『中央線をゆく、大人の町歩き――鉄道、地形、歴史、食』(鈴木伸子著、河出文庫)

写真》沿線色

 昔の電車は、たいていあずき色だった。業界ではぶどう色と呼ぶらしい。首都圏では国電(現JRの通勤路線)がそう。私鉄でも小田急などは同様だった。それが、いつのまにか色とりどりになった。最近は、アルミ合金のメタル感を露わにしたものがふえている。

 

 カラー化で言えば、東京・中央線快速のオレンジ色が忘れがたい。幼いころ、その電車が登場したときは、心底カッコいいと思ったものだ。市ケ谷・飯田橋間の外堀沿いを走る姿や御茶ノ水の神田川崖上にさしかかる様子は、一幅の絵と言える。今回、ネット情報でその運行が始まったのが1950年代のことらしいと知って、ちょっと驚いた。60年安保が済んで、日本経済が高度成長まっしぐらのころに現れたとばかり思っていたからだ。

 

 僕たちの世代にとって、このオレンジ色には特別な意味合いがある。1970年前後、中央線は若者文化の基軸となった。山手線の内側では御茶ノ水駅周辺が大学の密集地域で、学園紛争で騒然としていた。山手線の外側でも高円寺から吉祥寺に至る一帯は大学生の下宿やアパートが多く、フォークソングの空気が漂っていた。そして山手線との交点新宿は、ジャズが流れる対抗文化の拠点だった。オレンジ色がそれらをつないだのである。

 

 僕自身は、私鉄線から山手線に乗り換えるという通学経路をとっていたので、中央線とは交点の新宿でのみ接していた。だから、御茶ノ水駅界隈の動向には疎く、高円寺や吉祥寺の雰囲気もほとんど知らない。それでも、オレンジ色の若者力はビンビンと響いていた。

 

 もっと過去にさかのぼれば、僕にとって中央線の原風景は、あずき色の電車が走っていたころの荻窪にある。小学校にあがる前、母に連れられて、家族づきあいをしている人の家をよく訪れた。もはや朦朧とした記憶しかないのだが、そこに並んでいたのは古色蒼然とした家々だ。量感豊かな生け垣、どっしり構えた門柱、玄関まで続く石段……。子ども心にお屋敷町とはこういうものかと感じたものだ。空襲を免れた昔ながらの邸宅街だった。

 

 東京の高級住宅街と言えば田園調布や成城学園前が真っ先に思い浮かぶが、それらとは異なる趣の町が中央線沿線にはある。派手さでは負けるが、落ち着いた佇まいがある。背景には、路線の東端が首都の心臓部で丸の内や霞が関に近かったこともあるだろう。東京にホワイトカラーと呼ばれる勤労者層が根づいたとき、その人々に生活の場を供給したのが西方に広がる台地だった。骨太の路線が東西を貫き、職住を結んだのである。

 

 こう振り返ってみると、中央線のオレンジ色は、あずき色の沿線色を塗りかえる効果があった。だが、1970年代半ばに対抗文化の嵐が過ぎ去った後、沿線は再び旧来の落ち着きを取り戻した感もある。今の中央線は、どんな顔を見せているのだろうか。

 

 で、今週は『中央線をゆく、大人の町歩き――鉄道、地形、歴史、食』(鈴木伸子著、河出文庫)。著者は、『東京人』誌の副編集長などを務めた町歩きの達人。著書には東京の散歩本も多い。1970年代に子どもであり、80年代には大学生だったとわかる記述が本文にあるので、オレンジ色の若者文化が燃えさかるころを同世代として実感してはいない。この本は2017年に刊行されたので、沿線の現在を知るには格好の1冊だろう。

 

 著者は、本文を新宿から始める。「中央線にとって新宿駅は、始発駅である東京駅よりも、住みたい街ナンバー1である吉祥寺駅よりも、もっとも中央線的」と位置づける。理由は明快だ。1960年代半ばまで「日本に若者文化というものはなかった」。ところが60年代後半、若者たちはジャズやフォーク、前衛劇、反戦運動などに尽き動かされて街へ出る。そこが新宿だったというのだ。オレンジ色を「中央線的」と見る視点である。

 

 ただ著者は、新宿の「中央線的」があずき色時代に由来することも見落とさない。たとえば明治期開店の食の老舗、中村屋。創業者が「インド独立の志士ボースをかくまった縁でカリーライスがメニューとなり、ロシアの詩人エロシェンコを支援したことでボルシチやピロシキも看板商品となった」。昭和期には紀伊國屋書店。モダニズムの建築家前川國男は戦後2度にわたって店舗ビルの設計を引き受けたという。そこは抵抗と進取の街だった。

