『女ざかり』(丸谷才一著、文春文庫)

 集団的自衛権のニュースを見ていて、気になるのは「反対論」のほうだ。僕自身が反対論者だからあえて苦言を呈するのだが、「解釈改憲がいけない」「正々堂々、憲法を改正して決めればよいことだ」と言うのは控えておいたほうがよい。「だったら改憲しましょう」というカードを相手に与えているようなものだからだ。ここで「相手」とは、集団的自衛権の必要を言いだした人たち、すなわち武力を盾にした安全保障を重んずる人たちだ。
 
 一歩踏み込んで言えば、国会がもし憲法改正を発議したら国民投票の結果はどうなるかということに、僕たちはもっと意識的でなくてはならない。たとえば、通信教育企業大手の顧客情報が漏れて大騒ぎになっている昨今なら、新憲法案に個人情報保護の尊重が盛り込まれるだけで、きっと支持が高まるだろう。そこに集団的自衛権をそっと忍び込ませれば、すんなり通ってしまうようにも思う。
 
 世事全般、とりわけ政治向きの問題では、明快な論理とともに透徹した現状認識が欠かせない。ロジックとともにリアリズムを併せもたなくては目的を達するのは難しい。この能力があまりにも乏しかったのが、日本の左派革新勢力ではなかったか。穏健保守、もしくは保守リベラル派のほうが、そのことに長けていた。自衛隊をつくっても平和憲法を変えない、大砲よりバターの経済政策をとる、というように。
 
 憲法について目を見開かせる妙案がある。『女ざかり』(丸谷才一著、文春文庫)という長編小説に出てくる憲法談議だ。この作品は、1993年に書き下ろされた。主人公の南弓子は大手新聞「新日報」の論説委員。離婚歴があり、母や大学院生の娘と暮らしている。恋人は、妻がいる哲学専攻の大学教授豊崎洋吉。仙台に住んでおり、週1回東京に来たときに会う。この不倫哲学者が語る憲法論が、護憲でもなく改憲でもなく、廃憲論である。
 
 豊崎は憲法廃止を説くのに英国を例に引く。「イギリスでは紙に書いた憲法はないけれど、二度の革命で、王様を殺したり、追つぱらつたりしたことが国民全体の智恵と体験として働いてゐるわけでせう」「日本でもあれと同じやうにすればいいわけで、つまり戦後の日本人の智恵と体験が憲法の代りになる。これでゆけば、自衛権はもちろんありますが、しかし外地へ派兵することはどうなるか。そのへんは国民全体が考へることになります」
 
 話している相手は政権与党の幹事長だ。憲法廃止と聞いたときの最初の反応は「いいかもしれませんな」「なんと言つても戦争放棄の第九条がなくなつて、交戦権が生じるのが好都合」だった。これに、豊崎は「どうなるかわかりませんよ」と水を差す。「日本人が戦後四十何年間にみんなで形成したもの、人権の尊重とか、平和の尊重とか、その他いろいろの取りきめは紙に書いてない憲法として作用する、といふのが肝心のところなんです」
 
 今週、この本をとりあげる理由は憲法を論じたいからではない。丸谷才一流の柔らかな精神が、今の日本社会に著しく欠けていることを痛感するからだ。没後2年、丸谷作品が光を放つ理由もそこにある。
 
 巻末の解説で文芸評論家の瀬戸川猛資さんは、著者が「西欧に対する敬意」と「日本的伝統へのこだわり」を併せもつことを指摘して、こう評する。「重要なのは、彼がマルクス主義をはじめとする時代時代の流行思想に全く足をとられなかったことだろう。もっぱら、自分で獲得した大量の知識と強靭な想像力に頼って、独自に日本的伝統を支えるものを探り続けた」。自分自身で考えることこそが、柔らかな発想を生む土壌なのである。
 
 この小説は、南弓子が筆者となった一編の社説が、社外のしかるべき筋から新聞社上層部への圧力を呼び起こし、彼女が論説委員の職から外されそうになる、という話だ。これに対して本人はもちろん、娘や伯母の元女優、恋人の哲学者、同僚論説委員らが、彼女の地位を守るべく一斉に動きだす。迎え討つ政権中枢が、それをかたちづくる一人ひとりに化学分解され、人間の顔をもって立ち現われるところが読みどころだ。
 
