『グリーン資本主義――グローバル「危機」克服の条件』(佐和隆光著、岩波新書)

写真》色づいても枯れても緑は緑

 あの熱気はいったい、なんだったのか。そう思うのが、2000年代に入ってしばらく続いた脱温暖化の機運だ。二酸化炭素など温室効果ガスの排出減らしが世界的な関心事となり、主要国首脳会議(サミット)でも最優先議題の一つに挙げられたのである。

 

 そもそも、工業化社会から出る二酸化炭素が地球を暖めているという警告が広まったのは1980年代の後半だ。90年代からは「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」という科学者集団がほぼ5年おきに温暖化の予測を発表するようになっていた。92年には国連気候変動枠組み条約が採択され、97年に京都議定書がまとまって、2008年から5年間に先進国が温室効果ガスの排出をどれだけ減らすかの目標も課された。

 

 僕は新聞社在籍時代、2006年の暮れから論説委員となって環境問題の社説を担当した。そのころ、論説委員室に集う政治記者も経済記者もなべて温暖化問題に対する関心が高かったことが思いだされる。それは、国際情勢や政治経済を資本主義対社会主義の対立で読み解く冷戦型の思考様式がメディアでも政財界でも廃れてきたことの証しだった。人類が内部抗争に明け暮れるのではなく、共通の敵と闘うという構図が見えてきたのである。

 

 ここで共通の敵とは気候変動だが、その原因として人間自身の野放図な産業活動があった。それを抑えられるのは、理性しかない。人類は、武器を振りまわす流血の戦いを脱して、科学に支えられた理性の闘いの時代に入ったようにも思えたものだ。

 

 ところが、歴史はそれほど簡単には進歩してくれなかった。民族抗争や難民問題、グローバル経済があちこちで国際摩擦を引き起こしている。その結果、自国第一の潮流が生まれて、核戦争の危機さえ現実味を帯びるようになった。理性の闘いはまた遠ざかった感がある。

 

 国内に目を向ければ、3・11の福島第一原発事故の衝撃が大きかった。原子力災害による放射能飛散の怖さは、温暖化より差し迫っている。現実に原子力発電はいったん止まり、その後、再稼働が始まったが、電力供給では火力が大きな柱となっている。脱温暖化はいったん棚上げされた感がある。これは、急性病の回避を慢性病の予防よりも優先させるのに似て尤もなことだと僕は思う。ただ、だからと言って理性の闘いを忘れてよいはずはない。

 

 で今週は、3・11以前にメディアを賑わせていた論調を振り返ってみよう。脱温暖化は経済を停滞させたりはしない、むしろ新しい成長の種子を撒いてくれる――という見方だ。もし本当にそうならば、経済の舵を今からでもそちらへ切らなくてはならない。

 

 手にとったのは、『グリーン資本主義――グローバル「危機」克服の条件』(佐和隆光著、岩波新書)。著者は1942年生まれの経済学者。京都大学経済研究所長などを務めた。計量経済学を出発点に環境経済学を深めた人だ。数理を駆使する方法論、生態学(エコロジー)に対する造詣。いずれも、僕のような科学記者には親近感を呼び起こさせる。そんなこともあって僕は大阪在勤のとき、部内の勉強会にお呼びしてお話を聴いたこともある。

 

 この本は2009年に出た。副題に「グローバル『危機』」とあるように、前年に米国で勃発した「リーマン・ショック」とそこから波及した「世界同時不況」を強く意識している。そうした資本主義の行き詰まりを打開する方策として、グリーン、すなわち環境保護志向の経済活動が提案される。折から、日米で政権交代があり、市場原理主義一辺倒の政策が見直されようとしていたころだった。刊行時には、きわめて旬な本だったと言えよう。

 

 そこでは、自民党の麻生太郎政権が2009年に出した温室効果ガス排出削減の中期目標が俎上にあがる。20年に05年比で15%減らすというものだ。注目すべきは、基準年が国際標準の1990年と異なることだ。著者は、90年から05年までの実績が欧州連合(EU)は7%減、日本は7.7%増だったとして「これまでの試験の点数は帳消しにして、これからの試験の点数で成績をつけてもらう」のと同じではないか、と指弾する。

