『限りなく透明に近いブルー』(村上龍著、講談社文庫)

 地方議員のあきれるばかりの記者会見が続いている。号泣のほうは、ちょっとおいておこう。あれよりはマシだったと本人が思っているかもしれない東京都議会議員の謝罪会見を見て、僕はむしろあっけにとられた。
 
 6月に開かれた都議会で、晩婚化、晩産化時代の政策をめぐる質問をしていた女性議員に「早く結婚したほうがいいんじゃないか」とヤジを飛ばした自民党都議の弁明だ。「なぜ、このような発言をしたのか」と問われ、こう答えた。「少子化、晩婚化が問題となる中で、早く結婚していただきたいという思いがあり、あのような発言になった。したくても結婚できない方への配慮が足りず、深く反省している」(発言の引用は朝日新聞の報道より)
 
 これほど、ピントの外れた謝り方はない。「早く結婚したほうが……」のヤジを聞いて女性が抱いた不快感のなかには、「余計なお世話」という思いもあったに違いない。いま晩婚が世の流れとなっているのには二つの要因がある。一つは、結婚したくても経済事情や社会支援の乏しさでできない人がいることだ。もう一つは、そもそも結婚を望まない男女がいることである。
 
 弁明は一応、前者には応えている。だが、後者のことは念頭にないようだ。少子化対策として、政府や自治体が先ずとるべきは前者に対する施策だろう。雇用の拡大しかり、保育所の充実しかりである。だから、議員としては「結婚できない方」の応援に奔走してほしい。だが、それ以前に一人の人間として「結婚しない」という人にも尊敬の念を払わなくてはならない。その片鱗さえ感じとれないのが今回のヤジだった。
 
 男であれ女であれ、結婚するかしないかは一つの選択であり、人それぞれが決めるべきものだというのは、互いの自我を尊ぶ近代社会では当然の話だ。ただ、この常識が日本社会では先の大戦まで通じなかった。「早く結婚したほうが……」という言葉を投げつけた都議はアラウンド50。1960年代に生まれた世代に戦前戦中の名残をみたようで驚く。きっと、彼の子ども時代に日本社会で進行した地殻変動に気づかなかったのだろう。
 
 1970年前後の日本社会に沸き起こった若者たちの反抗は、60年安保のように政治闘争の枠に収まりきらなかった。そこにあるのはアンダーグラウンド、ヒッピー、ジャズ、ロック、ジーンズといった言葉で象徴される若者文化の総体であり、口では民主主義を言う親や教師の世代に染みついた戦前戦中の思考様式に対する痛烈な異議申し立てだった。それは「よい子」であることへの自己否定にもなっていた。
 
 ところが、この闘いはほとんど果実を得ることなく収束する。日本経済は若者たちがあがきもがく様子をしり目に、なおもしばらく高度成長路線を突っ走る。会社人間は生き延び、人々の生き方はほとんど変わらなかった。ただ一つの例外を除いて――それは、僕たちの意識の底で男と女の関係が変わったことだ。男女の愛や性的なかかわりが結婚とは独立のものとして成り立つことが公認されたのも、あのころだった。
 
 で、今回は、そんな1970年の変動を思い起こさせる小説をとりあげる。『限りなく透明に近いブルー』(村上龍著、講談社文庫)。76年に群像新人文学賞、芥川賞を受けたが、この文庫版に収められた著者による年譜をみると、第1稿の執筆にとりかかったのは72年のことだった。70年前後の世相を描いたものと言えよう。著者は52年生まれ。はたちの目で同世代の青春模様の一つを切りとった作品である。
 
 主人公は、「リュウ」という19歳の青年。東京郊外の基地の町、福生で暮らしている。恋人のリリーや一群の友だちと繰り広げる筋書きがあるようでない物語だ。
 
 僕は、この作品を月刊「文芸春秋」で読んだ記憶がある。芥川賞が決まった後のことだ。いま再読してみると、後段で題名と同じ「限りなく……」のフレーズが出てくるあたりは既読感があるのだが、全体としては初読のような衝撃を受けた。その印象は、登場人物がこんなにも常軌を逸脱していたのか、ということに尽きる。麻薬などの薬物が次々に出てくる。乱交パーティーもある。そして明らかな犯罪も。
 
