『二百十日・野分』(夏目漱石著、岩波文庫)

写真》今年、二百十日は9月1日。

 厳しい年が明けた。身のまわりの世相からニュースで知る国際情勢まで、森羅万象が良くない方向へ、悪い方向へと雪崩を打って動いている感が拭えない。その流れに抗する自分でありたい。そう思っている人は多いだろう。ということで、今年も恒例の漱石から。

 

 リベラルを左と言うな漱石忌(寛太無)――この拙句を句会に出したのは2014年暮れのことだった。漱石作品から匂い立つリベラルの気風が、左翼思想と一緒くたにされる。後者はいまどき流行らないから、前者も併せてぼろくそに言われる。そんな状況に腹が立ったのだ。これは当の文豪自身も共有する憤りではないかと忖度して、忌日句に仕立てたのである。それから3年余、この傾向はますます強まっているように思えてならない。

 

 実際のところ、昨今はリベラリズムの衰退が顕著だ。このことは当欄も、先週の年末最終回でとりあげた。そこでも言いかけたことだが、日本ではリベラリズム=弱者擁護→社会主義という連想が働いて反左翼感情がリベラリズムに及んでいるように見える。

 

 では、リベラリズムはほんとうに社会主義と一脈通じているのか。ここで吟味すべきは、リベラリズム=弱者擁護が何を意味するかだ。この等式は、先週も述べたように米国流の解釈。それを代表するのは、哲学者ジョン・ロールズが1970年代初めに提唱した政治思想と言ってよいだろう。「自由」という恩恵は社会の構成員が等しく分かちあうべきものだという視点に立って、「公正」を旗印に機会均等や格差是正の施策を求めている。

 

 ロールズ流のリベラリズムは、もともとのリベラリズム、すなわち個人主義と表裏一体の自由主義とは距離があるように思われる。漱石に引き寄せて言えば、その作品群に登場する近代の自我は封建社会の残滓に抗いながら個人の自由を追い求めていく。このときに中心にあるのは、あくまで登場人物一人ひとりの生き方だ。のちのプロレタリア文学などとは違って、社会の矛盾をあぶり出し、政治体制を変えていこうとする志向は希薄だった。

 

 だが、漱石にも社会派の一面はある。たとえば、かつて紹介した短編集『倫敦塔・幻影の盾』(夏目漱石著、新潮文庫)所収の「趣味の遺伝」。日露戦争から凱旋した老将軍が新橋駅頭で「万歳」の合唱に包まれると、「余」はそれに同調しかけて思いとどまる。「戦(いくさ)は人を殺すかさなくば人を老いしむ」とみてとったのだ(当欄の前身、文理悠々2013年1月7日付「年の初めはシャイな漱石」)。ここには反戦の静かな意思表明がある。

 

 ということで、年頭の一編は「二百十日」(『二百十日・野分』=夏目漱石著、岩波文庫=所収)。本の帯に「漱石が社会批評の嵐を起こす」とあるから、社会派ぶりを知るには悪い選択ではなかろう。この短編が『中央公論』誌に載ったのは、1906(明治39)年。著者にとっては、「坊っちゃん」や「草枕」を発表して作家としての地歩を固めた年だ。一方、世情は明治の近代化が一段落して、その歪みが目立ちはじめていたころにあたる。

 

 この文庫版が出たのは1941(昭和16)年。これは2016年に改版されたが、そこにも1941年版の解説(小宮豊隆執筆)が収められている。それによると、著者がこの短編の筆を執ったのは「草枕」脱稿直後。「油濃い御馳走(ごちそう)のあとでは、自然茶漬が喰いたくなるように、構成の上でも文体の上でも相当手のかかった『草枕』のあとで、漱石がそういう方面でなるべく手のかからない『二百十日』を書いた」とある。

 

 そのころ著者は、子どもが赤痢にかかって私事に追われていたが、締め切りまでにどうにか原稿を仕上げた。小宮解説は、「二百十日」について著者本人が「まことに杜撰の作にて御恥ずかしきかぎり」と漏らしていたとことわりつつも、「これは、漱石芸術の発展の歴史から言えば、相当重大な意味を持つ作品」と位置づける。「それまでの漱石の作品と違って、まともに社会を批評しようとする、漱石の新しい態度を示すもの」というのである。

 

