『原発の現場―東電福島第一原発とその周辺』(朝日新聞いわき支局編、朝日新聞出版)

写真》3・11から7年(朝日新聞2018年3月7日朝刊)

 思いだすのも、いやな日である。3月11日。7年前のあの日、東京は春めいた日差しに包まれていた。昼下がり、大揺れが都心の新聞社にも到来する。やがて、テレビの空撮映像が仙台近辺に上陸した津波をとらえる。万単位の生命を脅かす災厄が起こったことを、僕たちは直感した。そして日が傾くころ、追い討ちをかけるように飛び込んできた東京電力福島第一原子力発電所の電源喪失という凶報。暗澹とした夜を迎えたことを覚えている。

 

 3・11は、大自然の怖さと現代技術の脆さがいちどきに露呈した日である。どちらからも強い衝撃を受けたが、科学記者としていっそう身にこたえたのは後者だ。伝えるべきことをきちんと伝えてこなかったのではないかと言われれば、反論のしようがなかった。

 

 実際に3・11以降、日本の科学ジャーナリズムは批判の矢面に立つ。大手紙が戦後しばらく、原子力利用推進の旗振り役を果たしたことは間違いない。それは、高度経済成長が公害をまき散らした1960〜70年代になっても変わらなかった。だが80年代に入ると、この論調に疑念を抱く科学記者がふえてくる。反省の契機は、79年の米国スリーマイル島(TMI)原発事故と86年の旧ソ連チェルノブイリ原発事故だった。

 

 TMI事故の日、僕は入社満2年を迎える直前で、北陸・福井支局の記者だった。そのころ、県南部では原発の新増設が進んでいて、新顔の関西電力大飯原発1号機が動きだしたのが3月27日。翌28日にTMIの2号機が冷却水喪失という事態に陥ったのだから、それは対岸の火事ではなかった。大飯1号機は安全確認のためにいったん止められる。原発担当の先輩は大忙しで、僕も反原発運動の取材などを手伝ったような気がする。

 

 まだ、科学記者ではなかったせいだろうか。僕があのときに痛感したのは、原発の危うさではなかった。むしろ、危うそうなものを粛々と受け入れる立地県の姿に無力感を抱いたのだ。そこに関与するのは、電源三法交付金だったかもしれない。雇用の創出もあっただろう。それら政治経済の仕掛けが、こぞって自治体や地域社会のありようを変えていた。「これでいいのかな」。駆けだしの新聞記者としてそんな思いは募るばかりだった。

 

 新聞が原発のような巨大システムを取材するとき、理工系の視点だけに立つと過ちを犯しかねない。視線が細部に向かう一方だからだ。難があれば、それをあばいて改善策を求める。技術論議に明け暮れる結果、このシステムがそもそも必要なのか、もしかしたら不要な歪みを社会にもたらしているだけではないか、といった根源の問いが置き去りにされる。1960〜70年代の科学報道が迷い込んだのは、そんな袋小路だったように思う。

 

 1970代末以降、TMIとチェルノブイリの衝撃で安全神話に対する疑念が強まり、素朴な原子力推進論は衰退する。科学ジャーナリズムの内部で原発の負の側面に目を向ける動きが出てきたのは前述の通りだが、「根源の問い」が強まったとまでは言えなかった。

 

 で、今週は『原発の現場――東電福島第一原発とその周辺』(朝日新聞いわき支局編、朝日新聞出版)。1979年5月〜80年3月、朝日新聞福島版と東北総合版で約200回続いた連載記事をもとにしている。単行本は80年に朝日ソノラマ社から出たが、2011年秋に電子書籍として復刻された。未曽有の事故で注目の的となる福島第一に光をあてた本がそこに眠っていたわけだから、緊急復刻は当然の成り行きだっただろう。

 

 取材にあたったのは、いわき支局の3人。僕は社内事情を知る身なので、このなかに科学部の経験者や後の科学部員がいなかったことは明言できる。うち1人――粕谷卓志さん――は後年、社会部長を務めて経営幹部になった人だ。彼も巻頭の「復刻にあたって」という一文で、自分たちは「原発素人」だったと打ち明けている。県都ではない都市の小さな支局が、日常報道の合間によくこれだけの長期連載を仕上げたものだと驚く。

 

