『新訳 まちがいの喜劇』(ウィリアム・シェイクスピア作、河合祥一郎訳、角川文庫)

写真》エラーバー

 年が明けてから、間違い騒動が相次いでいる。それも最高学府での話である。

 

 まずは新春早々、大阪大学が昨年の入学試験に出題・採点ミスがあった、と発表した。朝日新聞によれば、「1問は解答が複数存在するが一つのみ正答とし、その関連でもう1問は問題として成立しなくなった」(2018年1月7日朝刊)ということのようだ。点数の配分では100点満点中の7点に相当する。このことで、本来は合格なのに不合格になった人や第一志望が叶わず第二志望の学科に進んだ人は計39人にのぼるという。

 

 2月に入ると、こんどは京都大学が記者会見して、昨年の入試に出題ミスがあったことを明らかにした。「条件設定が不十分だったため、二つの解答から正答が選べなくなっていた」(朝日新聞2018年2月2日朝刊)。こちらも計28人が影響を受けたという。

 

 興味深いのは、どちらも物理の出題で、音波を扱った設問だったということだ。世間の人は、数理系の問いは答えが一つに決まると思いがちだ。だが、実際はどんな条件を想定するかによって解き方が分かれ、正解が並立することがあるらしい。

 

 だとしたら、出題者はいろいろな条件設定をすべて頭に入れて問題文を用意しなければならない、ということだ。だが人は日常、一つの条件をデフォルト(標準設定)にして物事を進めることが多い。デフォルトを当然のことと思い込むと、ほかの条件は目に入らなくなる。「条件設定が不十分」という事態は、たぶんこのようにして生じるのではないか。これは、僕たちのだれもが陥りやすいありふれた落とし穴と言えよう。

 

 とにもかくにもこの入試ミス2件は、最高水準の頭脳が得意分野を扱うときでさえ、ときに間違えることを白日の下に曝した。ヒトは、間違いから逃れられないということだ。ならば、それを気の緩みのせいにして精神論を説いてもほとんど意味がない。

 

 求められるのは、むしろ社会設計に間違いの存在を織り込むことだ。間違いの影響をどう小さくするかを、あらかじめ考えておいたほうがよい。この点で阪大や京大の事例は最悪の道筋をたどった。1年たってから判定を塗りかえたからだ。その結果、当該の受験生は今になって入学や進路変更を認められたが、ではこの1年は一体何だったのかという当惑が残る。損を埋め合わせているように見えて、実は別の損をつくりだすという負の連鎖だ。

 

 奇しくも僕は今年の年頭、言論サイトWEBRONZAに「20秒早発でなぜ謝る? エラーバー社会の勧め」という論考を発表した(2018年1月1日付、後段は有料)。電車の出発がダイヤの定刻と20秒ずれたことで鉄道会社が「謝罪」したことに異議を唱えたのだ。理系論文のグラフでは、実験値の誤差範囲をエラーバーとして棒状に描く。それと同様、世の中のしくみを誤差があることを前提につくり直せないか。そんな思いを込めた。

 

 で今週は、間違いだらけの大芝居。『新訳 まちがいの喜劇』(ウィリアム・シェイクスピア作、河合祥一郎訳、角川文庫)。1590年代前半の作品とみられ、沙翁初期の喜劇と言える。この本は、作者の没後400年を記念して2016年に開かれたKawai Project vol.2の公演演目「2016/2017あうるすぽっとタイアップ公演シリーズ『まちがいの喜劇』」(翻訳・演出 河合祥一郎)の脚本を文庫化したものだ。2017年刊。

 

 この作品も、シェイクスピア劇の例にもれず韻文が多い。訳者あとがきは、英国の研究者ケント・カートライトが調べた散文韻文比を引く。それによると、韻文が全体の87・1%、その四分の一に押韻(ライム)がある。そこが訳者の工夫のしどころだったようだ。

 

 たとえば、「おまえは、とんまなロバでしょ、いつもぶつくさ」「それでくさくさして、道草を食うんだ。めんど草」といった具合。あるいは「おいら門番をやるんですか。本気でしっかり?」「そうよ。ひどい目にあわすよ、誰か入れたら、うっかり」といった調子。

 

