『紙の月』(角田光代著、ハルキ文庫)

写真》ペーパームーン

 自分は過渡期の世代だな。そう感じている人は多いように思う。たとえば1980年代生まれなら、後輩との飲み会で「俺たちは昭和世代だからなあ」などとつぶやくくせに、その昭和を生きてきた親とは距離を置いているように見える。高度成長の果実をまるごと味わってはいないが、幼いころ、ディズニーランドでバブリーな空気を吸うくらいのことはあった――そんなふうに自らを過渡期に位置づけているのではないだろうか。

 

 だから僕も、自分のような1950年代生まれが特別だというつもりはない。ただ、僕たちの過渡期感が強いのは確かだ。一例を挙げれば、先行世代はIT(情報技術)に疎い人が多い。ところが後続世代はIT漬けの暮らしぶりだ。この落差はあまりにも大きい。

 

 それを思い知らされたことがある。20年ほど前、日本のエレクトロニクス開発を牽引してきた老研究者から話を聴いたときのことだ。別れ際に「なにかあったら、遠慮せずにFAXをください」という言葉をもらった。そのころ、理工系の世界ではすでに電子メールが広まっていたから、FAXという言葉にちょっと驚いた。どんな通信手段を選ぶかといった生活習慣は、職域よりも年齢によって制約されるのだなと痛感したものだ。

 

 考えてみれば、僕の世代はITの出現前と出現後の両方を知っている。というよりも、どちらの環境にも適応を強いられてきたと言ってよい。自身の職業体験を振り返れば、記者になったころは原稿を藁半紙に3B鉛筆で書いた。ペンだこは、今もかすかに右手の親指に残る。それが、やがてワープロ専用機が普及するとキーボードの作業にとって代わる。そして最後のころは、パソコン一つで出稿のすべてが完結することになった。

 

 思えば遠くへ来たもんだとは、こういうことを言うのだろう。この隔世感は、ITの話ばかりではない。暮らしの隅々にまで広がっている。技術革新は大きな一因ではあるけれど、そこに経済や文化の様相が絡まって日本社会はいつのまにか大きく様変わりした。

 

 たとえば、食生活。高齢世代には、食事にどんな料理が出てきても醤油やソースをかけたがる人が多い。そう言えば、1960年代は家庭の食卓でも食堂のテーブルでも醤油差しやソース入れが鎮座していたものだ。ところが今は、なべて本格レストランに倣ったように料理にはあらかじめ味をつけて供することがふつうになった。これなどは80年代以降、海外情報に接する機会がふえて欧米の生活様式が浸透したことの表れだろう。

 

 僕たちの世代を境目にして日本社会は激変した。日本の現代史の転換点といえば、1945年の終戦ばかりが語られるが、そのあとも大きく変わった。大きな世代断絶は戦後にこそあるようにも思える。昭和から平成への流れのなかに、その亀裂は見てとれる。

 

 で、今週の1冊は長編小説『紙の月』(角田光代著、ハルキ文庫)。金融機関に勤める女性が不正に手を染め、東南アジアに逃避行するという筋立ては「そんなニュース、あったなあ」と思わせるリアルな虚構世界だ。だが一方で、小説ならではの強調や誇張があって読み手を引き込んでいく。筋そのものには、テレビで朝の情報番組を観ているような既視感があるのだが、それを肉づける登場人物たちの描き方にハッとさせられる発見がある。

 

 この作品は、もともと新聞小説だった。2007年以降、静岡新聞などの地方紙に次々に連載されたという。加筆されたものが単行本として世に出たのは2012年(角川春樹事務所刊)。14年に文庫化された。同じ年、テレビドラマ化(NHK)も映画化(吉田大八監督)もされている。僕は、原田知世が主演したドラマのほうを観ている。彼女の透明感は原作の主人公にぴったり合うと、後から小説を読んでつくづく思った。

 

 さて、ここからは中身に入るが、例によってネタばらしにならないよう筋は追わない。登場人物がいる世界の断面を切りとっていこうと思う。まず記しておきたいのは、主人公の梅澤梨花が属する世代。1986年、25歳で食品会社勤めの夫と結婚、夫婦は89年に横浜市緑区に建て売りを買って移り住んだ、とある。親たちは高度成長期のモーレツ世代、それに対して自分たちはバブル崩壊までに持ち家の獲得に間に合ったバブリーな世代だ。

