『進化とは何か――ドーキンス博士の特別講義』

(リチャード・ドーキンス著、吉成真由美編・訳、ハヤカワ文庫NF)

写真》恐竜、今はおもちゃだが……

 宵闇に虫の音が聞こえる季節になった。ちょっと前までは、朝昼夕に蝉しぐれを聞いていたばかりだ。不思議と言えば不思議。どちらも、周りに自分たちより数十倍も大きな生きものがわがもの顔で暮らしているというのに、恐れを知らず大胆に音波を発している。

 

 この一点をもってしても、生物界がどれほど多様であるかがわかる。ヒトは、コオロギやスズムシやミンミンゼミやヒグラシにとって欠かせない存在ではない。むしろ自然破壊で棲み処を奪う迷惑な大動物だが、天敵というほどの悪役ではなかろう。逆に、これらの虫がヒトの生存に不可欠ということもない。せいぜい季節感をもたらしてくれるくらいの利害関係が薄い間柄だ。地球には、異種生物がたまたま居合わせたように共存している。

 

 だが、これは生物界をこの一瞬で切りとったときの話だ。人類が現れ、有史時代となり、西暦2017年某月某日を迎えた今の断面図では、ヒトはコオロギ、ミンミンゼミの仲間とまったくの別物だ。ところが、ここに時間変化の概念をもち込むと、その確信は揺らいでくる。ヒトは太古からヒトだったわけではなく、変身に変身を重ねてきたらしい。先祖をたどれば、ヒトもコオロギもミンミンゼミもみんな同じ種だったのかもしれない――。

 

 欧州で中世まで支配的だった人間観は、ヒトという生きものの時間変化に無関心だった。野蛮さが薄れ、文明を手にするということはあっても、ほかの生物種との間にある壁は不可侵のものと高を括っていたように見える。たとえば、旧約聖書『創世記』のアダムとイブを思い起こせばわかるように、人類は最初からヒトだったというわけだ。それを一変させたのが、19世紀半ばに英国の生物学者チャールズ・ダーウィンが提唱した進化論である。

 

 ここで僕が興味をそそられるのは、欧州で中世後、啓蒙思想と進化論が相次いで台頭したことだ。前者は人間の人間らしさを理性に見いだして、それを尊重しようとする。これに対して後者は、ヒトの起源に野性をみて、その軌跡を跡づけようとする。真反対の方向性がほぼ同期したのは、皮肉と言えば皮肉だ。ただ、それは偶然ではないだろう。人間の理性が科学的な思考を強めた結果、そこにヒトの野性が見えてきたということではないのか。

 

 この展開は含蓄に富んでいる。たとえば環境問題。現代のエコロジー思想は生態系(エコシステム)の存続をめざしており、人類は系の一員として系全体を守る立場にある。そこには、野性世界に対する深い敬意がある。ただ、生態系保全の必要を感じるのも、そのための方策を練るのも、先日当欄に書いたように理性をおいてほかにない(2017年9月1日付「もう一度、グリーン経済を考える」)。理性が野性を支えるという構図である。

 

 で、今週は『進化とは何か――ドーキンス博士の特別講義』(リチャード・ドーキンス著、吉成真由美編・訳、ハヤカワ文庫NF)。著者は英国の進化生物学者。著書『利己的な遺伝子』で有名なDNA時代の進化論の語り部だ。この本は、1991年にロンドンの英王立研究所で開かれた少年少女向けの講演「宇宙で成長する」をもとにしている。後段では、編訳者による著者インタビューも。単行本(早川書房)は2014年、文庫本は16年刊。

 

 冒頭部で目を引くのは、やはり時間軸のことだ。「宇宙が誕生してから一億四〇〇〇万世紀のあいだ、初めから一世紀ずつすべての世紀が、過去に『現世紀』であったことがある」と書く。宇宙史は途方もない数の時間断面の積み重ねであり、そのうちの「小さなスポットに、たまたままったくの偶然でわれわれが生きている」ということだ。ここにあるのは、人類の相対化。今の常識で宇宙の通史を論じてはいけないという戒めである。

 

