『アメリカン・フットボール』(武田建著、新潮文庫)

写真》ボールのかたち

 幼いころ、スポーツを知らなくて恥をかいた経験が僕にはある。小学校に入ってまもなくのことだ。体育の時間に「キックボール」をやるという。ホームベースに置いたボールを蹴って、野球と同じように進塁をめざす競技。悲しいことに、そのとき僕は野球をほとんど知らなかった。途方にくれている僕に先生が声をかけた。「蹴って走るのよ」。で、言われた通りにしたのだが、走った方向は三塁だった。今振り返っても恥ずかしい。

 

 そもそも、スポーツにあまり縁のない家庭だった。祖父だけが野球に関心があり、ラジオ中継をよく聴いていた。彼がナイターのことを「ヤカン試合」と呼ぶので、薬缶のような照明がいくつもぶら下がっている野球場を思い浮かべたものだ。アナウンサーの実況だけで試合をイメージするのは難しい。テレビが普及していない時代、級友たちはどのようにして打者は右方向へ走るものだと知ったのか。そっちのほうが不思議ではある。

 

 学年があがるにつれ、僕も校庭や原っぱでゴロベースや草野球に興じるようになった。僕たちの少年時代、メジャーなプロスポーツといえば野球と相撲くらいしかなかった。だから、野球の決まりごとは今に至るまで、ルールブックがなくても体でしっかり覚えている。

 

 それと正反対なのが、アメリカン・フットボール(アメフト)だ。選手たちは、どのようにして点をとるのか、そのために何をしようとしているのか。それが皆目わからない、という人も多いだろう。サッカーなら観ていればすぐわかる。ラグビーも観ているうちにおおよそ見当がつく。だが、アメフトは違う。ゲームがちょっと動いてすぐ止まるのは、きっとルールが複雑だからだろう。覚えるのが大変だな――僕もそう感じていた一人だ。

 

 だが、そう言ってはいられない出来事が最近起こった。アメフトの大学定期戦で、「悪質」なタックルがあったのだ。その不幸な事象そのものについては、ここでは論じない。ただ、このニュースを見聞きして、深い失望と一筋の希望が見えたことは書きとどめたい。

 

 失望は、大学などの体育会の旧態依然たる姿だ。希望は、それが変わりそうな予感である。この状況は今年、世界中に広まった性暴力告発・反セクハラのミートゥー運動に重なって見える。共通するのは、数十年前には見て見ぬふりをされていた唾棄すべき風土が今ようやく断ち切られようとしていることだ。それを可能にしたのは、女性たちや選手たちの覚悟を決めた発言だ。スポーツ界ではアメフトにこの動きが見られたことに僕は興味を覚える。

 

 で、今週は『アメリカン・フットボール』(武田建著、新潮文庫)。カラー写真をふんだんに盛り込んだアメフト案内。奥付には、企画編集協力にarc出版企画の名が記されている。1985年に出た。著者は1932年生まれの心理学者で、刊行時は関西学院大学の学長。アメフト歴を言えば、関学の中・高・大学でプレー、母校の教壇に立ってからは大学の監督を務め、全国優勝7回を果たした。この本を書いたころも高等部の監督だった。

 

 編集協力者の一人には、日本大学アメフト部の名将と言われた篠竹幹夫さんもいる。その手腕については本文でも素描されている。今回の一件で不幸にも逆の立場に置かれた名門2校の伝説の指導者がかかわる本として、アメフトの真髄を知るには格好の1冊だ。

 

 とはいえ、「はじめに」のページを開いて僕は怯んだ。「『フットボールはわかりにくい。ルールが複雑だし反則の種類もたくさんある』という声を耳にする」まではいい。前述の通り、同感だ。ただ、「ルールなど忘れて試合そのものを楽しんでほしい」とあるあたりからちょっと心配になる。指導者の立場で「相手チームの反則は見えても、自分のチームの反則なんか目にはいらない」と書いているのを見て、大丈夫かなとも思ってしまった。

 

 だが、読み進むと「反則」の事例として出てくるのは、パスがルールに則って成立しているかどうか、といった類いの話だとわかる。著者の念頭には、悪質タックルのことなどまったくなかったのだろう。それを知って僕は、先を読みつづける気になった。

 

