『南方熊楠――地球志向の比較学』(鶴見和子著、講談社学術文庫)

写真》森の人

 つい先日、熊野のことを書いた。『熊野からケルトの島へ』(桐村英一郎著、三弥井書店)という本を紹介しつつ、ユーラシアの東端にある懐深い半島に思いを馳せたのだ(2018年5月4日付「熊野とケルト、島の果ての奥深い懐」)。あの本は、熊野ゆかりの知の巨人にも言及していた。南方熊楠(1867〜1941)。南紀田辺に居を構えた文理両道の人だ。そのことを3週前の拙稿に盛り込めなかったのが心残りなので、今回は熊楠の話。

                                                               

 熊楠の活動で特筆すべきは、神社合祀に対する抵抗だ。上記桐村本も、それをとりあげている。神社合祀令は1906(明治39)年に政府が発した。国の宗教管理を強めるねらいで、小さな神社を整理して大きな神社に統合しようとしたのである。これに対して熊楠は、鎮守の森の生態系を守る立場から反対の声をあげる。このとき、民俗学者の柳田国男が共感して助言を書簡に認めるのだが、そこで二人の思考様式の相違が表面化する。

 

 桐村本には、柳田が1911年6月21日付で「東京の雑誌へも追い追い御書き下されたく」と中央の媒体への投稿を促したのに対し、「熊楠は耳を貸さず、地元の牟婁新報やロンドンの雑誌に書き続けた」とある。官僚兼務の知識人が在野の自由人を口説いたのだから、通じないのも無理はない。それにしても、熊楠が東京という帝都をすっ飛ばして地元と海外に目を向けたのはスゴイ。文字通りの“Think globally, act locally”だ。

 

 熊楠と柳田の違いについては、僕もずっと関心を抱いてきた。きっかけは、『南方熊楠――地球志向の比較学』(鶴見和子著、講談社学術文庫)という名著を読んだことだ。著者は、ここで熊楠の合祀反対にみられる斬新な発想を柳田の頑迷さと対比させることで際立たせている。「自然破壊という地球上共通の問題に対して、この国の世論に訴えて阻止できないならば、世界の世論をおこしてこれを押しとどめようとした」というのである。

 

 熊楠が1909年に牟婁新報紙上で合祀反対の口火を切ってから100年後、僕は新聞のコラムに「熊楠のエコ100年」という小文を出稿した。鶴見本から上記箇所を引用したうえで「国際NGOが、地球環境を守るたたかいの最前線に立つ。そんな時代の原点が100年前の紀州にあった」と結んだ(朝日新聞2009年9月25日夕刊「窓・論説委員室から」欄)。エコロジー運動の先駆者を、日本列島の南紀熊野が輩出していたのである。

 

 で今週は、鶴見本『南方熊楠…』を再読する。著者(1918〜2006)は東京生まれの社会学者。米国で学位を得た。この論考は1978年、『日本民俗文化大系』(講談社)第4巻として世に出た。文庫版刊行は81年、国際環境NGO台頭の前夜と言ってよい。

 

 この本は、熊楠の探究と思想を本人の著作など膨大な資料によって読み解きながら、「南方熊楠の生涯」と題する章を設けて伝記の要素も盛り込んでいる。今回は、主に合祀反対にかかわる部分を切りだして、そこから熊楠の先駆性を浮かびあがらせてみよう。

 

 上記「…生涯」の章には、熊楠の反対運動が1909年の意見表明を起点に全展開されたことが記されている。翌10年には県の役人に談判しようとして警察沙汰となり、2週間余も留置される。11年と12年には著名な植物学者2人に反対意見書を送っている。このうち松村任三宛ての2通は、柳田が「南方二書」と名づけて印刷物にして配った、という。この一点をもってしても、熊楠と柳田が合祀反対では一致していたことがわかる。

 

 この本によれば、二人のつきあいは1911年、熊楠が学会誌に寄せた随筆に柳田が心を動かされ、手紙を送ったことに始まる。半年後には「南方二書」で意気投合するまでになるが、相まみえるのは13年の大晦日。柳田が田辺に宿をとると、熊楠はそこに酔っ払って現れた。翌日、今度は柳田が南方邸を訪れると、熊楠は床で布団を被り、掻巻(かいまき)の袖を通して会話を交わしたという。これが最初で最後の面会となった。

 

 なんとも、奇怪な交流だ。「掻巻」の一件は著者が『定本柳田国男集』別巻から引いているので、熊楠には彼なりの事情があったのかもしれない。ただ推察できるのは、二人の波長は合わなかったらしいということだ。著者は、両者のズレを五つに要約している。

 

 まずは、「地域」と向きあう視点。柳田は「農政学者として、農政役人として、そして旅人として地域を見た」が、熊楠は「定住者の立場から、地域を見た」。後者のほうが了見が狭いようにも思われるが、そうではない。問題となるのが視野の大小だ。著者によれば、柳田が「日本国の一部としての地域(政治的単位)」にこだわったのに対して、熊楠は「世界の、そして地球の一部としての地域(エコロジーの単位)を考えた」というのである。

 

