『ベルリン物語――都市の記憶をたどる』(川口マーン恵美著、平凡社新書)

写真》ベルリンはプロイセン、ヴァイスビアはバイエルン

 そう言えば……と思うのは、僕が初めて訪れた外国がドイツ(当時は西ドイツ)だったことだ。1984年、科学記者として初めての海外出張だった。まだ東西冷戦のさなかだったので、アンカレジ経由北極回りの空路でフランクフルトに降り、そこから列車に乗って最初の宿泊地ケルンに着いた。ホテルは質素で、小ぎれい。エレベーターは機械仕掛けを露わにしたようなつくりだった。清潔と武骨――それが、あの国の第一印象だった。

 

 もっとも心に残る町は、南部の大学町テュービンゲン。ホテルはさらに質素。カーテンも寝具も趣味の良い柄ものの布地で、家庭的な雰囲気だった。部屋係の可憐な面立ちに、ドイツ語の授業で習った「メートヒェン(少女)」という単語を思いだしたりもした。大学では老教授が、取材の合間でも定時のティータイムを欠かさなかった。町に漂うおとぎ話の気配。人々が繰り返す静かな日常。これらも、僕が感じたドイツらしさだ。

 

 総じて言えば、ドイツという国に僕は悪い印象をもっていない。東西統一後の足どりを追ってみても、そのバランス感覚は見事だ。右から左へ、左から右へと振り子を振るような政権交代。緑の政治勢力も強く、いったんは原発廃止を決め、そのあと揺り戻しがあったものの、3・11の東京電力福島第一原発事故を受けて再び脱原発路線に転換した。国際政治での立ち位置をみても、自国第一主義に走らずに協調路線を守りつづけている。

 

 だから不思議でならないのは、近現代史で最悪の政治体制を産み落としたのがそのドイツだったことだ。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は自民族の優越を主張してユダヤ民族などを目の敵にした。弱者を切り捨て、政敵には弾圧の限りを尽くした。標的とされた人々は人間性を否定され、その多くが心身の死に追い込まれたのである。あの落ち着いた社会風土から、どうしてそんな暴虐が生まれたのか。

 

 善き人々がいて善き文化があっても、邪悪は顔を出す。そんな悪しき変異を、20世紀のドイツ社会は体験した。いま再び、邪悪なるものが世界を揺るがしかねないように思われるとき、その悪例の主舞台となった大都市に目を向けることは意義があるに違いない。

 

 で、今週は『ベルリン物語――都市の記憶をたどる』(川口マーン恵美著、平凡社新書)。著者は日本の大学を出て、シュトゥットガルトにある音楽大学大学院のピアノ科で学んだ後、現地に住みついてドイツを日本に紹介する本を書いてきた。とりあげた題材は音楽から料理まで幅広い。ベルリンを本にしようと思い立ったのは、別の仕事でしばしば足を運ぶうち「この町に次第に夢中になっていった」からだという。刊行は2010年。

 

 プロローグでは、この本で焦点をあてるのが1871年と1990年の間であることが宣言される。前者はプロイセン、バイエルン、ザクセンなどの王国や領邦、自由都市が合流して一つの帝国を打ちたてたドイツ統一の年、後者は僕たちの記憶にも新しい東西統一の年だ。著者は、この間に「ベルリンは、その姿を極端から極端へと何度も変えている」と書くが、それと同期してドイツそのものも両端の間で揺れ動いたと言ってよいだろう。

 

 いきなり中盤の第5章に入って恐縮だが、ヒトラーが政権に就いていた1930〜40年代を描いたくだりをみてみよう。そこに、こんな一文がある。「この時代のことを調べていると、どうしてもわからなくなることが一つある」「なぜ、これほど短期間に、ドイツ人は変わってしまったのだろう」。ドイツそのものが宿す善と、ナチスドイツとなって体現した悪。その落差を前にしての戸惑いは、僕だけのものではなかった。

 

 著者は、ナチス時代の「ただ見て見ぬふりをしていただけではなさそう」な世相に着目する。世の中に、ユダヤ人差別を「笑いの種」にする傾向があったこと、医療従事者が精神病患者の命を絶っても、それを「彼らの仕事」とだけとらえる思考停止があったらしいこと。そのどれも「私の中にあるドイツ人のイメージとつながらない」。しかもこれは、古代や中世の話ではない。「何がこれらを可能にしたのだろう」と問いかける。

