『江戸から東京へ 大都市TOKYOはいかにしてつくられたか?』

(津川康雄監修、実業之日本社じっぴコンパクト新書)

写真》都の木

 鬱陶しいと言えば、これほど鬱陶しいものはない。頭上に高速道路。東京には、そういうところがいっぱいある。たとえば、六本木通り。界隈はおしゃれな雰囲気を漂わせているのに表通りに出ると興ざめだ。あるいは、甲州街道。郊外ではケヤキ並木が美しいアーチを描いているが、都心に近づくと高速の高架が合流して上から威圧する。そんな不快な風景の極みが、都心の日本橋だろう。江戸の原点もやはり高速の蓋をかぶせられている。

 

 最近、これをなんとかしようという動きが出てきた。今夏、国土交通省と東京都が日本橋上方を通る首都高速道路の地下化を検討する方針を明らかにしたのだ。地元には「日本橋に青空を!」をうたう運動体もあって、署名活動が進んでいた。こうした声が政治を動かしたと言ってもよい。朗報だ。だが、これは数千億円規模の事業になりそうだともいわれている(朝日新聞2017年9月7日朝刊)。改めて、無駄なものを造ったんだなあと思う。

 

 首都高1号線の日本橋を覆う区間が開通したのは1963年。背景に、翌年の東京五輪に間に合わせようという切迫感があったことは間違いない。復興を遂げた首都が世界から国際都市として認められるには、クルマ時代に応える道路網が欠かせない。だが、市街地に用地を確保するのは難しい。そこで目をつけられたのが、公共の領域。既存の道路や水路である。それらを残したまま高架を載せる、というのは当座しのぎの巧妙な選択肢だった。

 

 思えばあのころ、「高架」は未来のイメージそのものだった。NHKが子ども向けに放映していた「宇宙家族」(原題邦訳は「宇宙家族ジェットソン」)という米製アニメを思いだす。うろ覚えだが、そこに描かれるのは空中の居住空間だ。建物がキノコのように聳え、それらを結ぶ通路が宙に浮かんでいる。これらを縫うように、マイカーならぬマイプレーンが飛び交うといった感じ。未来都市は立体的、という思い込みが強かったのだろう。

 

 僕たちの世代は、幼いころの子どもじみた都市像に生涯つきまとわれているのかもしれない。六本木を歩いていても、甲州街道を通っていても、日本橋に佇んでいても、こんなはずじゃなかったのに、と思ってしまう。考えてみれば、立体都市がカッコいいのは、遠方や上空から眺めたときだ。地面に立って辺りを見回したときに受ける印象は、それとは異なる。ここには、鳥の目をうっとりさせる街に虫の目で暮らすという皮肉な現実がある。

 

 1964年五輪に象徴される高度成長が東京をどう変えたのか。その検証は、僕たちの世代が引き受けなくてはなるまい。都市のデザインを誤れば元に戻すのに長い歳月と膨大な費用がかかる、ということを自身の半生と重ねあわせて実感しているからである。

 

 で、今週の1冊は『江戸から東京へ 大都市TOKYOはいかにしてつくられたか?』(津川康雄監修、実業之日本社じっぴコンパクト新書)。東京論の本というよりも、街歩きのためのガイドブックといった趣。奥付に表記されたのが監修者名のみであることからも、それはわかる。草稿は無署名のライターが「参考図書」(巻末に列挙)などの資料も漁りながら執筆し、そこに監修者の視点を反映させたのだろう。2011年刊。

 

 監修者は1953年東京生まれの人文地理学者。略歴欄には「景観研究の一環として、人間の空間認識を支えるランドマークに注目し、各種ランドマークの要件整理とフィールド・ワークを行なう」とある。この本も序章で、ランドマーク論から説き起こしている。

 

 ランドマークと聞いて、僕たちがまず思い浮かべるのは搭状の建造物だ。列車が目的地に近づいたとき、車窓に真っ先に現れて、さあ着きましたよ、と告げてくれるような役目を果たす。序章で名が挙がるのは、東京タワー、エッフェル塔(パリ)、ビッグベン(ロンドン)など。塔状でないものでは、天安門(北京)、凱旋門(パリ)、クレムリン宮殿(モスクワ)、ブランデンブルク門(ベルリン)なども言及される。共通点は目立つということか。

