『凍りついた香り』(小川洋子著、幻冬舎文庫)

 サッカーのワールドカップ(W杯)ブラジル大会で、日本チームは決勝トーナメント進出を逃した。オリンピックがあってもほとんどテレビ観戦しないほどスポーツと距離を置く僕だが、こんどは試合中継をボーッと眺めていることが多かった。
 
 深い意味はない。たまたま、W杯が開かれる場所が日本との時差12〜13時間のブラジルだったこと、たまたま、僕が60代の域に達して早起きになったこと。その二つのめぐり合せで早朝、テレビをつけるとスタジアムの光景が目に飛び込んできた。
 
 サッカーは、球を蹴る足の向きがちょっとずれるだけで状況が大きく変わる。ずれがもとでパスがインターセプトされることもあれば、シュートがほんの数センチ外れることもある。初期条件、すなわち蹴りだしの角度のわずかな差で、その後の展開がガラッと違ってくる。これは物理学で言えばカオス現象だ。「サッカーはカオス」という指摘はすでにあるようだが、その醍醐味はカオスが切れ目なく立ち現われるところにあるのだなと痛感した。
 
 カオスとは、気象などにみられる予測困難な現象を言う。大気の動きに相対論も量子論もほとんど関係ないから、それは、ニュートン物理の方程式が支配する決定論の世界だ。一つの初期条件に対して、一つの未来が決まっている。だが現実には、初期条件の違いを子細に見分けることは無理難題なので、未来がどうなるかを読みとれない。だから、僕たちの目には偶然の仕業のように映る。
 
 今回、W杯日本戦を俄か観戦していると、日本チームは攻めあぐねているな、と素人目にもわかった。力量差があったのは間違いない。とはいえやはり、カオスが味方してくれなかったという部分もあるのだろう。
 
 ところが、長谷部誠主将は第3戦の敗北後、「自分たちの力不足で、それ以上でもそれ以下でもない」と語った。本田圭佑選手は「もう敗者なんで何を言っても意味がない。受け入れる、それしかない」と言っている。カオスの運不運を飲み込み、勝敗を「力」の反映とみてそっくり「受け入れる」。ここに、サッカーというスポーツの爽快さとサッカー選手の潔さがある。(コメント引用は朝日新聞報道から)
 
 考えてみれば、人の世は多かれ少なかれカオスだ。なにかのさじ加減で、物事があらぬ方向に動いて、ついているなと喜んだり、ついていないなと嘆いたりする。サッカーは、そんな人生模様を前後半それぞれ45分に圧縮して見せてくれるものなのだと言えよう。
 
 で、今回は、それと真反対の世界を。『凍りついた香り』(小川洋子著、幻冬舎文庫)。著者は文学部出身なのに、数学を扱うのが好きな作家だ。それは、代表作の一つが、映画にもなった『博士の愛した数式』であることからもわかる。『凍りついた……』は、これに先立って1998年に単行本として出た作品で、80年代から90年代にかけて一部の少年少女たちの間で盛んになった数学競技の話をいち早く取り込んでいる。
 
 主人公は、フリーライターの涼子。調香師の修業をしていた連れあいの弘之――愛称ルーキー――が仕事場で薬物中毒死する。自殺らしい。涼子はルーキーの実家を訪ね、彼が少年時代に数学のヒーローだったことを知る。16歳のとき、プラハで開かれた数学競技の国際大会に出た後、競技活動から離れ、高校も中退し、やがて家を出た。著者は、真のルーキー探しをする涼子の旅を「日本編」と「プラハ編」を織り交ぜながら描く。
 
 ヒーローの証しは実家の一室。「本箱、食器棚、サイドボード、チェスト、洋服ダンス、ドレッサー、電話台、バタフライテーブル。そこにはあらゆる種類の家具が集められていた」「そして本来収納していた品々はどこかに置き去りにされ、その代わり、すべてにトロフィーが飾られていた」。ルーキーの家出後、それは母に慰めをもたらした。「戦利品を整理し、分類し、展示し、眺める」「撫で回し、頬ずりし、抱き締める」というように。
 
 勝者がいて敗者がいる競技に俗物性はつきものだ。母は、その象徴のような役回りを演じている。ところが、数学競技の選手当人の心には、それとは異質の価値観がある。ルーキーのふるまいからは俗が感じられない。
 
 たとえば、涼子とルーキーが交わしたローズマリー栽培の話。涼子が「あそこの園芸店はよくないわ。半分が枯れちゃったの。おととい植え替えたんだけど、また半分は根付いていないみたい。この調子だと、全部根付くまでに何回植え替えたらいいのかしら」と問うと、ルーキーは「n本根付かせるとして、k日後にうまくゆく確率は括弧1引く2のk乗分の1、括弧のn乗であり……」と答えていく。1日1回の植え替えを想定しての試算だろうか。
 
 僕たちは理詰めでものを考えるとき、AならばB、BならばCとざっくり言うにとどまる。ふつうはA、B、Cをきちんと定義できないから抜け穴だらけになりやすい。ところが数式の達人は、定義のあいまいさをネグって一滴の水も漏れない鉄壁の論理を築いてしまう。
 