 この喜劇の間違いは、ひとことで言えば双子の取り違えだ。顔や姿がそっくりな人がいたら同一人物と決めてしまう、という人間社会の常識が破れると、どんなことになるか。作者は、そのドタバタをこれでもかこれでもかと見せつける。ここでふと思うのは、同じことは400年余を経た21世紀の今でも起こるのではないか、ということだ。運転免許証やパスポートさえあれば本人証明が完了するという約束事が厳然と存在している。

 

 この作品の仕掛けは、作中人物の設定にある。商人一家が海難事故に遭い、幼い双子は離ればなれになる。兄はエフェソスで暮らし、弟はシラクサで育った。今は交流がない。話をこんがらがらせるのは、同じ船にもう一組、双子の兄弟が乗っていたことだ。父が、息子たちの「召し使い」にしようと育てていたのである。彼らもエフェソスとシラクサに引き裂かれる。歳月が過ぎると、青年と召し使いのそっくりペアが二組できあがっていた。

 

 やや不自然なのは、商人の子である双子が兄も弟も「アンティフォラス」を名乗っていることだ。父の独白に「名前をちがえたところで見分けがつかない」とはあるが、だからと言って同名にする必要はあるまい。さらに召し使いの兄弟も両方「ドローミオ」。作者はそんな横紙破りをして、話をおもしろくした。別々の町に住んでいるときは不便もなかったろうが、ひょんなことから一つところに居合わせるととんだ喜劇が巻き起こった。

 

 作者が仕掛けた喜劇としての決め技は、片方のアンティフォラスだけを妻帯者にしたことだ。現実には双子がどれほど瓜二つであっても、配偶者の目には識別がつくだろう。だが理論的には、役所の窓口係と同様に眼前の顔をちらりと見て「たしかに、この人はこの人」と信じてしまいかねない。窓口係は写真と見比べるが配偶者は記憶と照らし合わす、というだけの違いだ。このときの間違いが、ドタバタに情感を与えてくれるのである。

 

 こうして、アンティフォラスの弟が兄の妻エイドリアーナから夫として扱われたときの独白。「この俺を口説いてるのか?」「どんなまちがいが自分の目や耳を狂わすのか?」。挙げ句、弟はエイドリアーナの妹ルシアーナのほうに心を奪われる。「あの人のベッドに僕は何の義務もない」「君にまだ夫はなく、僕に妻はいない」と求愛すると、「待って。だめ、待ってくださらなきゃ」「姉を連れてくるわ。何て言うか聞かなきゃ」と突き返される。

 

 一連の間違いは、自己同一性(アイデンティティー)に対する問いを触発する。たとえば、シラクサのドローミオが主人に吐露する戸惑いはこうだ。「おいらがおわかりになりますか? おいらドローミオですか? 旦那(だんな)の召し使いの? おいら、おいらですか?」。似たことは僕たちの現実世界にもある。免許証の写真だけを頼りに「ご本人と確認されました」と言われたとき、心の中で声がする。「おいら、本当においらですか?」

 

 もう一つ書き添えるべきは、この芝居には双子の取り違えのほかにも間違いが潜んでいることだ。訳者あとがきによれば「本作品には時間の混乱がある」。アンティフォラス弟とエイドリアーナが同一の場面にいるのに、それぞれの台詞から推定される時刻が数時間ほどずれているというのだ。これを訳者は「エイドリアーナの家の時計が狂っている」と解釈して、作者の意図で「女心を表すものとして導入された」と説明づける。

 

 訳者は「エリザベス朝戯曲において、『時刻のまちがい』は頻繁に描かれる一つのモチーフだった。当時、現代のような正確な時計はなく、時計は常に調整が必要だった」と書く。なるほど。翻って、現代は一つの時刻が行き渡っている。スマホもパソコンも同じ時を刻んでいる。そのために間違いを寸秒たりとも許さない文化が過剰になったとはいえないか。20世紀物理が時間を相対化したというのに、絶対時間信仰に戻っているという不思議。

 

 この喜劇の大団円は家族の再会だ。間違いが引き起こす大混乱を見せつけながらも、最後はハピーエンドにまとめあげている。シェイクスピアは間違いを否定的にばかりとらえず、そこに僕たちの思考を豊かにする効能があることを見抜いていたのではないか。

(執筆撮影・尾関章、通算409回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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