 その社説は、元首相の演説を批判するものだった。「東郷元帥は平八郎という名前でわかるとおり、八男だったが、それでも中絶しなかったから、日本は日本海海戦に勝ち、日露戦争に勝った」という趣旨の発言だ。東郷神社のウェブサイトをみると、元帥は「八郎」でも四男。著者はそれを知っている。後段で校閲者が「新聞社が責任取ることぢやないもの」と見過ごすくだりがあるからだ。政治家にありがちな放言を皮肉ったとみるべきだろう。
 
 南弓子の原稿は、こう書き進む。「驚くべき暴言だ。鹿児島だから御当地出身の東郷元帥にお世辞を言った、ですむ話ではない」。なんという社説常套の修辞法。これを読むと、著者は放言を斬り、返す刀で新聞もパロディ化していることがわかる。おもしろいのは、原稿の引用部分が当然のことながらすべて新聞仕様の現代仮名遣いになっていることだ。旧仮名派の著者は、たぶん苦痛を感じながらパロディを楽しんだに違いない。
 
 南原稿は後半で「単身赴任」をとりあげ、男女が一緒に住めない「寂しさ」に言及する。「こういう条件下において生きるための手段は、男性の場合は、社会の約束事として認められている」「しかし女性の場合は社会は寛大ではない」「そういう場合、もしも産児制限と妊娠中絶が禁じられていたら、どんなに不幸なことになるかは、ここで論じるまでもない」――不倫容認ともとれる書きぶりが保守派の神経を逆なでしたのだろう。
 
 財界人が会合でその社説をあげつらい、「留守宅にある妻の不倫を奨励し、赴任中の夫の心理を乱すのは利敵行為とも言ふべきもの」と文句をつけた、と経済記者が電話してくる。人事担当役員が南弓子を呼びだし、過去記事を「現実に対する透徹した認識力と聡明な実務の才に裏づけされたもの」とほめあげて、部長待遇で事業局に移らないかともちかけてくる。論説委員室の空気もしだいによそよそしくなる。真綿で締めつけるような圧力である。
 
 政権与党の背後に水子供養の宗教団体の影をちらつかせ、これに新聞社の新社屋用地取得問題を絡ませる。一方、南弓子側の地位保全工作もすべて水面下で進められる。このあたりの筋の立て方は、さすが希代のストーリーテラーならではのものだ。
 
 ただ、あえて言えば、これはやはり1990年代の物語である。今ならば、記者が書いたものに対する指弾はすぐさまネット空間を飛び交う。政財界の反応も、記者会見で明らかになることが多い。新聞社の人事異動はもっとドライに決まっていく。職を追われそうになった記者が抵抗するにしても、裏工作はほとんど通用しないだろう。この小説は、古きよき日本社会でこそ成立する。
 
 この作品ではっとさせられるのは、主人公の伯母である芸名柳あえかが若かったころ、町内の祭りで神社に立ち寄ったときの体験を語るくだりだ。「一升瓶だの、ビール、コカ・コーラ、白木の三方にトマト、玉ねぎ、お餅、メロンなんかが供へてあるのが変な気がして仕方がなかつた。変といふのも違ひますねえ。何かをかしくて仕方なかつた。こんなもの押付けられて、神様も迷惑ぢやないのかしら、と思つたの」
 
 一つの考えがひらめく。ありあわせの供え物をする理由は「人間が本当は何かもつとましなものを、何がいいのかわからないけどでもとにかく何かを神様に差上げればいいのにその何かを持つてないから」と気づいたのだ。あえかは、別れた男から届いた手切れ金も「ああ下品な贈り物だなあ、でもまあいいとするか、なんて苦笑ひしながら黙つて受取らなければならない」と思い至る。思えば、見舞い、香典……贈与社会はこうして回っている。
 
 最後にとっておきの一場面。南弓子と豊崎洋吉がホテルの部屋で口論になったときのことだ。その騒々しさに隣室の客が壁をたたき、それでも収まらないと知ってブザーを鳴らす。豊崎が腹をくくってドアを開け、廊下をのぞくと「黒つぽい服を着た丈(せい)の高い後ろ姿が、十メートルばかり向うをゆつたりと遠のいてゆく」。床に置き手紙。「大変ですね。/一時間ばかり/散歩して来ますから、/その間に万事/解決せられよ。」(/は改行)
 
 これこそが、世の中のもめごとに対する丸谷才一流の柔らかな解決法なのだ。僕たちが忘れているものが、ここにはある。

写真》この本には、新聞の社説がどんな手順で生みだされるかが、実態にかなり忠実に描かれている=尾関章撮影
(通算222回、2018年12月31日更新)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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