 では、さっそく中身に入ろう。前述の「茶漬」らしさは、作品が圭さんと碌さんの話し言葉のかけあいでほぼ終始していることだ。舞台は山里の温泉宿。それが、熊本県阿蘇の麓であることがしだいにわかってくる。二人は、話しぶりからみて都会の中流階層らしいが、会話のリズム感は落語の八つぁん熊さんを連想させる。あまりのテンポに、しゃべっているのが圭さんか碌さんかわからなくなる箇所もあるが、気にせずに読み進むほうがよい。

 

 実際、落語そのままに笑える場面もある。碌さんが宿の食事で半熟玉子を注文すると、接客係(本文では「下女」となっている)が玉子を4個もってくる。ところが、圭さんが殻を割ると生玉子。碌さんのほうは、ゆできった玉子が出てきた。「なんだか言葉の通じない国へ来た様だな。――向うの御客さんのが生玉子で、おれのは、うで玉子なのかい」。これに対する接客係の返答は「半分煮て参じました」。立派な落ちになっている。

 

 やりとりは軽妙でも、作品に一貫するのは市井で働く人々への敬意だ。圭さんが散歩から宿へ戻ってきて碌さんに報告する場面。「鍛冶屋(かじや)の前で、馬の沓(くつ)を替える所を見て来たが実に巧みなものだね」「馬の沓がそんなに珍しいかい」「君、あれに使う道具が幾通りあると思う」。圭さんは「爪をはがす鑿(のみ)」「鑿を敲(たた)く槌(つち)」「爪を削る小刀」「爪を刳(えぐ)る妙なもの」……と用具をいちいち挙げていく。

 

 鍛冶屋から届く「かあんかあん」という音を遠くに聞きながら、圭さんは幼少期の思い出に話題を転じる。寺の鉦(かね)が朝の到来を告げるころ、「門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆を臼(うす)で挽(ひ)く音がする。さあさあと豆腐の水を易(か)える音がする」。リアルなのには訳がある。圭さん自身が豆腐屋の息子だったのだ。この作品では以後、「豆腐屋」という言葉が市井の民の象徴のように用いられる。

 

 圭さん碌さんの世相談議では、世の中は大きく二分される。片方には豆腐屋がいて、鍛冶屋がいて、そして「肥後訛(ひごなま)り」丸出しの宿の接客係がいる。二人の会話に出てくる言葉を借りれば「剛健党」ということになる。質実の人々と言ってよいだろう。その対極にいるのが「華族とか金持とか云うもの」だ。碌さんは「馬車へ乗ったり、別荘を建てたりして、自分だけの世の中の様(よう)な顔をしているから駄目」と言う。

 

 この構図は、明治という時代を的確にとらえている。「華族」とは明治初頭に制度化された貴族の近代版だが、そこには江戸時代までの大名家も含まれていた。言ってみれば、幕藩体制の遺産を引き継ぐ特権階級である。一方、「金持」は政府主導の殖産興業、富国強兵路線で商機を得た富裕層を指すのだろう。封建制から近代資本主義へというトップダウンの変革でその上澄みを得た一群を、質実剛健な人々と対置させたのである。

 

 この時代認識に立って、著者はどんな社会像を求めているのか。それを示唆するのが圭さんの嘆きだ。「世の中には頭のいい豆腐屋が何人いるか分らない。それでも生涯豆腐屋さ。気の毒なものだ」。この嘆きは職業蔑視のきらいがあるので、今の僕たちには違和感がある。「豆腐屋」はヘルシーな食材を提供する、という美点にも気づいていない。ただ心中を推察すれば、実家の生業は息子が継ぐという当時の固定観念に対する反発があったのだろう。

 

 で、圭さんは「豆腐屋」から離脱したらしい。「僕なぞは学資に窮した時、一日に白米二合で間に合せた事がある」と打ち明けているから、苦学して高等教育を受けて別の道を切りひらいたようだ。碌さんに「君は豆腐屋らしくない」と言われて「また豆腐屋らしくなってしまうかも知れない」と答え、「なれば世の中がわるいのさ。不公平な世の中を公平にしてやろうと云うのに、世の中が云う事をきかなければ、向の方が悪いのだろう」と断ずる。

 

 ここにあるのは、社会を公正なものに変えるときに機会均等は欠かせないという主張だ。この一点で、個のリベラリズムは社会のリベラリズムに接続されている。欧州の自由主義が米国流の政治思想に展開される回路を圭さんの社会批評に見てとることができる。

 

 漱石は個人の生き方を飄々と語りながら、そこに社会派のひと刺しを潜ませたのである。

(執筆撮影・尾関章、通算402回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■原則として毎週金曜日に更新、通算回数は前身のブログ/コラムを含みます。

■ブック・アサヒ・コム「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

コメント
コメントする