 

 2009年は民主党に政権が移った年だ。鳩山由紀夫代表は首相就任直前、新政権の20年目標を掲げる。1990年比でマイナス25%という大幅削減を「いち早く打ち出した」のだ。著者は「まことに意義深い」としているが、その目標値も今は消えてしまった。

 

 このころ、米国でもバラク・オバマ大統領が登場して「再生可能エネルギーやスマート・グリッドに巨額の公共投資をし、アメリカ経済再生の手掛かりにしようとする」。スマート・グリッドとは「情報通信技術」を活用した「送配電の安定化」を指している。彼は、それらの投資額や雇用増の目標も数字で示した。これは1930年代、フランクリン・ルーズベルト大統領が手がけた政策に因んで「グリーン・ニューディール」と呼ばれる。

 

 著者は、こうした流れを肯定する理由を産業経済史の観点から説明する。もっとも説得力をもつのは、日本では高度成長期(1950年代後半から73年)とバブル崩壊後(91年から2000年代)で、それぞれどんな商品が経済活動の牽引車となったかの比較だ。

 

 前者を代表するのは自動車やエアコン。著者は「自動車産業ほど、産業連関的波及効果の大きい産業は他に見当たらない」と書く。自動車1台ができるたびに、鉄、非鉄金属、石油化学製品、電子部品など1トン超の物財がそこに詰め込まれる。さらにはガソリンスタンド、駐車場、自動車ローン、自動車保険などクルマ社会に欠かせないサービスが生まれて「大規模な雇用を創出する」。その波及効果が高度成長に大きく寄与したと指摘するのである。

 

 では、後者はどうか。「携帯電話、パソコン、DVDプレーヤー・レコーダー、デジカメ、カーナビなどのデジタル製品」の普及が進んだが、「デジタル製品の産業連関的波及効果は、自動車のそれに比べれば、圧倒的に小さい」。なるほど、と思う。科学技術史で言えば、1980年代に情報科学の開花があり、ハードからソフトへの重心移動があったが、それはモノよりもコトに付加価値を見いだしたので工業生産の爆発的な連鎖は生まなかった。

 

 二つの時代は、政策面でも対比される。例に挙がるのは、1965年、東京五輪翌年の「昭和四〇年不況」。日本銀行の特別融資や赤字国債の発行によって克服された。当時は、カラーテレビなど家電製品の潜在需要があり、「公共事業の工事現場で働く人びとは、給料をもらうと、すぐさま電器屋さんに」という図式が成り立った。だが今、先進国では「財政金融政策によって容易に掘り起こせる潜在的な内需はもはや無きに等しい」という。

 

 読みどころは、経済成長に必須とされる技術革新をめぐる考察だ。その駆動力は1)「願望」の充足2)「不足」の克服3)「制約」の打破の三つだが、1)2)は20世紀に「あらかた達成された」ので、今は3)の比重が増している。それは、どんな制約か。著者によれば、人類が21世紀に課されているのは脱温暖化という「環境制約」だ。今日のニューディール政策が「グリーン」でなければならない最大の理由はここにある。

 

 前世紀までは、1)2)のように人間の欲望が経済を引っぱっていた。ところが今世紀の3)では、理性が介在する。だれかが人類の存続に必要な制約に気づき、それに対処するしくみを設計しなくてはならない。そこに排出量取引のように環境保護に努めれば得をするという市場原理を組み込むとしても、その枠を決めるという英断を支えるのは欲得抜きの理性しかない。グリーン資本主義の成否は、これができるかどうかにかかっている。

 

 著者は経済成長の不要論者ではない。ただ社会を次世代へつなぐため、「枯渇性資源を浪費する経済成長」はやめるべきだと主張する。3)に突き動かされて再生可能エネルギーやスマート・グリッドを充実させれば、適切な成長がもたらされるということだろう。

 

 印象に残るのは、官僚主導で出された麻生中期目標に対する批判だ。計量経済モデルという「ブラックボックス」を「『調整』する」ことで都合の良い数値をはじいたという。経済学は数字を弄ぶものではない。大切なのは歴史観。この本を読んで、僕はそう思う。

(執筆撮影・尾関章、通算384回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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