『水俣病を知っていますか』(高峰武著、岩波ブックレット)

写真》破格の訃報(朝日新聞2018年2月10日夕刊)

 石牟礼道子さんが逝った。享年90。作家であり歌人でもあり、なによりも水俣病の語り部として知られる。新聞は破格の扱いでその死を伝え、悼む声を数多く載せた。

 

 当事者にとっては頼りがいのある人だった。この病を患う92歳の坂本フジエさんは「味方じゃち思っとった」「水俣病のことを世に知らせてくれた方」と振り返っている(朝日新聞2018年2月10日夕刊、同11日朝刊)。ミカタジャチの響きに万感が籠る。

 

 知識人の敬愛を集めた人でもある。作家池澤夏樹さんのコメントは、石牟礼文学の存在理由をぴたりと言い当てている。「近代化というものに対して、あらゆる文学的な手法を駆使して異議を申し立てた作家だった」「本当はもっと早くから、世界的に評価されるべき作家だった」(朝日新聞2018年2月10日夕刊)。「異議を申し立てた」とあるのを見て、僕は彼女が『苦海浄土――わが水俣病』を著したころのことを思いだした。

 

 この作品は1969年に講談社から単行本で出て、翌70年春、第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれた。石牟礼さんは患者の病苦に対する思いを理由に受賞を辞退したが、僕の記憶ではこのときに抄録が月刊『文藝春秋』に載ったように思う。ちょうど日本経済の高度成長が極まり、大阪で万博が開かれていたころ。『苦海…』には、そうした世間の空気感とは相反する闇の深さがあったように思う。正直、僕にはついていけなかった。

 

 当欄は2年前、『いのちの旅――「水俣学」への軌跡』(原田正純著、岩波現代文庫)をとりあげた。そこでもっとも印象に残ったのは、結婚してよそから移り住んだ女性の思い出話だ。再引用しよう。「魚はどこで買うんですかと聞いたら、魚は買うもんじゃなか、貰(もら)うもんたいと言われて驚いた。漁船が帰ってくる頃、浜に籠(かご)もって立っとけばよかと言われた」(2016年5月20日付「原田水俣学で知る科学者本来の姿」)

 

 水俣湾の一帯には、貨幣経済にどっぷり浸かる前の地域社会があった。眼前の海で獲れる魚介類はまず、みんなで分け合う。あり余る漁獲があれば都会の市場へ出そう――そんな発想だろうか。はやりの言葉で言えば、地産地消だ。前近代の風景がそこにはある。

 

 不幸だったのは、そのど真ん中に近代の権化とも言える大工場が現れたことだ。工場が垂れ流す有害物質は湾内の生きもので濃縮され、海産物に蓄えられた。それは、都市圏に出回るよりも早く地元で消費された。大都市の店には生鮮品が全国あちこちから集まるので、人々が有害な食品に出会う確率は低い。ところが生産地では、地元産品が食卓に集中するので、もしそれが有害ならば影響をもろに受けてしまう。ここに怖さがあった。

 

 近代化の波が、前近代の様相をとどめる地域を襲ったのだ。その不条理に対する抵抗が文学によってなされるのは自然なことだった。前述の池澤さんは朝日新聞の文化・文芸面に寄せた追悼文で、石牟礼さんを「半分まで異界に属していた」と位置づけ、だからこそ「『近代』によって異域に押し出された」患者たちとの間に「回路が生まれた」とみる(2018年2月12日朝刊)。異界の交流が石牟礼文学の核心にあったというのである。

 

 で、今週の1冊は石牟礼作品とすべきところだが、あえて避ける。異界には軽々に踏み込めないと思うからだ。今回は、水俣病という近代の病を現実世界の側から考察することにしよう。選んだのは『水俣病を知っていますか』(高峰武著、岩波ブックレット)である。

 

 2016年刊。1956年5月、熊本県水俣保健所に「原因不明の疾患」の報告――水俣病の公式確認――があってから満60年の直前に出された。著者は52年生まれ、刊行時点の略歴に熊本日日新聞論説主幹とある。「熊日」と言えば、この公害病蔓延の兆しにいち早く気づき、その実相に迫った地方紙だ。この本は新聞人の著作らしく、人々の息づかいを感じさせるエピソードを織り込みながらデータブックとしても読める構成となっている。

 

