストランやタクシーなら、たいていは英会話が通用する。ということで、大陸欧州にいても英語は命綱であり、離れられなかった。ではなぜ、解放されたと感じたのか。

 

 こういうことだ。英国や隣国アイルランドに住む人の多くは、英語を母語や日常語として使っている。だが大陸側の国々では、それは外国語にほかならない。だから、僕が出張中に英語で会話するときは、下手でも構わないという安心感があって肩の力が抜けたのだ。さらに自分や相手が言い間違えや聞き違えをするたびに、お互い外国語には苦労するね、という同情が芽生えてくることもあった。それは、連帯感に似た気持ちだったと言ってよい。

 

 大陸欧州の英語事情を僕の印象をもとに素描してみると、こうなる。オランダの人々は、ほとんど母語のようにしゃべる。北欧諸国の人々も、日常のやりとりに不自由しないほど堪能だ。ドイツでも、まあまあ通じる。フランスは自国語の壁が高くて、一部の人しか使ってくれない。イタリアでは陽気にヤアヤア言いあっているうちに思いが通じてしまう……。ただ、それぞれ濃淡はあるにしても、英語が外国語であることには相違ない。

 

 北欧の科学者と雑談していたとき、その人が漏らしたひと言は忘れられない。「僕らも学会では苦労する。言いたいことを言えないうちに英語圏の人に言い負かされてしまう」。科学界という英語が共通語の世界にも、英語を母語としないことの不利はある。

 

 ただ、それでも僕が思うのは、大陸欧州の人々は日本人ほどには英語で苦労していないだろう、ということだ。なによりも、彼らの母語は英語との共通点が少なくない。大半の欧州語には冠詞があり、定冠詞と不定冠詞に分かれているものが多い。さらに名詞に単複の区別があるのもふつう。ところが、日本語にはどちらもない。僕たちが英語を書くときの悩みは、この感覚の欠如に起因する。aとするかtheとするか、単数か複数か、それが難題だ。

 

 で、今週の1冊は『日本人の英語』(マーク・ピーターセン著、岩波新書)。初版が1988年に出たロングセラー。僕は、2014年の第76刷を中古本ショップで手に入れた。内容は、『科学』誌(岩波書店)の連載をもとにしている。著者は、米国ウィスコンシン州出身。現代日本文学を学んで来日、日本の大学の教授となった人だ。東京工業大学にいたことがあり、日本人科学者が英語で論文を書く苦労を間近に見ていたらしい。

 

 科学者はどんな論文を書いたかで評価が定まる。このとき研究の中身ではなく、言語の拙さで損をするのだとしたら不条理なことだ。日本人研究者の場合、その思いはa、the、単複などの悩みがある分、欧州人よりも強い。だから、科学誌から声が掛かったのだろう。

 

 とりわけ迷うのが、theをつけるかどうかの判断だ。この本ではカバーの袖に「『冷凍庫に入れる』はput it in the freezerなのに、『電子レンジに入れる』だとput it in my microwave ovenとなる。どういう論理や感覚がこの英語表現を支えているのか」とある。ええ? この使い分けにまず驚く。と同時に、知りたいのはこれなんだよ、と内心で喝采する。正解を、丸暗記ではなく「論理や感覚」を通じて習得したいのである。

 

 さっそく本文に入って、その答えを探してみよう。冷凍庫にtheがふさわしいのは「どの家庭にでもあるというふうに意識される」からであり、電子レンジにtheが合わないのは、そういう意識が「近い将来にできるかもしれないが、今はまだない」からだ、という。2017年の今ならば電子レンジは予想通りに普及しているから、もうtheでよいかもしれない。これで、冠詞には人の心のありようが映されているということがよくわかった。

 

 言及が遅れたが、この本は著者自身が日本語で執筆している。「私の書く日本語は、日本語らしくないところも多く、日本人が書いた文章と間違えられることはないであろう」と謙遜するが、まどろっこしさをやや感じるくらいで、正確さは完璧だ。一つ言えるのは、これは著者自身が母語でない言語で書いているという事実が、書かれている中身の説得力を高めていることだ。aかtheかで悩むのと同じ難しさは、日本語にもあるはずだ。

 

 冠詞を扱った章には、こんな例文がある。“Once upon a time, there were an old man and an old woman. The old man……” 和訳はもちろん、「むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんいました。おじいさん……」。ここでは、a(an)は「が」に、theは「は」にきれいに対応している。僕たちは、ほとんど気づかぬままに「が」と「は」を使い分けているのだ。英語圏の人々がaかtheかを適切に選ぶのは神業ではない。

 

 僕たちは、aをつけるか、なにもつけないか、という迷い方をすることもある。この本では、日本人が書いたとされる“Last night, I ate a chicken in the backyard.”という一文が俎上に載せられる。バーベキューでもしたのだろうが、「昨夜、鶏を1羽[捕まえて、そのまま]裏庭で食べ[てしまっ]た」ととられる、という。aには「共通単位性をもつもののグループから、一つの」といった積極的な意味があることを見落とした失敗だ。

 

 この本は、そういう失敗をしないための心得を伝授する。それは「a chickenは、chickenとは異なる独自の意味をもっている」とわきまえることだという。“a chicken”をchickenに「aという『飾り』がついている」とみてはならない。aは脇役ではないのである。

 

 著者は、このことを思考過程に沿って説明する。英語圏の人が食べもののことを言うとき、まずそれがaという不定冠詞にふさわしいものかどうか、すなわち「単位性をもつ」かどうかを決定して、そのあとに具体物の単語を探しだし、“a sandwich”といった言葉を発する、という。英語では語順の通り、「aの有無」が名詞に先立って「意味的カテゴリーを決める」。僕たちは、この過程なしに思考するから冠詞問題を苦手とするのだろう。

 

 単複のことで言えば、僕たちがもっとも困惑するのは純粋不可算名詞の存在だ。よく戸惑うのはequipment。僕たちは「装置」という訳語から、1台2台と数えられそうに思ってしまうが、それは違う。一方、machine(機械)は可算だが、その不可算形machineryは「全部で何台かがはっきりと意識されないくらい複雑な装置」を指すときに使う、とある。equipmentやmachineryの陰には、台数を意識しない状態把握が隠れているらしい。

 

 この本は、前置詞や時制、関係代名詞といった難物にどう対処すべきかについても教えてくれる。一貫しているのは、丸暗記はやめよう、という姿勢だ。“in the evening”“on the evening of July 15”の用法も、前者では「時間」、後者では「時点」の意識がそれぞれ強く出ていて、inとonの「使い分け」の「論理だけはきちんと守られている」とみる。このことを「すばらしいと思う」と書いているから、英語圏人としての誇りなのだろう。

 

 ただ、僕には反論もある。たとえば、英語は時制の一致に厳格だが、この本の例文にもあるように未来形や未来完了の文に“after〜”(〜の後)や“by the time〜”(〜まで)の従属節がつくとき、その動詞は現在形のことが多い。これは論理の綻びではないか。

 

 むしろ、この本で痛感したのは、人間には多様な思考様式があるということだ。aのあるなしから入るという言葉の組み立て方は、その一つなのだろう。僕たちが英語圏の人々の心理にもう少し思いを致せば、aかtheかの惑いもいくらか軽減されるだろう。

 

 そう思うと、僕たちも「は」と「が」を使い分ける思考回路をもっと自負してよい。

(執筆撮影・尾関章、通算380回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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