『三一新書の時代――出版人に聞く16』(井家上隆幸著、論創社)

写真》左は三一新書、これも風俗左翼路線?

 世の中、どうしてこんなにも一色に染まってしまったのだろう。たとえば、2年後の東京五輪パラリンピック。この開催に異論を唱える人はきわめて少数派だ。では、僕が若かった1970年前後はどうだったか。大阪万博がお祭り騒ぎになっても、若者の間には相反感情があった。高度成長の恩恵に浴しながら、産業経済優先の既存体制に反感を募らせていたのだ。バンパクなんて知らないよ。僕は、そう思って見物に行かなかった。

 

 半世紀後の現在から眺めれば、若者たちは左翼にかぶれていた、というひとことで片づけられてしまうかもしれない。だが、それはちょっと違う。僕のように学生運動とは無縁で、革命の必要を感じず、自分はまぎれなく中産階級の子であると開き直っていた者であっても、体制に反発していたのだ。反体制の心情は文化の隅々にまで浸透していた。映画しかり、音楽しかり、文学しかり。それは、政治とは別次元にあったと言ってよい。

 

 反体制の中心には、たしかに左翼の集団があった。だが、それは既成のマルキシズム政党でも、社会民主主義政党でもない。新左翼と呼ばれる一群の党派とそれに属さないノンセクト・ラジカルの若者たちだった。新左翼の特徴をひとくくりにはできないが、一つ言えるのは、そこでは党派的な統制を求めるベクトルと、反体制ゆえに管理を嫌うベクトルが交ざりあっていたことだ。後者が、当時の若者に共感を呼び起こしたのである。

 

 たとえば、本屋に入ったときのことを思い起こしてみよう。若者は豊かではないから、文庫・新書のコーナーに群がったものだ。あのころ、文庫銘柄の老舗格は岩波、新潮、角川の御三家。新書では岩波、中公、現代がまず目についたが、それに挑むように異彩を放つ銘柄もあった。その筆頭が三一新書か。たいていの大手書店では書棚の一角を占めていたように思う。背表紙の書名に過激な言葉が並び、反体制シンパの若者には輝いて見えた。

 

 で、今週は『三一新書の時代――出版人に聞く16』(井家上隆幸著、論創社)。著者は1934年に岡山県で生まれ、今年1月に死去した。略歴欄には、三一書房に58年に入社、73年に退社したとある。三一新書は同社が55年に創刊したので、その草創期から隆盛期までつくり手の側にいたことになる。退社後は日刊ゲンダイの創刊にもかかわったようだが、その後、フリーライターとして活躍し、書評本などを出してきた。

 

 この本を選んだのは、著者の訃報に接したからだ。井家上さんは、僕にとってまったく縁なき人ではない。地元のジャズバーで、ときどき見かける常連客の一人だった。店主から高名な書評家と聞いた。ただ酒場の空気を壊したくなかったので、敬して近づかなかった。その後、店主が逝き、店は閉じられて、お目にかかる機会はなくなった。薫陶を受けておけばよかったなあと今にして思う。その悔いがあって通販で本を取り寄せたのだ。

 

 この本は、全編にわたってインタビューの形式をとっている。聞き手を務め、文章を構成したのは、評論家の小田光雄という人だ。小田さんは、ネットで調べると僕と同年の1951年生まれ。井家上さんを先達として敬いながら、その個人史や出版人としての秘話を引きだしていく。世代の距離感が同じせいか、自分がインタビューしているような錯覚に陥ることもある。ところどころに適切な補足説明を織り込んでくれているのがありがたい。

 

 著者――井家上さん――が三一書房に入ったいきさつは時代を感じさせる。大学時代、左翼運動に没頭していて就職の道が狭められた。浪人後、「新聞社に引っ掛かったと思ったら、健康診断で結核が見つかり、療養所に入るはめになった」。それで、三一に応募。試験は「一番だった」が、新卒でないことを理由に減点される。幸い上位合格者が別の出版社を選んだため、「繰り上げ採用」になったという。左翼が強く、肺病は脅威だった。

 

 さらなる幸運は、その就職先が上昇気流に乗っていたことだ。五味川純平の小説『人間の條件』が三一新書から出され、1956〜58年に全6冊が完結。これが100万部の大台に乗った。著者の入社前のことらしいが「ボーナスが十カ月出たようです」。新人時代の60年代初めには東京・お茶の水に新社屋が建って「『五味川ビル』といわれた」。京都の本社と「飯田橋駅のそばの木造二階家」にある東京出張所が、ここに集まったのである。

 