 全編を通して感じとれるのは、著者が重んじているのはルールではなく、スポーツ人の美学らしいということだ。このことは、今回の報道で僕が気になっていることと響きあう。テレビのニュースや情報番組では、「反則行為」「ルール違反」という言葉が耳障りなほど聞こえてくる。これは、諸々の事件報道が「法令違反」の有無にばかり気をとられている状況と重なる。そこでは、良心や美学が法令やルールよりも軽く扱われている気がする。

 

 そろそろ、本の中身に入ろう。まずは、ルールのおさらい。これは、本文に差し挟まれたコラムページに要約されている。僕もほんの少しだけ齧って知っているが、ここで復習しておこう。1)ゲームは攻守に分かれて進められる2)「攻撃の1単位」はボールデッドでプレーが止まるまでの一区切りで、これをダウンと呼ぶ3)4ダウンするまでに10ヤード進むことができれば、攻撃を第1ダウンから繰り返すことができる、というものだ。

 

 ボールデッドとは、ボールがフィールドの外に出た、ボールを持って走る選手が倒された、前方へ投げたパスが地面に落ちた……などのことを指し、いずれの場合も審判はプレー停止の笛を鳴らす。アメフトの試合進行が細切れに見えるのは、この決まりがあるからだ。攻撃側の前進がはかどり、敵陣のエンドゾーンと呼ばれる領域にボールを持って走り込むなど、幾通りかの方法で成果をあげれば、それぞれしかるべき得点が与えられる。

 

 以下は、攻撃(オフェンス)に絞って話を進めよう。攻撃法は「普通、ボールを持って走るランニング・プレーとボールを前に投げるパス・プレーに分けられる」。走るか、投げるかの違いだ。ただ著者自身はこの二分法をとらず、「オプション・プレー」という第三の区分を設ける。「クォーターバックがラグビーの選手のように、自分でボールを持って走るか、斜め横にいる味方にラトラル・パスを送るプレー」だ。ラトラルは「横」を意味する。

 

 この本が強調するのは、クォーターバック(QB)という役割の大きさだ。それは「野球でいえばピッチャー」「ラグビーでいえばスクラムハーフとスタンドオフを一緒にしたようなポジション」に相当するという。著者によると、オプション型の攻撃法をとるならばQBの条件は「まず走ること」であり、さらに「相手の動きを見て自ら走るか味方にボールをピッチするかの判断を的確にし、それを実行する能力」ということになる。

 

 QBの「判断力」は、前方を走るレシーバー(受け手)にボールを送るパスにも求められる。「レシーバーの行くところ、必ず守備のバックがいる。その相手をまず見て、その動きの反対、つまり逆の位置にいる味方にパスをすることができなくてはならない」。敵の裏をかくように受け手を選ぶ、ということだ。走るならいつまでボールを持ちつづけるか。投げるならどこへ投げるか。QBの仕事は、瞬時の選択の絶え間ない繰り返しと言えよう。

 

 この本で、僕が心を動かされたのは「私は攻撃の選手がベンチに帰ってきて、サイド・ラインで試合を見物しているのが嫌い」というひと言だ。アメフトは選手交代を自在にできるので、攻撃の選手は攻撃が終わるとすべてを守備の選手に任せて体を休めることができる。ふつうのスポーツ作法では、仲間がプレーしているときはベンチから声援を送るものなので、フィールドに向かって声を枯らすのが常道のように思う。だが、著者の考えは違う。

 

 著者がこのときに求めるのは作戦会議だ。「選手とコーチは、ベンチで相手の動きを分析し、相手の弱点を話し合おう。そうした雰囲気から次の攻撃のための集中力が湧(わ)いてくる」。著者の試合での指揮ぶりは、こうだ。自分はスタンドの最上部から試合を眺め、ベンチのコーチと有線でやりとりする。選手たちは自身の実感をコーチに報告する。「スタンドの上と下のコミュニケーション」で鳥瞰虫瞰の情報が混ざりあう。

 

 1980年代ですら、これだけのことをやっていた。ITが進んだ今はデータの収集や蓄積がたやすくなり、情報戦の様相をいっそう強めているに違いない。アメフト、かくも知的なスポーツ――その真髄こそが、体育会の旧弊を打ち破る一撃となるだろう。

(執筆撮影・尾関章、通算423回、2018年6月1日)

 

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