『ぼくらの民主主義なんだぜ』(高橋源一郎著、朝日新書)

写真》草の根

 こうして週に1度、折々の話題を取り込んでブログを書いていると、ジャーナリズムの弱みを改めて感じることがままある。たとえば、今春の当欄ではオーストリアの大統領選でリベラル系候補が勝利した話を書いた(2017年3月17日付「欧州揺らぐときのハプスブルク考」)。ところが10月の国民議会選挙では一転、移民難民に厳しい政策をとる中道右派が第1党になった。ジャーナリズムはどうしても一瞬の風景にとらわれてしまう。

 

 だから、記者にとって自分の過去記事を読むのはつらい。記述に間違いがなくても、今となってはピンと来ないことがある。先が読めていなかったのだと言われれば、反論のしようがない。ただ、だからといって切り抜きをポイ捨てできないのもまた事実だ。人はあるとき、あるところでしか生きられない。そもそもジャーナリズムの語源は「日々の」というラテン語にあるのだから、「あるとき、あるところ」の視点は宿命と言ってもよいだろう。

 

 こう考えてみると、過去記事にはそれなりの存在理由がある。僕たちは、過去を現在の視点から振り返り、今の自分に都合よく改変しがちだ。だが、記事をたよりにその時点に立ち戻れば、ウソがつけなくなる。ジャーナリスティックな文章の意義は、そこにある。

 

 近過去で言えば、人々の心にとりわけ強く印象に残るのは2011年3月11日の東日本大震災とそれに伴う東京電力福島第一原発の大事故だ。3・11からしばらく、日本社会では旧来の価値観が大きく揺らいだ。それは、科学技術の分野で原子力の安全神話が崩れたということにとどまらない。世の中のありようそのものに疑問符がついて、心ある同時代人は「自分たちはこれまで、いったい何をしてきたのか」と自問したのである。

 

 あのとき、僕の心をよぎった思いを呼び返してみよう。大都市では大量消費が口を開けている。田舎町には巨大施設が並び、都市圏の消費生活を支える電力を生みだしてきた。それは、原子核という自然界の安定基盤をたたき割る作業で得られるものだった。この電力需給システムが脆くも崩壊して、災厄を招いた。しかも、それによって平穏な生活を奪われたのは、もっぱら田舎町の側だった――この大都市優先の構図に疑念が生じたのである。

 

 あれほど強烈な過去が、たった6年でもうすでに風化してはいないだろうか。原発の再稼働に反対していても、自分の暮らしを見直そうという気持ちをもち続けている人はそんなに多くない。2020年東京五輪パラリンピックで一極集中がさらに進みそうだと辛口の批評をすると、空気の読めないやつだと冷笑されかねない。あのときの自問は、どこへ消えたのか。過去をその時点に立ち返ってとらえることが今こそ必要だと思えてくる。

 

 で今週は、『ぼくらの民主主義なんだぜ』(高橋源一郎著、朝日新書)。著者が朝日新聞「論壇時評」欄に執筆した連載にもとづく。収録されたのは、2011年4月から2015年3月までの掲載分。加筆したとあるが、1回読み切りのスタイルはそのままだ。

 

 著者は、もちろん今をときめく人気作家。略歴欄に「1951年生まれ」とあるのをみて、そうか、僕と同年生まれだったのかと驚いた。この本では「学生の頃、まったく授業に出なかった」「20歳だった頃、ぼくは、ある大手自動車工場の季節労働者として働いていた」といった昔話が出てきて、さらにデモ現場での逮捕歴に触れた箇所もある。1970年代初頭、時代の空気を思いきり吸って突っ張っていたカッコいい同世代の姿がそこにはある。

 

 僕が励まされたのは、「あとがき」で著者が時評執筆を引き受けるまでの内心の軌跡を披歴しているのを読んだときだ。「読者のことを考えるとき、目の前の読者、いま読んでくれている読者だけではなく、いつか読んでくれるかもしれない読者のことを考えるようになった」「未来の読者から、『あなたが生きていたその世界ではなにがあったのですか?』と訊(たず)ねられたら、『こんなことがあったんだよ』と答えたいと思った」とある。

 