 その兆しを伝えた熊日記事の引用が、この本にはある。見出しは「猫てんかんで全滅 水俣市茂道 ねずみの激増に悲鳴」(1954年8月1日朝刊)。茂道(もどう)という漁村で猫100匹余の大半が発作の末に絶命、その結果、ネズミが激増したという。「この地区には水田がなく農薬の関係なども見られず、不思議がるやら気味悪がるやら」。のどかな集落の動物の異変に戸惑うという筆致だ。事の重大さはまだ気づかれていなかったらしい。

 

 これが人間社会の問題でもあるとわかって世の中が動きだすのは、公式確認後だ。この本によると、厚生省研究班は1957年3月に報告書をまとめていた。「確認」から1年とたっていない。あのころの中央官庁としては素早い対応だったように思う。しかもその報告書は、水俣湾で獲れる魚介類が化学物質もしくは金属類によって汚染されている疑いに言及して、チッソ(当時は新日本窒素肥料)水俣工場の実態を調べたいとしていた。

 

 研究班には国立公衆衛生院、熊本大学医学部、水俣保健所などの専門家が加わっていたという。当時の医学に照らしても、発生源として真っ先に思い浮かぶのはチッソの廃水だったのだろう。それなのに、被害の拡大防止策や患者の救済支援策は遅々として進まない。

 

 たとえば、厚生省食品衛生調査会の水俣食中毒特別部会が受けた仕打ち。著者によれば、1959年に部会の代表者が答申で、水俣病の主因は「ある種の有機水銀」と打ちだすと「通産大臣・池田勇人が、有機水銀が工場から流出したとの結論は早計だと反論、このため答申は閣議了解とはならなかった」。そして、部会そのものが解散の憂き目に遭う。ちなみに池田は翌年、総理大臣となって所得倍増政策を推し進めた人である。

 

 この一点をもってしても「高度成長の陰画とでも呼ぶべき水俣病」という著者の認識は間違っていない。明治期に生まれた日本窒素肥料が戦後、社名を新日本窒素肥料に改めて、力を入れたのがプラスチック可塑剤の原料となるアセトアルデヒドの増産だった。生産量は1955年に1万トンだったが、60年には4万5千余トンまで伸びたと、この本は記す。その製造過程で水俣病を引き起こすメチル水銀が生みだされたのである。

 

 ここで産出されるアセトアルデヒドは「国内の生産量の三分の一から四分の一」との記述もある。1960年代と言えば、身の回りの多くのものが木材や金属からプラスチックに代わった時代だ。大都市の消費者も水俣工場の生産活動と無縁ではなかった。

 

 高度成長の呪縛は実は、地元にもあった。著者は、熊日が1959年11月8日に載せた記事を紹介する。「水俣市長、市議会議長、商工会議所会頭、地区労議会長」ら有力者50人が熊本県知事に「水俣工場の廃水停止は困る」と陳情した、というのである。「市税総額一億八千余万円の半分以上を工場に依存し、また工場が一時的にしろ操業を中止すれば、五万市民は何らかの形でその影響を受ける」(同記事)と、陳情団は主張した。

 

 それにしても……とあきれるのは、政府による水俣病の「公害」認定が1968年だったことだ。公害対策基本法の施行がその前年だったという事情はあるにしても遅すぎる。57年に厚生省研究班報告書が工場に目を向けていたのだから、「公害病」と言わずとも高度成長が吐き出した有害物質の直撃を受けた人々に救いの手を差し伸べる施策を展開することはできたのではないか。著者も「公式確認から実に一二年が経過していた」と書く。

 

 さて、再び石牟礼さん。この本では、彼女が1960年代、「患者多発地区に足を運び、ひたすら患者たちの声をじっと聞いていた」と記されている。そこに現れるのが、前述の原田正純さん。「検診会場でよく見かける石牟礼を保健婦とばかり思い込んでいた」とある。著者は、この二人に環境学者の宇井純、写真家の桑原史成を加えて「四銃士」と呼ぶ。水俣病の「真相を追求する試み」を支えるものの一つに四人の仕事があった、という。

 

 水俣の人々は、近代が求める高度経済成長によって「異界」に押しだされた。だが、苦難が存在したのは異界ではなく現実世界だ。石牟礼さんは、それを現認していたのである。

(執筆撮影・尾関章、通算410回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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