 ちなみに著者は社員になる前から三一新書に親しんでいたらしい。新書創刊第1号は『経済学教科書の学び方』(宮川実、岡本博之、井上清著、関西勤労者教育協会編)。これは当時、既成左翼の学習運動で用いられていた『経済学教科書』(ソヴィエット同盟科学アカデミー経済研究所著、マルクス・レーニン主義普及協会訳、合同出版)の解説本の役目を果たした。著者も、学習運動で開かれる読書会の「チューター」(講師)に就いていた、という。

 

 1950年代半ば、日本の出版界には左翼運動が深く食い込んでいた。しかも、そのころは既成左翼が若者たちの闘争を引っ張る牽引車だったので、三一新書もそれに応える刊行物から出発したのである。それが、どのようにして軌道を変えていったのか。

 

 ここで出てくるのが「風俗左翼路線」という言葉だ。著者とは同窓の先輩編集者がめざしていたもので、著者自身もそれに同調した。三一新書が創刊後しばらく定番としてきた「ソ連や中国物、あるいは共産党系の左翼出版」とは一線を画して「反アカデミズム、反啓蒙主義をコアとする思想とカウンターカルチャーの回路」を探し求めるものだったという。これこそが社会主義に囚われない反体制の文化であり、「三一」の輝きだったと言えよう。

 

 この新路線は当時、久保書店から出ていたハードボイルド専門誌「マンハント」に強く影響を受けたという。米国小説の翻訳を載せる雑誌で、田中小実昌、都筑道夫、荻昌弘ら多彩な翻訳陣を擁していた。この人脈の一部は、三一新書の執筆陣に加わっていく。たとえば、田中の本は『かぶりつき人生』。書名はストリップに由来する。上司の編集長は「左翼だけれど、風俗はきらいではなかったし、そういうことには鷹揚だった」と著者は振り返る。

 

 著者が「愛着のある一冊」と懐かしむ新書は、1964年に出した『ゴシップ10年史』(内外タイムス文化部編)。今は懐かしい大衆娯楽紙の記者たちが筆を振るったようだ。

 

 『ゴシップ…』のカバー袖には、編集者自身――井家上さん――の手になる一文が刷られた。ゴシップは、書く側も書かれる側も読む側も「おたがいに他を卑しめあうばかりか、自分も卑しめる」が、「そこには、量的にはすさまじく厖大なエネルギーがついやされている」。だから、その一つひとつが「それぞれの時代の様相を反映している」というのである。昨今の醜聞報道とは違って、木だけでなく森も眺めようとする余裕が感じられる。

 

 へえーっと驚いたのは、当欄に幾度も登場してきた作家片岡義男が三一新書の書き手だったということだ。「テディ片岡」の筆名で、『C調英語教室』『味のある英会話』という英語本を出したという。僕は当欄の前身で『日本語と英語 その違いを楽しむ』(片岡義男著、NHK出版新書)をとりあげたことがあるが(文理悠々2012年11月19日付「片岡義男に教わる英語っぽい英語」)、その源流も「三一」にあったらしい。

 

 これを見てもわかるように、三一新書は新分野に乗りだすことをためらわなかった。消費者問題の本がある。映画書もある。小説も『人間の條件』にとどまらず、次々に出していく。著者は、この貪欲さを当時の新書編集者の心理によって説明づける。そこには「岩波新書に対抗し、どのように自社のオリジナリティを確立するか」という一念があったという。こうして旧来の左翼出版の硬さを脱ぎ捨てたことが、時代の空気に適合したのである。

 

 そして三一新書が1960年代末に行き着いたのが、学生運動をとりあげた新左翼本の相次ぐ刊行。新旧が代っただけの左翼回帰とも言える。「その時は売れたけれど、結局は三一新書の読者層を細らせ、限定的にした」と著者は顧みる。きわめて冷静な自己分析だ。

 

 あのころの反体制は左翼の枠に収まらなかった。だから、管理に抗する反骨心こそ持続させるべきではなかったか。井家上さんが遺した言葉からそんなことを思う。

(執筆撮影・尾関章、通算408回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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コメント
《ワンダーランド消滅ながら、トーキョーの場末K堂のカフェライヴで再会期待》(やんちゃ残侠さん)
こういう出会いがあったということは、ワンダーはまだ消滅していない。そんなふうにも思えてきます。
  • by 尾関章
  • 2018/11/01 9:52 AM
毒書家井家上さんの訃報をうかがいビックラゲーション、本日イーダ氏と多磨霊園。うっかり初耳を反省しつつ。
ワンダーランド消滅ながら、トーキョーの場末K堂のカフェライヴで再会期待。 やんちゃ残侠
  • by kazuowakamatu
  • 2018/10/31 5:52 PM
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