 それが極まると、パニックに陥ることがある。二人が一緒に暮らし始めたころ、涼子が夜遅く帰宅すると、ルーキーは台所の片隅で泣いていた。ガスレンジの下の戸棚が開け放たれ、床には調味料類が散らばっている。「うまくいかないんだ」
 
 ルーキーは、戸棚の調味料類の並べ方が今のままでは、ビネガーの匂いがソースに移りやすいことが気になって、そっくり配置替えしようとした。ところが「途中で、使用頻度の面から配列のバランスがどうしようもなく崩れることに気づいて、最初から公式を作り直す必要に迫られた」。それに没頭しているうちにガスの火がつけっぱなしであることを忘れ、あわててレンジのフライパンを下ろそうとして足もとの調味料を蹴ってしまい……。
 
 匂いが移りにくくなる最適解は使い勝手がよくなる最適解と必ずしも一致しないという難しさ。そこにガスの火を消し忘れたり、ものを蹴散らかしたりという人間系の攪乱要因が入り込んでくる。台所の難問を公式一本で解決しようとしたところに無理がある。
 
 涼子がプラハの修道院裏の洞窟で幻想体験のようにして出会った孔雀の番人の一言は、ルーキー流の世界観を暗示する。「すべてはあらかじめ、決められているんです。あなたが何かを為(な)したとしても、為さなかったとしても、その決定を覆すことはできません」
 
 ここまで切りだした話は、どれもルーキーの理系部分だ。ところが彼には、人間としての温かみもあった。少年時代、弟が父の仕事道具の聴診器を誤って壊したときは身代わりとなって名乗り出たという。「うな垂れて、元気なく、でも冷静な声できっぱりとね。どんなふうに聴診器が壊れたのか、その瞬間を再現さえしてみせた」と弟。「踏んだ角度」や「潰れた時の音」には、その場にいたかのようなリアリティーがあったらしい。
 
 愛までも緻密な論理で紡ぎだされるということか。この挿話は、ルーキーがプラハで何を体験したのかという謎の伏線ともなっている。律儀であり、優しくもある。これが矛盾となって現われたきに悲劇が起こる。
 
 数学がもともと苦手な僕には取り越し苦労かもしれないが、現実世界では数学的になることをほどほどにして、サッカー的に生きたほうがよいようだ。ただ、書き忘れてはいけないのは、天体運動にカオス現象がありうることを19世紀に見いだしたのは、フランスの数学者アンリ・ポアンカレだったということだ。やっぱり、数学者は僕たちの一枚上をいっている。数学はスゴイ。
 
写真》数式の記号や文字は、僕たちを水も漏らさぬ思考世界に誘う=尾関章撮影
(通算219回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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コメント
Mayumi Takagiさま
お久しぶりです。忘れずにいてくださって、とてもうれしいです。
≪“数学がもともと苦手な僕には”、、、科学部門記者として数学は必要なのではないかと思うのですが≫
痛いところを突かれました。でも、最近はあえて、こう告白しようと心に決めているんです。
数式をじっと見る。ここの数値がふえるとこっちの数値が減るんだな、というくらいはわかる。ただ、それ以上に式を操作するところまではいかない――そのくらいのところで科学は十分に味わえるように思います。
それを、すべてがわからなければ科学に近づけないと思い込んでしまったところに、文系理系の断絶があるのではないか、と思うんです。
ダンカン・ワッツの本などを読むと、そのことを痛感しますね。
  • by 尾関章
  • 2014/07/07 11:17 AM
ご無沙汰しています、

小川洋子さんの“博士の愛した数式”はたまたまTorontoの libraryで見つけ、読みました。 ズット、何年も、芥川賞を読むたび “あぁ、また時間の無駄だった“と思わせる作家ばかりでしたので、この発見は嬉しかったです。 『凍りついた香り』次回、日本に帰国したさい読む本のリストへ加えておきます。 ネット購入したら楽でしょう、と思われるかもしれませんが、本はなるべく購入しないようにしています。 引越しのたびに本の処分が大変 ― 先日も日本の実家でわずかに残っていた書籍のなかに大江健三朗の全集がありました。 古書店へ問い合わせたところ、“大江健三朗は売れないから結構です。”との返事。 近くの公共施設に問い合わせてみても “置き場がありません”、結局 廃棄処分となりました。

ところで、これを書くのは尾関さんのコラムに、“数学がもともと苦手な僕には”、、、科学部門記者として数学は必要なのではないかと思うのですが。 簡単に’理数系‘と’文系‘を分ける日本ではとても奇妙な発言に思えました。 私はITや engineersの office で仕事をした時、彼らが数学に弱いと思わされた事度々ありましたが、人間の頭脳って本当に不思議と、、、なんでこんな簡単な基礎数式にまごまごし、次の新しいプログラムを書けるのでしょう?

“偶然の科学“として訳されているEverything Is Obvious, Once You Know the Answer – How Common Sense Fails Us by Duncan J. Watts. はTorontoの libraryにあり読みました。 この本、セカンドタイトルにもあるように、“常識”を疑うという, 物理学から社会学者になったというMicrosoft teamの作者ならではの著ですね。

では、次回を楽しみにしています。

P.s.掲載の確認はいりませんので、
  • by Mayumi Takagi
  • 2014/07/06 2:45 AM
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