 そのうえで第2章「デザインされた物と『デザイノイド』(デザインされたように見える)物体」を読むと、時間軸の意義がわかってくる。「デザインされた物」としては、時計や顕微鏡のような工業製品を思い描けばよい。「デザイノイド」は、それと似て非なるものだ。「一見デザインされたようにみえますが」「まったく異なるプロセスからそのような形になっています」――蛇や食虫植物などの生きもののかたちが、その典型らしい。

 

 この章では、その「まったく異なるプロセス」がダーウィン進化論の「自然選択」であることが明かされる。たとえば、オオカミの形態にも「生き残れるものが繁殖することになり、選択は自動的になされる」というしくみがみてとれる。「足が長すぎもせず短すぎもせず、よって速く走れるもの」や「歯が鈍すぎもせず鋭すぎもしないもの」が生き残る、という。ちなみに歯は鋭いほうが有利に思われるが、度が過ぎると割れやすくなるらしい。

 

 おもしろいのは、こういう「選択」が今はコンピューターで再現できることだ。一例は、P・フックスという研究者がつくったクモの巣のプログラム。巣づくりの「手順」に「遺伝的制御」を導入し、後続世代のクモがつくる巣を複数予想して、ハエ捕りにとって「最も効率の良い巣」を選びとる作業を繰り返すと、巣の形態が進化する。これは、クモ自身の進化も意味する。効率の高い巣をつくる遺伝子を具えたクモが生き残るからだ。

 

 親から子へ、子から孫へ、という代替わりが生物のありようを徐々に変えていく。図面1枚で完全な製品をえいやっとつくるわけではない。長い歳月をかけて少しずつ改良を加えていく。時間軸があってはじめて成り立つものづくりの方法と言えよう。

 

 これはもちろん、よいことばかりではない。デザイノイドには「デザインされたものにはありえないような『欠点』」がある。完全主義ではないのだ。ヒラメの仲間オヒョウは、海底にへばりついているうちに「ゆっくりとした進化の過程を経て、砂に面していたほうの目も頭の反対側に移動していき、上を見るようになった」。このため頭がデフォルメされ、「ピカソが描いた魚」のようだ。初めからデザインしていれば、こんな事態にはならない。

 

 その一方で、自然選択によるデザイノイドづくりは途方もない偉業を成し遂げてきた。第3章「『不可能な山』に登る」では、動物の目の進化を再現するコンピューター実験が紹介される。ダン・ニールソンという科学者の研究だ。その結果では、控えめにみても25万世代の代替わりがあるだけでレンズを具えた目をもてるようになった、という。動物の1世代を1年とみれば25万年。長いと言えば長いが、地球の歴史からみればほんの一瞬だ。

 

 この本が凄いのは、生きものがデザイノイドであるとの論陣を張るためにデザインという行為そのものまで進化の軸に位置づけたことだ。デザインは脳が進化してこそ可能になる。それまでは、デザインなしにかたちをつくらなくてはならなかったではないか!

 

 著者は、ヒトの脳に「飛躍をもたらした」ものとして、三つの要因を挙げる。一つは「想像力」。これは「起こったかもしれない事柄」まで扱うシミュレーション能力を高めた。もう一つは「言語」。個体間が言葉を交わすことで「脳同士のネットワーク」を築けるようになった。そして三つめが「テクノロジー」。それは、身体能力を拡張する道具とともに「すべては、必ず目的を持って作られている」という認識を生みだしたとみている。

 

 ここで僕が苦笑いしたのは、科学の実用偏重を思ったからだ。科学者は研究費を獲得しようと、成果が役に立つことを強調するのに躍起のように見える。これは、まず目的ありきのデザインを想定した発想だろう。だが、科学にもデザイノイド流の進化があるはずだ。

 

 訳者によるインタビューでは、この進化観は生物界を読み解くだけではないとの見方が印象に残る。著者は、生きものは遺伝子が存続するための乗りものに過ぎないという持論を文化現象にも広げて論じた人だ。たとえば、「野球帽を前後逆にかぶる」行為も「ミーム(模伝子)」の複製として説明する。ここでは「『自然選択』のメカニズムというのは、おしなべてどんな自己複製する情報記号にも働くということを言いたかった」と打ち明けている。

 

 この本を読むと、科学書を理科好きの占有物にしてはならないと痛感する。ドーキンスは、生物界を観察して情報化した人間社会の深層に潜むしくみまでも見いだしたのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算386回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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