『原発労働記』(堀江邦夫著、講談社文庫)

写真》線量の単位

 2011年3月11日の東日本大震災で、東京電力福島第一原発が水素爆発を続発させてからしばらく、周辺地域では放射性物質の飛散による低線量被曝が人々を大きな不安に陥れた。このあと、除染の当面の目安として「年間の被曝線量20ミリシーベルト未満」という話が出てきた。それを聞いて僕は一瞬耳を疑い、そして、とんでもないことが起こったんだなあ、と改めて痛感した。昔の常識とあまりにもかけ離れていたからだ。

 

 これには、自分の記者人生が反映している。1977年、新聞社に入ってすぐ、北陸福井の支局員になった。着任時、福井県南部には若狭湾沿いに原発がすでに6基あり、さらに新増設の計画が進行していた。僕は新人記者としておもに警察回りや郡部回り、さらには地場産業や都市問題などを取材していたが、原発関連の取材に駆りだされることも多かった。「線量」をめぐるあれこれは、そんなときにしばしば耳にする論点の一つだった。

 

 僕の記憶に刻みつけられたのは「500ミリレム」。1977年に国際放射線防護委員会(ICRP)が出した勧告では、一般の人が余計に浴びる放射線の量はここまでに抑えるという年間の線量限度として、この数値が定められていた。そして1990年の勧告では、それが5分の1に引き下げられる。これらの基準値は、原子力推進派が好んでもちだしていたように思う。我々は、この一線を守る。だから、原発は「安心安全」というわけだ。

 

 レムは、放射線量を生物体への影響という観点で測る単位。1980年代半ばからはシーベルトのほうがよく用いられるようになった。1シーベルト(Sv)=100レム(rem)。前述の「限度」は1977年勧告が5ミリシーベルト、1990年勧告が1ミリシーベルトである。3・11後に突然現れた「20ミリシーベルト」は、これらの勧告よりもずっと高い。非常時と平時という違いはあるにしても、このズレには愕然としてしまう。

 

 現に起こってしまった災厄のまえで、死守するはずの一線がかすんでしまう。安全神話の崩壊とはこういうことを言うのだろう。これこそが、僕が今回の事故で受けた最大の衝撃だった。原発増設時代の現地を見てきた者として、このことは伝えておきたい。

 

 今の日本社会は、科学技術の「安全安心」を標榜して細密な基準を設け、周到な手引書を用意して事にあたるのを得意としている。官僚制度が整っているせいだろうか、世の中は隅々までマニュアル化してしまった。だがいったん非常事態が起これば、平時の基準はいっぺんに吹っ飛んでしまう。福島では、線量限度をめぐってそういう現実があったということだ。大切なのは、基準とは破られやすいものであると心得ておくことではなかったか。

 

 で今週は、500ミリレムの時代にタイムスリップしてみる。とりあげるのは『原発労働記』(堀江邦夫著、講談社文庫)。もともと1979年に『原発ジプシー』(現代書館)として出版されたものが84年に講談社文庫に収められ、福島第一原発事故直後の2011年5月に書名と本文を改めて復刊された。著者は1948年生まれのフリーライター、記録作家。この本は自ら労働者として原発に入り、その実態を日記形式で伝えた体験記である。

 

 改題の背景にはたぶん、「ジプシー」が今では差別語扱いになっているという事情もあるのだろう。この一点だけでも歳月の流れを感じる。僕にとっては、なんと言っても福井で駆けだしの記者だったときに話題となった本だ。当時も、県内原発の様子が書かれているので一応は目を通した。ただ、同世代の著者が身ひとつで現場に飛び込む突撃精神に嫉妬めいた反発を感じて、きちんと読まなかったことを反省する。今回こそは熟読してみよう。

 

 まず感じ入ったのは、著者の書き手としての力量だ。関西電力美浜原発の定期検査で働くことになり、地元の人の小型トラックで原発へ向かうときの情景描写。「どこからこれだけ集まってきたのかと思うほどの数の車が、山肌にへばりついたような羊腸とした細い道を、騒音と排気ガスを撒きちらしながら原発へ原発へと進む様は、壮観というより、むしろ異様ですらあった」。巨大施設が労働力を吸い込む不気味さを的確に切りだしている。

 

