「あなたに似た子」「朝靄が死をつつむ」

(『新装版 二人の夫をもつ女』=夏樹静子著、講談社文庫=所収)

写真》いくつもの可能性

 選挙が終わった。どの党が勝った、負けたという政局ばなしをするつもりはない。確実に言えるのは、これからしばらく憲法を変えるかどうかが大テーマになりそうなことだ。

 

 日本国憲法については、当欄の前身コラムでとりあげたことがある(文理悠々2013年9月17日付「日本国憲法を読むという読書」)。そこで僕は「昨今の改憲論議でもっとも気になるのは、戦争直後にできた憲法は今の時代の求めに応えていないという言い分だ」と書いた。新たに世間の関心事となったテーマをもちだしては、現憲法を「時代遅れ」と断ずる。その結果、改憲派主流がずっと主張してきた第9条の改定は陰に隠される。

 

 このときの新顔テーマの定番が環境と生命だ。軍事力保持を明文化するかどうかとなると改憲のハードルは高くなるが、環境保護や生命倫理の話なら抵抗感が小さいので、有権者も乗ってきやすいだろう――そんな思惑が見え隠れする。現に、右派ではなく中道寄りの勢力が改憲を口にするとき、検討項目に挙げられることが多い。だが、ここは熟考したい。これらの問題に対処するのに、ほんとうに憲法を変える必要があるのか。

 

 前述「文理悠々」の拙稿では『新装版 日本国憲法』(講談社学術文庫)を読んで、少なくとも環境権については「時代遅れ」とは言えない、と論じた。第25条で国民の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を認め、国に「公衆衛生の向上及び増進」の努力を義務づけていて、環境の保全や公害の回避は当然そこに含まれる、と僕には読めるのだ。先人が「健康で文化的」という幅のある言葉を選んだことに深い敬意を抱く。

 

 ということで今回は、生命観について考える。最近目にとまった話題に体外受精の広まりがある。日本産科婦人科学会が今年9月に公表した統計によると、2015年に国内ではこの技術を用いて5万1001人の赤ちゃんが生まれたという。出生児20人当たり1人の勘定だ。この手法が、不妊治療の一つとして日常化したと言ってもよいだろう。1980年代に医療分野を取材した経験がある元新聞記者にとっては驚くべき数字だった。

 

 日本で初めて体外受精児が生まれたのは1983年のことだ。そのころは生命誕生につながる受精を人工の環境下で代行する医療は好奇の目で見られ、拒否感を抱く人も多かった。だが30年あまりが過ぎて、いまや不妊に悩む夫婦の有力な選択肢になっている。このことからわかるのは、人々の生命倫理は時代とともに変わるということだ。だから、こういう問題は憲法になじまない。生命科学技術を改憲時点の倫理観で縛るべきではない。

 

 で、今週はミステリー。このジャンルは生命科学を扱うとき、執筆時点の最新知見をもとにする。それを今の視点で読んでみると、世の中の生命観の移ろいが見えてくる。

 

 話題にしようと思うのは、夏樹静子作品。この作家は本格推理の書き手でありながら、日々の生活に悪意がしのび込む様子を描きだすことに長けている。社会派ではある。ただ、松本清張の作品群に見られるようにマクロの悪をあばきだすのではなく、どちらかと言えば家庭や職場に潜むミクロの悪を切りだす、という印象が強い。今回は、そんな作品が並ぶ『新装版 二人の夫をもつ女』(夏樹静子著、講談社文庫)所収の2編をとりあげる。

 

 巻末に、この短編集は1980年に講談社文庫から出たとある。僕が手にとったのは、その改訂版で2014年刊。著者の作家デビューが1970年であることを考え合わせると、ここに収められた作品は70年代の最新知見を反映しているとみてよいだろう。

 

 まずは、冒頭の1編「あなたに似た子」。最初の段落には「午前十時台のこの団地の道路は、人通りが途絶えて、奇妙にシンとした感じになる」「大方の主婦たちが、夫や子供を送り出したあと、お茶を淹(い)れ、帯ドラマを視ている時間だからであろう」と書かれている。若い夫婦が「団地」にスイートホームを求め、そこには昼間の住人として専業の「主婦」たちがいる――それが、都市郊外の典型的な光景だった時代の話である。