 

 僕も若いころ、中村屋の2階にあるティールームでよくコーヒーを飲んだ。欧風の内装には暗褐色の堅木材がふんだんに使われていて、落ち着いた雰囲気だった。あのころ、一学生としてのプチ贅沢は紀伊國屋で選りすぐりの本を数冊買い、続いて斜め向かいの中村屋に飛び込んでその本を開く、というものだった。そこに女友達がふらりと現れてくれれば、読みはじめたばかりの本の蘊蓄をえらそうに語る、というおまけもついた。

 

 そんな僕を、友人の一人は「紀伊國屋周辺派」と名づけたことも思いだされる。新宿の若者文化は、反戦歌で沸いた西口の地下だけではない。あるいは、チョイ悪オヤジがたむろするゴールデン街だけでもない。東口の新宿通りにも穏健な流れがあったのである。

 

 この本は、新宿からいったん西進する。高円寺の章で思わず苦笑いしたのは、1970年代、隣の阿佐ケ谷駅で乗り降りする子どもだった友人が著者に語った証言。「高円寺駅からはベルボトムジーンズに長髪の人が電車に乗ってくるのが日常風景だった」という。その伝統は、今もかたちを変えて生きている。南口のルック商店街は90年代半ばから「古着屋が増え、ガーリー系、サブカル系の女子に人気の街になる」のである。

 

 荻窪の章では、著者もあずき色時代を掘り起こす。名が挙がるのは、錚々たる文化人たちだ。『荻窪風土記』の著書がある井伏鱒二だけではない(文理悠々2011年4月28日付「井伏鱒二が見た『震災』下の優しさ」参照)。歌人与謝野鉄幹、晶子夫妻、音楽評論家大田黒元雄、出版人角川源義、児童文学者石井桃子らが、このあたりの住人だった。元首相近衛文麿の別邸荻外荘もあった。その敷地や旧居は今、公園や文化施設になっている。

 

 ここで目を引くのは、井伏の仕事に『ドリトル先生』シリーズの邦訳があることに触れたくだり。「この翻訳を井伏に勧めたのが同じ荻窪に住む石井桃子だったとか」とある。近隣文化人の交流が異色作品を生むという化学反応があずき色時代の中央線にはあった。

 

 吉祥寺まで進んで、著者は目を都心に転じる。そこで話題となるものの一つが学園紛争。1968年6月の「神田カルチエラタン闘争」では「御茶ノ水駅から駿河台下にかけて学生たちがバリケードを築き機動隊と衝突」とか、「火炎瓶や投石に対し、機動隊は催涙ガスで応戦」といった光景が繰り広げられた。著者は「今もこの街には若者が多く、学生街としての活気がある」と書くが、その「活気」が変質したことだけは間違いないだろう。

 

 最後は再び、東京西部。僕らの世代が三多摩と呼んだ一帯だ。だだっ広い台地に乾いた土埃が舞う感じ。勤め人家庭が住む団地が林立して、選挙になると革新が圧倒的な強さを誇ったものだ。著者は、そんな僕たちの懐旧を素通りしてその前後の今昔をあぶり出す。

 

 興味深いのは、そこには革新の平和志向になじまない記憶もあることだ。立川はかつて「軍都」で、「駅の北側には大正時代後期に陸軍航空隊が設立され、立川飛行場となって、その周辺には軍需工場が立ち並んだ」。武蔵野台地は軍用滑走路の適地だったのである。戦前は三鷹駅周辺にも中島飛行機が進出、「軍需工場や関連施設が増えたために工場で働く人や関連会社の住民が増え、農村地帯だった街が発展してきた歴史がある」という。

 

 三多摩には台地があるだけではない。多摩川の河岸段丘としてできた国分寺崖線が走り、湧水に恵まれている。小金井のあたりで崖下の「はけの道」につながる武蔵野公園。そこで秋に催される「はらっぱ祭り」は生演奏ありバザーありで、「元ヒッピーや現役のそれらしい人」も姿を見せるという。「このお祭りに行けば、七〇年代そのものの中央線カルチャーの雰囲気を今も感じられるのだろうか」と、著者はオレンジ色の過去に思いを馳せる。

 

 あずき、オレンジ、メタリック。中央線快速の鉄路は幾重もの年代のうえにある。

(執筆撮影・尾関章、通算412回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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