 これこそが、ジャーナリズムにとって宿命の「あるとき、あるところ」という限定された視点がむしろ強みとなって現れる回路ではないか。当欄が読書ブログにもかかわらず、週ごとに直近の世情をなるべく切りとろうとしているのも、まったく同じ思いからだ。

 

 中身に入ろう。冒頭の1編は2011年4月28日付なので、東日本大震災と福島第一原発事故の混乱のさなかに掲載された。「3月11日以降、この国のあらゆる場所が『論壇』になった」として、いわゆる論壇の外部から「目が醒(さ)める」ような発信を拾いあげる。それが、「城南信用金庫の『脱原発宣言』」だ。ユーチューブにある理事長の言葉を紹介しながら、「そこに、わたしは『新しい公共性』への道を見たいと思った」と書く。

 

 実は僕もあのころ、論壇外の「論壇」に目を見開かされた。城南信金は地域の金融機関だが、もっとローカルな商店街でも同様なことが起こっていたのだ。僕お気に入りの昔ながらの理髪店。そのホームページをのぞいたら、店主が反原発を呼びかけていた。著者の言葉を借りれば「『原発』のような『政治』的問題は、遠くで、誰かが決定するもの」という「思いこみ」を破る言論が3・11からしばらく、列島のあちこちに花開いていたのである。

 

 2011年5月26日付も原発が主テーマ。ここでは、関曠野(「現代思想」2011年5月号)と中沢新一(「すばる」2011年6月号)の論考を読み解いている。著者によれば、前者は原子力が「ニュートン物理学の枠外」にあって「日常の感覚では理解できない」ことが人々を不安にさせる、とみていた。一方、後者には「原子力発電は、他のエネルギー利用とは本質的に異なり、我々の生態系の安定を破壊する」との見立てがあったという。

 

 両論考は、僕が日ごろ物理学史を踏まえて論じていることと響きあう。――水力発電は重力のおかげだ。火力発電はどうか。燃焼は化学反応であり、電子がかかわっているので結局は電磁力に帰する。重力も電磁力も、人間が馴染んだものだ。ところが、原発はこれらと別の力で束ねられた原子核を壊してエネルギーを得る。その力は人類にとって長く未知の存在であり、20世紀も1934年になって湯川秀樹が理論によって導いたものだった。

 

 この2回の時評からわかるのは、3・11直後には真の意味での論壇が広く、深く展開されたことである。一方では、メディアとは縁遠いところにいた人々が壇上にあがって発言した。もう一方では、文系の論客がふだんなら理系マターとして片づけられがちなテーマに分け入って文明論の視点から批判を加えた。これこそが、「ぼくらの民主主義」だったと言えないだろうか。2017年の今、その熱気が残っているようには思えない。

 

 ただ著者は、3・11直後の気分にのみ込まれていたわけではない。当時の閣僚が、原発事故で住民がいなくなった地域を「死の町」にたとえて責められた一件では、自身も同じ言葉を口にしたことを告白して「あんな程度で辞任させられるわけ?」と問う。ここでは、東京新聞が2011年9月20日付の社説で「言葉で仕事をしているメディアや政治家が、言葉に不自由になってしまうようでは自殺行為ではないか」と自戒したことを引いている。

 

 ちょっと気になったのは、僕たちの世代特有の記憶が著者にも染みついているように見える箇所だ。それは、大震災を「増幅」したものは国の構造に潜む欠陥だったと論じた後、「『お上』には、この問題を解決する能力がないのではないかと疑ってもいる」と述べたくだり。この「お上」という2文字に僕は引っかかった。1970年前後、反体制の文化人がよく用いた表現だ。懐かしくはあるが、国イコール「お上」の誤解を招きかねない。

 

 「お上」ではない政権を設計して、それを樹立するのが民主主義ではないだろうか。

 

 著者は、若手論客の古市憲寿が著した『誰も戦争を教えてくれなかった』(講談社)という本をとりあげて、そこにある「『戦争を知らなくていい』という結論」に共感を示す。僕も、まったく同感だ。民主主義は、1945年直後の厭戦感情や1970年前後の反体制運動だけに存するわけではない。そのことに気づいたとき、それは「ぼくら」のものになる。3・11で草の根に広がった「論壇」を、僕たちはもう置き忘れてはいないだろうか。

(執筆撮影・尾関章、通算393回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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