 

 この謎を解くには、近現代のドイツに働いた力学を知る必要がある。第1章の記述によれば、1871年の統一以前、一帯には35領邦、4自由都市が並び立っていた。19世紀初めまで遡れば、領邦数は300ほど。それらを合体させたのがプロイセン王国であり、その鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクだった。「パッチワークのような場所」に「突然、若く大きな、しかも、軍事力の突出したドイツ帝国という国が出現した」ことになる。

 

 中世以来の分権を強引に一つにまとめようとする無理が、最後はナチスに行き着いた。これは、幕藩体制を近代国家にあわててつくりかえた日本に軍国主義が芽生えた流れに似ている。もとからあった分権は封建制の名残にほかならないが、それはビール醸造元の数ほどある地域の生活文化を宿していた。僕がドイツで体感した人々の美徳は、こうした固有の文化の表れだったような気がする。帝国志向の過熱が、それらを麻痺させたのである。

 

 興味深いのは、ベルリンが帝国志向に素直に靡かなかったことだ。権力者から疎ましがられたこともある。ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世が宮殿を構えたのはポツダム。首都ベルリンを「社会主義者という、王族の権利を否定しようとする不逞な輩(やから)の跋扈(ばっこ)する、不穏で恥知らずの町」と嫌ったからだ。帝国崩壊後の1919年に共和国が生まれたときも、制憲議会の開催地は「不穏なベルリン」でなく古都ワイマールだった。

 

 この二つの記述からわかるのは、ベルリンには権力が顔をしかめる喧騒があったことだ。19世紀には市民革命の先達フランスの影響を受けて、「民衆蜂起の中心地」になっていた。ワイマール体制に移ると、それが一気に花開く。この本にある1920年代後半の統計では、市内の映画館数が363に達し、映画会社37社が年に約250本の長編作品を制作している。朝刊紙45、昼刊紙3、夕刊紙14、出版社も約200を数えたという。

 

 この都市では旧来の倫理が揺らぎ、売春の蔓延や小児性愛の横行など由々しき事態も起こっていた。だが半面、「芸術家や科学者の精神を解き放ち、様々な芸術表現や技術の発展を可能にした」。町には新建築運動バウハウスの建物が現れ、物理学者アルバート・アインシュタイン、作家フランツ・カフカ、映画監督アルフレッド・ヒッチコックらもその空気を吸った。「ベルリンは、『現代文化(モダニズム)の実験場』になった」のである。

 

 ここで思いだしたのは、オーストリア=ハンガリー二重帝国の首都ウィーンだ。『ハプスブルク三都物語――ウィーン、プラハ、ブダペスト』(河野純一著、中公新書)によれば、そこも帝都ではあったが、建築家たちが皇帝主導の街づくりに反発して「分離派」の芸術運動を起こした(当欄2017年3月17日付「欧州揺らぐときのハプスブルク考」)。帝都は都市文化が成熟するからこそ皇帝にとって獅子身中の虫となる、ということだろう。

 

 記憶にとどめておきたいのは、ドイツには帝国志向と逆向きのベクトルもあったことだ。それは、自由な表現を追い求める方向性と言ってよい。後者は皮肉にも前者の都で芽吹き、前者の強まりとともに発信力を高めたが、最後は結局、前者の暴走に押し潰された。

 

 ベルリンでは、二つのベクトルのせめぎ合いが第2次大戦後も続く。ナチスが消えた後、帝国志向にとって代わったのは東西冷戦の斥力だ。町は二つに分断された。とりわけ西ベルリンは、文字通りに陸の孤島となったのである。この本によれば、発電所の資材一式が航空機で運ばれたこともある。1960年代に壁ができると、「西―東―西と突っ切る経路」を走る電車は東では検問所のある1駅を除いて「通過するだけ」になったという。

 

 斥力と逆向きのベクトルが爆発したのが、1989年11月9日の壁崩壊だ。この本では、著者の知人たちが経験したそのときが、アンゲラ・メルケル(現首相)の自伝にあるそのときと織り交ぜて綴られる。そこでの主役は国ではなく町、町というよりも人だった。

 

 一つのベクトルには必ず逆向きのそれがある。僕たちはそのことを忘れてはなるまい。

*著者名にある「恵」は正しくは旧字体です。

(執筆撮影・尾関章、通算385回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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