 

 この世代像は、少女期の学園生活からも感じとれる。梨花が通ったのは「川崎にほど近い横浜の、田園都市線沿線にある中高一貫の女子校」。そこで彼女は、流行には無頓着なのに人目を引きつける生徒だった。「成績は優秀なのに優等生ではなく」「いじめに荷担することもなく」「だれにでも屈託なく話しかけ」「大人びて見えた」。ニュータウンの空気が漂う学び舎に、とりたてて派手ではないが良き趣味を身につけた女の子がいる。

 

 その梨花が、なぜ大胆な犯罪に手を染めるようになったのか。押さえておきたい場面がいくつかある。一つは、夫婦で誘われたバーベキューパーティーに自分だけが行くことになったときの夫の言葉。「おやつは五百円まで? お小遣いはいくらまで許されているの?」。遠足の思い出をもちだした冗談に過ぎなかったはずだが、夫の金を「つかわせてもらう」という現実を突きつけられた気がした。夫に家父長の匂いを感じた瞬間だったとも言える。

 

 もう一つは、デパートの買い物場面。夫への違和感を宿した梨花は、このときまでに銀行にパートで勤めはじめ、さらにフルタイムで働くようになっていた。化粧品売り場で選んだ商品の合計は5万円ほど。ところがうっかりしていて、財布には2000円しかない。「さっき顧客から預かった現金入りの封筒に、咄嗟(とっさ)に手が伸びる。鞄のなかに手を突っ込んで封筒から紙幣を取り出し、五枚揃えて梨花はカウンターに置いた」

 

 罪がないように見えるちょっとしたひとことが、心に淀みを生みだして人生の道筋を変える。一瞬立て替えてもらっただけとも弁解できる行為が、心の歯止めをとり払って道を踏み外す。そんな場面を随所に忍ばせているのが、著者の巧妙なところだ。

 

 その行き着く先は感覚麻痺だ。「梨花にとって金額を示す数字は何か意味のあるお金ではなくなった」。ブランド品に費やした数十万円が「いつ口座から落ちて、その口座には今いくらあって、引き落とし後はいくらになるのか」、そんな計算はしない。「どの銀行の、どの口座の、どのお金もつながっている」という錯覚に陥ったのだ。梨花が顧客回りをしながら着服した額は、1990年代半ばから2001年にかけて約1億円に膨らむ。

 

 こうした麻痺は、バブルを経験した世代に共通の落とし穴だった。それは、梨花に少なからぬ影響を与えた友人の中條亜紀にも見てとれる。バツイチで、夫の実家に引きとられた娘とは友だち同士のようにつきあっている。その亜紀の購買行動が凄い。膝丈パンツ3万8千円を試着して、紺か白か色に迷うと両方を買う。店員が「上に合わせるもの」をいくつか勧めると、それらも「まとめてもらっちゃうわ」。2時間で総計35万円ほどの買い物だ。

 

 彼女たちと対比されるのが、その親の世代。梨花が訪問する顧客は「八割が、定年退職後の老人」で、この年齢層にあたる。「愚痴や噂話(うわさばなし)、過去の自慢話や日々の思いつき」をひたすら聞き、電球の取り替えのような手伝いをすると、「あんたが独身だったらうちに嫁にきてほしかった」などと人気の的になる。かつてのモーレツ世代は孤独で、まったりとして無警戒だった。罠は、その手もとに潤沢な蓄えがあったことである。

 

 この2世代の断絶を鋭敏に感じとっている人物も登場する。梨花が昔つきあった山田和貴の妻、牧子。なにかというと子どもたちの境遇を自身の少女期と比べて「かわいそうだ」と言う。たとえば、今の住まいが「いい学校」への通学に不便なこと、合格祝いをしたレストランが高級ではなく「ファミリーレストランとかわらない店」だったこと。それらの一つひとつが彼女の心を曇らせ、深夜、キッチンでひとり酒を飲んでいたりする。

 

 思えば、闇雲に働いた高度成長から、右肩上がり幻想に踊らされたバブルへ、その崩壊から停滞へ、という変遷は、経済だけでなく人々の心理にも相転移をもたらした。この小説は娯楽作品であると同時に、市井の人々の内心に生じた軋みをあばく歴史書でもある。

(執筆撮影・尾関章、通算388回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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