 芸能人の薬物常習が社会問題となり、脱法薬物が重大事故を引き起こし、法令順守が絶対視される今の視点で見れば、ここに描かれる青春は「アウト!」「アウト!」の連続だ。だがあのころは、僕のように常軌の範囲内にいた若者が読んでも、脳裏に焼きつくほどの違和感はなかったのかもしれない。もちろん、これはフィクションだ、という大前提があったのだろう。だが、こんな青春があっても不思議ではないという空気も確かにあった。
 
 たとえば、パーティーの光景。「オスカーの部屋では中央に拳程もあるハシシが香炉で焚かれ、立ち込める煙は呼吸のたびに否応なく胸に入ってくる」「特に下半身は重い沼につかったように爛(ただ)れ、口は誰かの器官をくわえたくて、体液を飲み込みたくてムズムズしている」「ケイはジャクソンの膝の上に座りワインを飲みながら何か話している。ジャクソンはベーコンをケイの体に擦り付けバニラエッセンスを振りかける」
 
 薬物でおそらくは幻覚も交じった世界が、動詞現在形でとめどなく描かれる。そこでは、人間の身体がモノと化している。フリーセックスという次元をもう一つ超えた無機感の漂うセックス。だからだろうか、どこか無意味で無毒化されている。
 
 夜のドライブのくだりはこうだ。「目を刺すネオンサインや体を真二つに引き裂く対向車のヘッドライト、巨大な水鳥の叫び声そっくりの音で追い抜いていくトラック、突然立ちふさがる大木や誰も住んでいない道端の壊れた家、わけのわからない機械が並び煙突から炎を噴き上げる工場、鎔鉱炉から流れ出る液体の鉄に見える曲がりくねった道路」。体言止めの羅列が、都市を無機物の集合体のように感じさせる。
 
 リリーは荒っぽい運転の挙句、車を変電所の前にとめる。「太いコイルが渦を巻き張り巡らされた金網」「切り立つ崖のような鉄塔」。光に照らしだされた変電所の周りに「風に揺れるトマト畑」。都市近郊で、無機物の金属を有機物のトマトが際立たせるという妙。
 
 無機感と並んで作品を貫くのは透明感だ。リリーの一室の描写。「天井の電球を反射している白くて丸いテーブルにガラス製の灰皿がある」「グラスに注がれたワインの表面にも天井の赤い灯りが揺れて映っている」。彼女は店の仕事から帰ってきたばかりらしく、鏡台の前でストッキングを脱ぎ、化粧を落としていた。リュウは「ワインのグラスに透かして電球を見る」「なだらかなガラス球の中に暗いオレンジ色のフィラメントがある」。
 
 さらに読み進むと、リリーは冷蔵庫から桃をとりだし、ソファで足を組んで皮をむく。「リュウ、あなたジャクソンのハウスでモルヒネ打ったでしょう?」と切りだす。そこに自分の店の女の子がいなかったか、探りを入れてきたのだ。桃の汁が裸のふとももにこぼれ、それを拭く。「スリッパがぶら下がっている足には赤や青の静脈が走っているのがわかる。僕はその皮膚の上から見える血管をいつもきれいだと思う」。ここにも透明感がある。
 
 あるとき、リュウは友だちのオキナワから「これから音楽でやっていくんだろ」と聞かれる。フルートの腕前に惚れ込んでの問いだった。これに対して、リュウはこんな言葉を連ねる。「そんなこと決めてないよ、とにかく今何もしたくないんだ」「俺はただなあ、今からっぽなんだよ、からっぽ」「何もできないだろ? からっぽなんだから、だから今はもうちょっと物事を見ておきたいんだ。いろいろ見ておきたいんだ」
 
 あのころの若者には、過去の澱を消し去って透明にしたい、からっぽにしたいという気持ちがあった。無機物に同化する心理もそれと無縁ではない。リュウたちの暮らしぶりとは一線を画した僕にも、文学や音楽の好みとして透明志向、無機志向があった。
 
 70年前後、政治とは別にもう一つの非合法闘争があった。コンプライアンス至上の今、その無軌道は無限遠の彼方にある過去の過ちとして唾棄すべきなのだろう。だが、今の常識は古い常識をいったんからっぽにしたところから始まった。そのことは忘れたくない。

写真》ただの青ではない透明感が僕たちの心をとらえた=尾関章撮影
(通算220回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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(今回は、うっかり土曜日となりました。申し訳ありません)
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