 

 だがこの本は、ランドマークの源流を欧州古代の「マイルストーン」に見いだす。里程標のことだ。ローマ帝国は紀元前120年ごろ、幹線街道に「1ローママイル(1000歩)ごと」の「距離標識」を置いたとある。旅人にどこまでやってきたかを教える目印がランドマークだった。本来は、塔でなくとも目印であればよいのだ。それが、近代技術によって建造物の3次元化が進み、「標識」の背丈も伸びていったとみるべきだろう。

 

 ローマ流の道づくりは日本にもみられる。江戸幕府は開幕翌年の1604年、「日本橋を起点として東海道や中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道など主要な街道の1里ごとに、『一里塚』を立てることを命じた」。塚には約9m四方に土を盛り、「木陰をつくる樹木」も植えたという。平べったいランドマークだ。そのゼロ里の地点が日本橋だった。この木橋は「すべての道の目的地」として、全国版のランドマークになったと言ってよい。

 

 言葉を換えれば、日本橋は終着駅だったともいえる。現に界隈は、今のターミナル駅のように商業拠点ともなった。橋の近くでは1673年、伊勢出身の商人三井家が呉服店「越後屋」を開店、「店頭で現金決済による販売を始めた」。注文まずありきでなく、店で商品を選べる今流の商法だ。この店が後年、三越百貨店となる。一つの木橋のランドマーク性が明治を待たずに、日本自前の資本主義を芽吹かせたともいえるのである。

 

 こうしてみると、ランドマークに高架の蓋をかぶせたのは歴史の文脈の度外視にほかならない。1960年代は、景観と歴史の関係に無頓着だったらしい。この本にも、首都高建設は東京五輪を前に「都市景観を考慮せず短期間で無理やり進めた事業だった」とある。

 

 あのころの突貫ぶりで驚かされるのは、国立代々木競技場だ。設計者は丹下健三。体育館2棟の貝殻のような吊り屋根が美しい。この本によると、建設地が米軍宿舎のワシントンハイツ(当欄の前身、文理悠々2013年12月9日付「『嵐』の源流、金網の中のアメリカ」参照)だったので用地返還から始まった。「建設工事にこぎつけたのは、オリンピック開催まであと20カ月とせまっていた1963(昭和38)年2月のこと」という。

 

 高度成長を支える先輩世代が見せた五輪のバカヂカラは悪いことばかりではない。首都高高架の威圧感では負の側面が露わになったが、他方で新しい都市美も出現させた。東京はそんなバカヂカラの改造を繰り返して持続してきたのかもしれないと思えてくる。

 

 そのことを痛感させるのが、丸の内にある三菱1号館だ。三菱財閥は1890(明治23)年、一帯の陸軍用地を買収して近代風のビジネス街の建設に着手する。「ロンドンのビジネス街を模したレンガづくりの建築が並ぶさまは、『一丁倫敦(いっちょうロンドン)』と呼ばれた」。4年後に姿を現したのが1号館だ。設計したのは、お雇い外国人だった英国の建築家ジョサイア・コンドル。明治期日本の洋風建築に名を残した人である。

 

 ところが、この元祖オフィスビルが1968(昭和43)年に解体される。驚かされるのは、この68年が明治百年記念式典のあった年だということだ。僕の印象では、明治維新から1世紀の節目を祝おうという思いは保守陣営のほうが強かった。だが、そうした維新礼讃派の間にも日本近代化の記念碑的建造物を残そうという声は高まらず、跡地には今風のオフィスビルが建った。高度成長の効率志向が保守思想に勝ったともいえる。

 

 さらに驚くことがある。この建物がちゃっかりと「2010(平成22)年に三菱1号館美術館として復元された」のだ。僕も入ってみたが、居心地の良い空間ではあった。この本に載っている外観画像を美術館公式サイトにある初代1号館の写真と見比べると、ほぼそっくり。では、42年間の不在はいったい何だったのか。そこには、明治の文明開化→昭和の高度成長→平成の3次産業シフトという時流に忠実なスクラップアンドビルドがある。

 

 東京人はこれからも今まで通り、そのときそのときの改造を重ねていくのか。ここらで理想の都市像を見定め、それに向かって力を集中すべきなのか。考えどころだと思う。

(執筆撮影・尾関章、通算398回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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