『カタルーニャの歴史と文化』

(M・ジンマーマン、M=C・ジンマーマン著、田澤耕訳、白水社・文庫クセジュ)

写真》カタルーニャの味、クレマカタラーナ(自家製)

 この秋、にわかに国際ニュースの表舞台に躍り出てきた感があるのがスペイン・カタルーニャ自治州の独立問題だ。今の欧州で1地域が1国家から分離独立するという話ではスコットランドのことがまず頭に浮かぶ(当欄2014年9月26日付「とびきり見事なスコットランド騒動」)。そして、スペイン国内の民族問題としてはバスクのほうがメディアを騒がせてきたように思う。それが突然のカタルーニャ。情報を追いかけるのが大変だった。

 

 思いだすのは、1992年のバルセロナ・オリンピックだ。中継画面のまぶしい青空を見て「ああ、スペインっていいなあ」と思ったことを覚えている。バルセロナといえば、スペインそのものだった。首都の座はマドリードに譲るが、文化の発信源としては引けをとらない。あの五輪は、そういう印象をいっそう強めたのである。だが、この都市はスペインの顔であるまえにカタルーニャの顔だった。今になって、そのことに気づく。

 

 これは、スペインの事情通にとっては当たり前のことだったのかもしれない。今回の出来事に戸惑いながら、現代のカタルーニャ独立運動と密接不可分の関係にあるスペイン内戦(1936〜1939)についてもっと学んでおくべきだった、と後悔する。

 

 この内戦で人民戦線政府を打ち破ったフランシスコ・フランコ将軍(1892〜1975)は権力を手にすると、総統を名乗って独裁体制を敷いた。この政権下で、カタルーニャ語を母語とする人々はそれを使うことを禁じられた。そのフランコの時代を僕たちの世代は知っているのだ。少年期にテレビのニュースで老総統の姿をみて、欧州にもまだ独裁国があるのだと驚いたことがある。その陰でカタルーニャ対する抑圧があったことになる。

 

 僕が好きな作家に、カルロス・ルイス・サフォンがいる。その著『風の影』(木村裕美訳、集英社文庫、上下2巻)と『天使のゲーム』(訳者、文庫名とも同じ、上下2巻)を併せて読むと、内戦前後のバルセロナの空気を知ることができる(後者については、文理悠々2013年7月8日付「バルセロナの風、サフォンの書物」参照)。バルセロナ生まれのサフォンが登場人物に託した書物愛は、カタルーニャの陰翳ある風土が生みだしたのだろう。

 

 ここで、文理悠々の拙稿で引いた『天使のゲーム』の一節を再引用しよう。夏の日の空模様を描いたくだりだ。「この日の午後、空に散る黒い雲が海からぐんぐん押しよせてきて、バルセロナのうえに結集した。水平線にとどろく雷鳴と、土ぼこりや電気のにおいをはこぶ生温かい風が、かなり大きな夏の雷雨の到来を告げていた」。そして「都(まち)の真上で稲妻が砕け、轟音と怒りの痕跡を残すときだけ、闇がさえぎられた」とある。

 

 丘から緩やかに下る地形は地中海が運ぶ湿気にいつもさらされている。南欧の青空が一瞬翳り、人々の心を騒がせる。カタルーニャの人々は、そんな胸騒ぎに慣れっこだったのだろう。世の中が激動しても驟雨をやり過ごすようにそれを躱してきたのではないか。

 

 で、今週の1冊は『カタルーニャの歴史と文化』(ミシェル・ジンマーマン、マリ=クレール・ジンマーマン著、田澤耕訳、白水社・文庫クセジュ)。訳者あとがきによれば、著者ミシェルは、フランス・トゥルーズ学派の系譜にある歴史家でカタルーニャ史に詳しい。マリ=クレールは、カタルーニャの中世文学を専攻するパリ・ソルボンヌ出身の文学者だ。ともに1937年生まれ、同姓なので家族関係が想像されるが私的事情への言及はない。

 

 前半を占める「歴史」の詳説は、正直に言うと大変に読みづらい。日本人にとっては馴染みの薄い固有名詞が次から次に出てきて、話の筋を追えなくなるからだ。たとえば、3〜5世紀の記述でも、フランク族、アラマニ族、バンダル族、スエビ族、西ゴート族といった諸集団がカタルーニャやその周辺地域に出没して抗争を繰り返す。大河ドラマを10年分くらい見なければたどることができないほど戦乱続きだったことがわかる。

