『あの夏、兵士だった私―96歳、戦争体験者からの警鐘』(金子兜太著、清流出版)

写真》「南方」

 「ダイラケ」と言って、ピンとくる人がどれだけいるだろう。中田ダイマル・ラケットという昭和の漫才コンビである。在阪の芸人だがテレビ草創期からブラウン管に出ていたので、僕のような東京の子にも馴染みがあった。ちょっと太めのおじさんと小柄で眼鏡のおじさん。二人は、職場の雑談さながら「キミ」「ボク」の人称でしゃべくりあう。笑いのとり方が健全で、茶の間で見ていても安心できるテレビ向きの芸風だったように思う。

 

 このコンビで忘れがたいのは、本業の漫才ではなくドラマ出演だ。有名なのは「スチャラカ社員」。ウィキペディアを引くと、この番組は1961〜67年に在阪の朝日放送(ABC)が制作してTBS系で放映された公開収録コメディー(当時、ABCはTBS系列だった)で、ダイラケの二人は「毎回珍騒動を巻き起こし、舞台を盛り上げる」主役の商社員を演じたとある。今思い返しても、これぞドタバタ喜劇というようなつくりだった。

 

 1960年代は、高度経済成長によって視聴者の間にホワイトカラー文化が花開いた時代だ。「スチャラカ…」は、その空気感をそのまま反映していたと言えよう。同じダイラケ主演作品では、それより古いコメディーの印象も強烈だ。題名が思いだせないので、これもウィキペディアに頼ると「ダイラケ二等兵」(1960〜61年放映、ABC制作)。「スチャラカ…」の前身番組と思い込んでいたが、時間枠からみてそうではなかったらしい。

 

 実は「…二等兵」は不思議な喜劇だった。そのころ僕は小学校2〜4年で、すでに先の大戦がもたらした人々の辛苦について親から聞かされていた。軍人は怖いという感覚も子ども心に植えつけられていたように思う。ところが、番組では軍隊生活が笑いのタネになっていた。ここから先はぼやけた記憶を呼び起こすしかないが、演者の背景に密林と穴倉のようなセットが映しだされていたように思う。南方の戦場という想定だったのだろう。

 

 では、ドラマは視聴者をどのように笑わせたのか。うっすらと思いだされるのは、二等兵のダイラケがいたずら心を発揮して上官に一泡ふかせるという筋書きだ。戦後精神が軍国主義のタテ社会に風穴を開け、その不条理を笑い飛ばしていたのかもしれない。

 

 子ども心にも違和感があったが、今になってみると逆に納得できる。1961年は終戦のわずか16年後。中年の人々にとって、来し方の半分以上は戦前戦中だった。戦時中を懐かしんでいたとは思わないが、風刺の舞台としてしっくりくるのが戦場だったのではないか。ただ、そのころから目の前に新しい世界がひらけてくる。企業戦士にとっての戦場、すなわち「スチャラカ…」の活動領域だ。その移行期を、僕は現認していたことになる。

 

 で、今週は『あの夏、兵士だった私――96歳、戦争体験者からの警鐘』(金子兜太著、清流出版)。著者は今年2月に98歳で逝去した俳人。戦後、社会派の前衛俳句を切りひらいた人として知られる。東大経済学部卒。日本銀行に長く勤める一方、句作にいそしみ、俳誌『海程』を創刊した。晩年は反戦に情熱を傾け、2015年には安全保障関連法案に対する抗議行動で掲げられた「アベ政治を許さない」の揮毫を引き受けた。

 

 この本は2016年刊。プロローグには、前年に揮毫を頼まれたとき「こっちからお願いしてでもやらなくちゃ!」と思ったとある。背景にあるのは戦争体験だ。ここでは、戦後まもなく旧トラック島(現ミクロネシア連邦チューク諸島)を離れるときの心情を自句自解のかたちで打ち明けている。目に入るのは、島の戦死者8000人余に対する墓碑銘と引き揚げ船の後方に延びる白い航跡。「“非業の死者”に見送られるように感じた」という。

 

 水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る

 

 この本が説得力をもつのは、戦時の心理を正直に回顧していることだ。著者は東大在学中に海軍の「特殊士官」に志願する。1943年に日銀入行後すぐ「生きて帰れば復職できる“ひも付き退職”」をして海軍経理学校に入り、翌年、トラック島に主計中尉として赴く。志願は「どうせほっといても戦争にとられるだろう」「それならせめて士官として赴任しよう」と考えた末の選択だったという。そういう思惑はふつうのことだったのだろう。