 人間のとらえ方も対照的だ。著者は柳田民俗学に出てくる「常民」という言葉を見逃さない。上から目線というべきか、「農政学者」「農政役人」らしい呼び方だと僕も思う。これに対して、熊楠は「集合名詞として人々をとらえなかった」。地元田辺で交遊した人々は、「漁師」「生花の師匠」「石工」「仕立屋」「質屋」「瀬戸物屋」「酒屋」「画家」「眼科医」……と多彩。そこに泳ぎの達人や俳人、歌人もいる。一人ひとりの顔が見えてくるようだ。

 

 合祀反対では、その運動論をめぐって両者の違いが鮮明になる。熊楠は「地方官憲に対して、対決をおそれぬ精神でぶつかっていった」が、柳田はそれを快く思わず、「正面衝突をなるべく回避して隠微にことをはこぶように忠告した」。さらに、国という区分けをどう見るかでも両極に分かれた。熊楠が「外国の学者へも檄をとばして、国外の世論を結集しようとした」のに対して、柳田は「国辱を外にさらすものだと激しく反対した」のである。

 

 その違いは、僕がこの本を初めて読んだときにもっとも驚いたことだった。というのも1990年代、欧州駐在の科学記者として環境問題を取材していたときに国際NGOの実力を肌身で感じたからだ。国際会議でも、参加国とは別枠のオブザーバー資格で議場に入り、国の垣根を越えて「檄をとばして」いた。人の行き来の多い欧米の文化圏が生んだ発想だなと思ったものだが、同じことを考える日本人が20世紀初めにもいたことになる。

 

 僕は、柳田が国際運動を嫌った理由を知りたくなった。そこで前述のコラムを書くときに『柳田国男 南方熊楠 往復書簡集』(飯倉照平編、平凡社)を調べてみると、柳田のこんな一文に出会った。「全体外国の学者など、他国の領土に生存する生物につきて何の要求権ありや」。生物の世界にまで国境線を引こうという思考だ。このときは結局、熊楠が譲歩する。鎮守の森を守る運動を世界に広げられなかったのは残念でならない。

 

 この本――鶴見著『南方熊楠』――は、熊楠の合祀反対を「エコロジーの立場に立つ公害反対」ととらえている。本人も、和歌山県知事宛ての書簡(『南方熊楠全集』〈平凡社〉所収)で「千百年来斧斤(ふきん)を入れざりし神林」では「諸草木相互の関係はなはだ密接錯雑」しているとして、この「相互の関係」を探る「エコロギー」という学問が生まれたことに触れている。この記述は、生態学(エコロジー)が19世紀後半に興った史実と符合する。

 

 著者は社会学者らしく、エコロジーを人間社会にも拡張する。熊楠が「地域の植物生態系と関連しながら、そこに生活する住民をふくめた、社会生態系という考えを、すでに持っていた」とみるのだ。本文に出てくるのは、地元田辺町と近隣の湊村の合併話。これに反対した熊楠には「田辺町の金持ちやボスや湊村の不在地主が結托して、湊村の住民を圧迫する」との懸念があったようだ。その主張は帝国主義批判にも結びつけられた、という。

 

 熊楠のなかでは、神社合祀と市町村合併が同列に置かれていたらしい。二つは、政府や出先官庁が「地域の自然とその上にきずかれた共同体とを崩壊させ、中央集権化を急速に実現しようとした」施策として括れる。熊楠は、この動きに「植物、社会生態系をよりどころとして」抗った、というのが著者の見方だ。「今日の『地域主義』の日本における先駆的思想家の一人を、わたしたちは南方熊楠において発見することができる」と結論づけている。

 

 3・11後の今、僕たちがもっとも必要とする思想を、熊楠は一足早くあたためていた。

(執筆撮影・尾関章、通算422回、2018年5月25日)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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コメント
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  • by -
  • 2020/05/22 1:33 PM
管理者の承認待ちコメントです。
  • by -
  • 2020/01/27 5:08 AM
 ≪≪…パラダイム転換の予兆…≫≫を、⦅自然数⦆の[創生]について[絵本]の「もろはのつるぎ」は、『( わけのわかる ちゃん)(まとめ ちゃん) (わけのわからん ちゃん)(かど ちゃん)(ぐるぐる ちゃん)(つながり ちゃん)』で捉えようとしているようだ。
  • by 絵本のまち有田川
  • 2019/12/31 7:10 PM
「南方熊楠資料研究会」の
≪…単一の因果律から逃れ、複数の価値観を持とうと苦悩し、近代の「知」の枠組みを超えようと苦闘する人々への、先駆者熊楠の再評価の方向性が鮮明になされているといえるだろう。≫
  から、鶴見和子の「南方熊楠のコスモロジー」の《悴点の思想》を「哲学塾 宇宙を哲学する」伊藤邦武著の《コスモロジーの自立》としチャールズ・パースらの≪…世紀の変り目のパラダイム転換の予兆…≫で観る。 
 《悴点の思想》は、『自然比矩形』でパースペクティブできる。
  『自然比矩形』の[3−e]の形状が、「両刃の剣」に観え、[スービタイズ]の[1 2 3 4]を示唆して、しかも[四則演算]の『場』も現出する。
  • by akayama1729
  • 2019/04/04 11:58 AM
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