 

 冬のある日、団地の歩道を、もとは自身も入居していたが今は近くの戸建てに移った梓若子が3歳の勝巳を連れて歩いている。すると、公園にたむろする女性たちが「いっせいに振返った」。幾人かの視線には「冷ややかな反感」がある。通り過ぎると「まったく似てるわねえ、勝巳ちゃん」「本当ねえ。近ごろますます似てくるみたい」。そんな言葉が聞こえてくる。この団地に住む慶田了介の子、寛とそっくりだというのである。

 

 不倫の詮索。団地コミュニティーにあっては井戸端会議の格好のネタだろう。おもしろいのは、その勘ぐりが一定程度に真実だったことだ。若子と了介はたしかに一線を越えていた。そして実際、勝巳と寛は似ている。だが、勝巳は了介の子ではなかった。「彼は三年半前に生まれ、妊娠当時若子は慶田という男の存在すら知らなかったのだ!」。世間の読みはズバリ的を射ていないが、自分のほうからは弁明しにくい状況がそこにはある。

 

 ここで出てくるのが、血液型だ。若子と了介の会話。「あなたは何型?」「ぼくはO型だ」「主人はA、私はB型なの。これで勝巳のを調べれば、はっきりするわけだわ」――そうだ、あのころは血のつながりを探るにはこれしかなかった。この作品では「血液型による親子鑑定」はABO式のほかにも多くの方式があり、それらを組み合わせて確度を高められることが書かれているが、まずは当事者がA、B、AB、Oのどの型かを知ることだった。

 

 この作品は、ここからの展開がおもしろいので筋に立ち入るのは打ち止めにする。一つだけ明かせば、ABO式の鑑定がもたらす疑心暗鬼がミステリーの核心にあることだ。両親の型によって、この型の子は生まれないと断定できるケースはある。だがその一方、たいていの組み合わせでは子の型が一つに決まらない。一つに決まる場合でも、それは血がつながっていても矛盾しないというところでとどまり、血縁の有無を確答できないのである。

 

 今ならば、DNA型鑑定がほぼ確実に生物学的な親子関係を判別できる。遺伝子を乗せたデオキシリボ核酸(DNA)の塩基配列の特徴は人物を特定できるだけでなく血縁関係もたどれるので、疑心暗鬼を追い払える。「あなたに…」には、若子が「両親の血液型の組み合せに応じて生まれうる子供の血液型を表にしたもの」を見ながら気を揉む場面があるが、それがミステリーのひとこまとして成立しなくなっているのである。

 

 「朝靄が死をつつむ」にも血液型が出てくる。主人公「私」の友人(27)がアパートの自室で死ぬ。ガス栓が全開になっていて自殺のようではあるが、事件の可能性もある。体内から精液が検出され、血液型を調べると彼女の婚約者のものと同じだったが、もしかしたら別人にレイプされたのかもしれない。疑わしい人物が浮かびあがっていたので、「私」はその男の血液型を知ろうとする。これも今なら即刻、DNA型鑑定に付されるだろう。

 

 余談だが、ここで時代を感じるのは、「私」がいともたやすく血液型情報を手に入れることだ。その男の実家でかつてお手伝いをしていた女性にあたると、「それなら、古木先生とこでうかがえばわかりますよ」と主治医の記録を看護師経由で聞きだしてくる。血液型が事件捜査で幅を利かせていたころ、個人情報の扱いも緩かった。昨今は捜査権をもたない素人探偵が事件に首を突っ込んでも、自力では情報をなかなか集められない。

 

 この2編からわかるのは、DNA科学が世の中のありようを変えたということだ。不倫話であれ、刑事事件であれ、血液型が頼りの時代はあいまいな部分が大きかった。ところがDNA型は、きっちりと答えを出してしまう。これは、ミステリーの土台を揺るがすだけではない。僕たちが日々の暮らしでもろもろの判断をするときにも影響を与える。世の中のしくみは、その変化を見極めながら再設計されなくてはならない。時間のかかる作業だ。

 

 人は今、DNAという生命情報の塊を手にした。だが、その賢明な扱い方をまだ見いだしてはいない。新しい生命倫理が熟するまえに、それを憲法に盛り込むのは拙速に過ぎる。

(執筆撮影・尾関章、通算392回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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