 

 ところがそういう熟慮の人が、どこに配属されたいかを問われると「南方第一線を希望します」と答えてしまう。「答えた後で、『しまった』と、随分後悔しました」。なぜ、「オッチョコチョイ」な返答をしたのか。著者の自己分析では、まず「『この戦争に勝ってくれ』という郷里の人の顔が浮かんだ」からだ。さらに「華々しく散っていく」ことの「美学」や「祖国のために殉ずる」ことの「満足感」や「陶酔感」も心をよぎったらしい。

 

 ここで書きとどめたいのは、当時のインテリ青年の時局観だ。著者によれば、学生の多くは米国相手の戦争は「長期戦になったら、とうてい勝ち目はない」と知っていた。なのに「日本の窮状を救うには対米開戦しかなく、そのためには奇襲攻撃がベストの策」と考えたという。短期戦で優位に立って停戦にもち込もうという算段だ。一見、目端が利いた見方のようだが、実際はまったく違う展開となった。現実主義の落とし穴を見る思いがする。

 

 著者がトラック島に着いてからの体験は過酷だ。トラック島は環礁に囲まれた島々の総称で、その内海を荷物運搬のポンポン船が行き来しているので、これが敵機の標的となりやすかった。ある日、船の同乗者が機銃掃射で心臓を撃たれ、死ぬ。軍属の工員だった。敵は「動くものを標的する」。だから、「私は『動くな』と叫んだんだけど、声が届くか届かないうちに、あっという間にやられてしまった」。死はいつも、すぐそばにあった。

 

 手榴弾の実験が死をもたらすこともあった。そのころ、手榴弾の使い方は硬いもので衝撃を与えてから投げ、着弾点で爆発させるという方式だったが、手もとの一撃だけで暴発する事故が起こったのだ。試し投げした工員は「あっという間に右腕がすっ飛び、みるみる背中に穴が開いていった」。即死である。近くで実験を指揮していた少尉も爆風に飛ばされ、破片が心臓に刺さって死んだ。戦争の罪深さを著者が痛感したのは、この直後だ。

 

 工員の仲間たちは、生存の見込みがない同僚を担いで病院まで走った。「ああ人間というのはいいものだ」と思わせる光景だった。その一方で、少尉の上官に事故を報告すると「みんな笑っている」。実戦の修羅場をくぐり抜けて死に慣れっこになっていたのだろう、と著者は推察する。二つの目撃談を並べて「置かれた状況が人間を冷酷に変えてしまう」「戦争とは人間のよさを惜しげもなくつぶし、感覚を麻痺させるのだと痛感しました」と言う。

 

 1944年夏のサイパン陥落後はトラック島への補給が絶たれ、餓死が「日常当たり前の光景」になった。頼みの綱は自給だ。工員たちはポンポン船から手榴弾を海に投げ込み、爆発で浮かぶ魚をとる。ここで危ないのはフグ。捨てるように言っても「空腹にたまりかねて拾って食う者が出てくる」状況だった。餓死者がふえるにつれて「もうあと何人か死ねば食糧が全員に行き渡る」といった計算が脳裏をかすめ、自己嫌悪に陥ったという。

 

 もっとも苛烈なのは殺人だ。先住民族の集落で女性を襲おうとして男性に「蕃刃」で切りつけられる工員もいた。同性愛の色恋沙汰が「殺し合い」に至ることもあった。そこにあるのは「倫理観がない世界」だ。「そんな世界に自分が放り出されて、彼らに直面しなければならない状況で、自分はどう生きていけばいいのか」。そう自問するうちに行き着いたのが「俺が生きている間に、彼らの生き方を見届けてやろう」という決意だった。

 

 この本の一つのヤマ場は、著者が中心になって開いた戦場句会のくだりだ。上官だった詩人の西村皎三が、戦況の悪化で暗い気分になりがちな同胞を「慰めてやれ」と開催を促した。海軍と陸軍、将校と工員が交じりあう不思議な会だった。ほっとさせられる挿話だが、それでも僕の心が晴れないのは、その舞台が「倫理観がない世界」だったからだ。人間の生命と尊厳がここまで軽んじられる精神状況と俳諧味との乖離はあまりに大きすぎる。

 

 今、戦争が起こっても僕たちは戦場の現実についていけない。そう信じたいと思う。

(執筆撮影・尾関章、通算413回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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