 

 カタルーニャ史の要約がまえがきにある。「周辺諸国に対抗して国としての意識を持ちはじめたのちにも、完全な主権を有無を言わさず認めさせる機会にはほとんど恵まれなかった」。自らの歴史が「隣国の歴史に束縛されたり、統合されたり、同化させられたり」ということが多かったのだ。だが、「敗れはしても、消滅することはなかった」「政治的に支配されれば、経済的成功によってその意趣返しをした」。したたかな「不死鳥」である。

 

 著者によると、カタルーニャが「連帯感や集団としてのアイデンティティーを持つようになった」のは1000年ごろだ。当時、一帯はフランク王国のもとで伯爵たちの領地となっていた。10世紀後半にバルセロナはコルドバのイスラム政権の進攻を受けるが、王国は救援に腰をあげようとしない。「カタルーニャ人は、孤立無援の状況を自覚するとともに、フランクとサラセンの中間的位置に自分たちがいることを悟った」という。

 

 こうしてフランク王国の支配が終わると、伯爵たちが権力を手中に収める。「カタルーニャの人びとは、自分たちの運命を自分たちで決められるようになると…(中略)…セプティマニアとトゥルーズに対して連帯感を強く持ちはじめた」。後者二つは南仏の地名。どちらもかつてカタルーニャとともに西ゴート族の支配域だった。「伯爵たちはピレネーの北から奥方を迎えた」ともある。スペインとフランスをまたぐ紐帯は強かったのである。

 

 このことは、後段「文学」の章に描かれた14〜15世紀ごろのカタルーニャ詩壇の様子とも符合する。「詩人たちは、トゥルーズの詩会議(一三二三年)で定められたところに従い、プロバンス語で詩を書いていた」という。バルセロナで1393年に「プロバンス起源の詩の競技会」が始まったとの記述もある。プロバンスも南仏の地域。文化の領域では、時がたつにつれてカタルーニャと南仏の結びつきが強まっていたのだろう。

 

 ただ、政治には別の様相もある。バルセロナは12世紀に領地を広げ、伯爵家は西隣アラゴンの王家と姻戚関係を結ぶ。バルセロナ伯爵イコールアラゴン国王の出現だ。この「カタルーニャ・アラゴン連合王国」では「それぞれの国の独立性は尊重された」らしいが、カタルーニャは連合によって「スペインと政治的かかわりを再び持つようになった」と著者は指摘する。南仏に親近感があっても、やはりイベリア半島の国だったということか。

 

 ここで注目したいのは、この体制のもとでカタルーニャに民主主義の道具立てが仕掛けられたことだ。13世紀、ジャウマ1世(ハイメ1世=征服王)の統治下で、「コルツ」という名の議会が設けられたのである。それは階層別の代表を集め、「財政、政治、立法」で議論を交わす場だった。「伯王は諸都市の代表を集め、三つの階層に協力させることで国の安定と団結の強化を図った」とある。この時点ではトップダウンの民主主義だった。

 

 ちなみに、「三つの階層」とは聖職者、貴族、都市市民を指している。13世紀末には、この「三本の『腕』」でかたちづくられる議会が「王権をチェックし、制限する機能まで持つようになった」。1283年のコルツでは「以後、すべての法律の成立には、コルツの承認が必要だということを決定した」という。立法府の確立だ。権力者から与えられた民主主義の装置を、その権力者に枷をはめるものにつくり変えてしまったのである。

 

 14世紀半ばには「ジャナラリタット」という機関がつくられる。三本の「腕」の代表が加わる「議会の常設代表部」で、「議会で決定されたことの執行」を担っていた。興味深いのは、この機関名が20世紀のカタルーニャ史に再び登場することである。

 

 1931年にカタルーニャが「イベリア連邦内のカタルーニャ共和国」を宣言、マドリード政権から拒まれ、代わりに自治権の強い州政府「ジャナラリタット」の復活が認められた。内戦の36年秋、そこには「反ファシスト勢力すべてが顔をそろえていた」とある。

 

 カタルーニャ独立運動の背景には、荒波にもまれた民族の歴史がある。したたかな民主主義の伝統もある。その帰趨は21世紀に「国」の姿はどうあるべきかのヒントとなろう。

(執筆撮影・尾関章、通算396回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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