 連載の直前に勃発したのが、TMI事故だった。この本も冒頭で、1979年3月29日に福島第一の幹部や福島県の原子力担当者らが米国から刻々と入る情報にあたふたとする様子を描いている。県原子力対策室長が、来庁した東電本社の課長らに「事故はP(加圧水型)だがB(沸騰水型)にも起こり得るのか」と問いただした気持ちはよくわかる。福島第一は沸騰水型炉(BWR)で、TMIのような加圧水型炉(PWR)ではなかった。

 

 この室長はTMI事故の概要がわかった5月にも、こう吐露したという。「それにしても事故がB(沸騰水型)でなくて、まして福島でなくてよかった」。ここにも、BとPの違いにこだわり、ウチはBだからと胸をなでおろす心理が見てとれる。ただ注意すべきは、危険因子はさまざまにあることだ。事故を起こした炉と条件が違っただけでは安心できない。油断していると、まったく別方向から危機が迫ってくることがある。

 

 この本には、地震の記述もある。1978年、宮城県沖地震発生時の中央操作室。運転員は、「スクラム(緊急停止)」を予期して身構えた。「が、計器は発電所が正常に動いていることを示していた」。取材によれば、関東大震災級の揺れに襲われなくては炉のスクラムはないという。この本は「第一原発では地震によるスクラムはまだない。この辺の自然災害で怖いのは雷だ」と書く。ここからは、海溝型地震の津波に対する警戒が見えてこない。

 

 記者は、原子炉メーカーが地元につくったBWR運転訓練センターを訪ね、事故時や故障時の運転操作を仮想体験できる模擬装置を見ている。コンピューター内につくりだされる「異常状態」は、配管の「ギロチン破断」や炉内の「冷却材喪失」など130種。センター幹部が「あらゆるトラブルを考えてある」と言っているのが、今にして思えば空しい。原発が津波で水浸しになり、電源を台無しにするという筋書きはあったのだろうか。

 

 この本の前段は、おもに福島第一やその関連施設、県庁の取材をもとにしている。だから、原発の推進側にいた人々がTMI事故の報に接しても、メディアに対して、あるいは自分自身に対しても、ウチは大丈夫だと言い聞かせている様子がよくわかる。その思いは気休め交じりであれ、痛切なものだったことが後段で見えてくる。地元の人々の生活をつぶさに報告することで、大丈夫と信じるしかない地域社会の実情を浮かびあがらせているからだ。

 

 たとえば、大熊町の農村風景。「足を踏み入れてすぐ気付くのは、どこまでも続く三十アールに区画された水田」だ。原発立地に時機を合わせ、行政主導で圃場整備が進められた結果である。原発が生みだす雇用を見込み、「水田に大型機械を導入するとともに水稲の協業化を進め、その余剰労力を規模拡大と農外収入に振り向けようという構想」だった。現実に原発の建設とともに「農外」を主とする第二種兼業農家の割合は急伸していった。

 

 協業化では、農家が地区ごとに生産組合をつくる。稲刈り、脱穀などは「組合委嘱のオペレーター」が大型機械で代行してくれるので「農家はその分農作業から解放され、原発関連の下請け作業員などとして勤務に専念できる」。そのオペレーターも「普段は下請け作業員などの原発関連に勤め」「稲刈り時期に四十日間ほど集中して休みを取る」。原発は農家の営みを非可逆的に変え、原発なしには成り立たない農村をつくりだしたのである。

 

 この本は、原発作業の過酷さもとりあげている。定期検査時などに下請け作業員が放射線管理区域で被曝線量を気にしながら働く姿は、おもにフリーライターの堀江邦夫さんの体験談を通して描かれている。それは、当欄2017年11月17日付「1ミリシーベルトは100ミリレムで紹介した『原発労働記』(堀江邦夫著、講談社文庫、原題は『原発ジプシー』)に書かれたものに近いが、彼の取材手法を取材している点は興味深い。

 

 堀江さんは、ライターだと感づかれないよう努めたという。「その日の作業手順や体験、感じたことなど堀江はトイレや喫茶店で克明に記録した」「記録はすべて、書いたらのりをつけ封が出来る郵便書簡に記入し、そのまま投かんして東京の自宅に送った」とある。

 

 3・11の30余年前、原発はすでに社会を歪ませていた。そのことがよくわかる本だ。

(執筆撮影・尾関章、通算411回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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