 その一方で、原発が立地された一帯の自然描写も見事だ。作業後、宿への帰途のバスから見た風景。「夕陽が放つ光の矢が赤い一本の線となり、白い波頭を横切り、海面をまっすぐに私たちの方へとむかってくる。陽が沈むほどにその光の矢は細く短くなり、ある瞬間からそれは方向を変えると、水平線の一点へと凝集しはじめる」。敦賀半島西岸の日没が若狭湾の海原を刻々と変えていく様子を、鋭い観察力で繊細な感性をもって記述している。

 

 美浜原発の報告で驚かされるのは、「放射能の心配はない」とされた管理区域外の労働環境だ。機器類にピンホール(小穴)がないかどうかを調べる検査がそうだった。狭い空間に「キラキラと光る金属破片」や「ホコリ」が漂うなかを、口や鼻に「ウエス」と呼ばれる布きれを当てて動きまわる。著者は連日、そんな作業を続けた。宿で床に就いてから息苦しくなってタンを吐くと「ドス黒い」。それを見て「思わず身震いしてしまった」とある。

 

 管理区域に入っても、労働者は科学技術とほど遠いところで働かされる。一例は、美浜原発で「チェッカー」と呼ばれていた仕事。機器類やパイプの間を縫い、急階段を昇ったり降りたりしながら「作業中に出たゴミ類や、使用済みのゴム手袋・くつ下・マスクなどの回収と、新品の補充」をする。廃棄物をドラム缶詰めの作業室へ届け、洗いたての衣類は洗濯室から持ち帰るという往復だ。無機質のプラントにも人間臭い労役はつきまとう。

 

 では、いよいよ線量問題。この本に登場する原発では当時、作業員の被曝はここまでという「計画線量」が1日100ミリレム、週の合計300ミリレムと定められていた。ICRP1990年勧告で一般人の1年間の線量限度とされた値が1日の限度だったわけだ。著者は1日に浴びた線量を丹念に記録している。日本原子力発電敦賀原発の中枢部で働いたときはミリレム単位で10〜70台の日が続くようになり、80に達することもあった。

 

 当然、作業は短時間で交代となる。美浜原発での話。「六、七分後、突然、『ビィーッ』という重い連続音。五〇ミリレムにセットしたアラーム・メーターが“パンク”したのだ」。計器が警告を発して、若者が高線量の部屋から出てくる。次いで別の若者が飛び込み、今度は2〜3分で戻る。そして次が著者の番。パッキング10枚の取り付けだ。「九枚目がようやく入った。あと一枚。しかし、無意識のうちに足は出口にむかって走り出していた」

 

 彼らは、原発事業者傘下の雇用体制で最末端にいる労働者だ。中間に位置する元請け業者、下請け業者もそれなりに苦しい。著者が東京電力福島第一原発にいたとき、喫茶店に入ると業者の愚痴が聞こえてきた。「放射線量の限度がありますから、どうしても頭数(あたまかず)をたくさん確保しなければなりませんしねえ……」「で、確保するったって、地元の者だけでは限界がありますから、県外から引っ張ってこなければなりませんでしょ」

 

 このくだりで知ったことがある。東電の福島第一は沸騰水型だが、関電の原発は加圧水型で冷却水が一次系と二次系に分かれる――この違いが、労働者を送り込む業者には別の意味をもっていたことだ。「関電さんの原発だと、一次系、二次系と分けられてますから、線量をオーバーした労働者は放射能とは関係のない二次系(管理区域外)のタービン建屋などにまわすことができるんですけど……福島じゃあ、どこもかしこも管理区域でしょう」

 

 この本は、原発が労働者を見捨ててきた現実を告発する。著者は敦賀原発で定期検査の電源を用意するため、ケーブルの搬入作業に従事した。「定検のたびにそれ用の電気を管理区域内に付設するのは、私たち労働者だ。当然、被ばくをする。最初から定検用電源が確保してあれば、この被ばく分だけは少なくとも減少させることができるのだ」。原発は、想定外どころか想定内のリスクに対してもまともに向きあってこなかったとは言えないか。

 

 1970年代、原発まずありきの不条理は労働者が受けとめていた。それは今も続き、さらに敷地外の人々まで巻き込んだのである。最後にギクッとする符合を一つ。この本によると、79年3月11日にも福島で地震があった。日本社会の鈍感を叱るような偶然だ。

(執筆撮影・尾関章、通算395回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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