『原発ホワイトアウト』(若杉冽著、講談社文庫)

写真》官界激震

 正直に打ち明けると、僕は官僚が嫌いだ。官僚の人が嫌いなのではない。良い人はたくさんいる。ただ、官僚が官僚として官僚らしく振る舞うさまが好きになれないということだ。新聞記者時代、幸いなことに官公庁担当をほとんど経験しなかった。だから、食わず嫌いで言っているのかもしれない。ただ、それでもたまには官公庁を取材したことがあるので、その記憶を呼び返すと、ああ、ああいうところがイヤだったのだな、と改めて気づく。

 

 唐突かもしれないが、まず思いあたるのが庁舎内の売店だ。30年ほど前、僕がときどき訪れる中央官庁は古いビルにあり、薄暗い一角――地階だったと思う――では職員向けに雑貨品が売られていた。それが、なんともみすぼらしかったのだ。中学生時代、校内にあった購買部そっくり。質素なのは悪いことではない。贅沢よりはよっぽどマシだ。だが、役所全体が放つエリート臭と引き比べると、どこか嘘っぽく感じられたのである。

 

 霞が関の官庁街も建て替えが進んだので、こんな一角はもうないだろう。それに代わってコンビニが出店しているかもしれない。ただ官界には、あの地階の売店と同じ違和感が今もある。官僚たちの見かけだけの低姿勢にも、同様の嘘っぽさが拭えない。

 

 公的な場で見せる腰の低さ。口を開けば、へりくだって「……してございます」を連発する。働きぶりを見ても、正規の勤務時間をとうに過ぎて深夜まで職場の蛍光灯が消えないのだから、文字通り、公の僕だ。それなのに世間はエリートと呼ぶ。本人たちも、それを強くは否定していないように見える。ただ、エリートには「選ばれし者」の意がある。官僚は選挙で地位を得たわけではないのだから、そもそもこの呼ばれ方が嘘っぽい。

 

 ではなぜ、エリート視されるのか。それはなによりも、官僚集団の上層部が国家公務員擬錙文宗α躪膺Α忙邯海旅膤兵圓任△蝓△修梁燭が最高学府を卒業しているからだろう。狭き門をくぐり抜けてきたという意味では、たしかに「選ばれし者」に違いない。

 

 かつては、そういう学業競争の勝ち残りがその力を存分に発揮した。自負心をもって、国のかたちをデザインしていたのだ。戦前の革新官僚がそう。高度成長期の日本列島改造論も、官僚が絵を描いた。その誇りが今や風前の灯火だ。最近、霞が関を揺るがす不祥事の多くは、政官の力関係で官の立場が著しく弱められたことを物語っている。エリートがエリートの面目を潰された。それ自体は悪いことではないが、歪みばかりが際だって見える。

 

 で、今週の1冊は『原発ホワイトアウト』(若杉冽著、講談社文庫)。2013年に講談社から単行本が出て、15年に文庫化された。刊行年からみて、東日本大震災に伴う東京電力福島第一原発事故を受けたものだとわかる。ただ、この本はあくまでも小説だ。

 

 文庫カバーに「総括原価方式が生み続ける超過利潤(レント)で、多くの政治家を抱き込み、財界を手懐(てなず)け、マスコミを操作し、意にそわない知事を陥(おとしい)れるほどの強権を持つ関東電力」とある。電力会社の社名はもちろん、微妙なところに立ち入る記述では県名や原発名、政党名などの固有名詞を架空のものにして虚実をだぶらせた作品。国内原発の再稼働に向けてうごめく政界、官界、電力業界の動きを描いている。

 

 近所の書店でこの本を見つけたとき、僕は原発を取り巻く状況をもっと知りたい、という思いから手にとった。元同僚の原子力記者は、原発問題の根っこには電力事業のからくりがある、といつも言っていた。その中心にあるのが「総括原価方式」。経費を積みあげて、報酬も上乗せして料金を決める。地域独占体制だからこそ、それが通用する。利潤が「超過」するのも自然の流れだ。では、その儲けの行き場はどこか。これが関心事ではあった。

 

 だが読みはじめて気づいたのは、この本が官僚を知る一助にもなるということだった。それも当然。著者が高級官僚だからだ。略歴欄には「東京大学法学部卒業。国家公務員擬鏤邯街膤福8什漾霞が関の省庁に勤務」とある。霞が関のど真ん中にいること以外は伏せた覆面作家。あっけにとられるのは、省庁名は隠しても東大法学部卒だけは明示していることだ。官界は、それほどまでに学歴、というよりも東大歴がものを言う世界なのだろう。

 

 中にいる人でなければわからないなあ、という描写はそこここに出てくる。たとえば「中央官庁の勤務は激務」「課長補佐以下の若手は、繁忙期は、徹夜で職場に泊まり込むのも恒例行事」と書いて、こう続ける。「このとき、審議官の部屋も活用される。審議官が退庁したあと、若手が打ち合わせで利用したり、泊まり込みのときはソファで寝たり、そんな使われ方が当たり前のようになっている」。こんな実態は、ニュースには出てこない。

 

 だから当欄では小説の筋は追わず、官僚の生態に焦点をあてて読んでいこう。

 

 東大については本文でこんな記述に出あう。「最高学府とは東京大学のことをいうのではない。東京大学法学部のことをいうのだ」。東大法学部卒の経済産業省官僚が、電力業界にいる東大経済学部出身の知人を内心どう見下しているかを述べたくだりだ。その男が反原発議員の学歴を云々するのを聞いて「わかっていない」と感じる。「東大法学部と経済学部との偏差値の差も、経産省のキャリア官僚と電力会社社員との社会的立場の差も」

 

 これは、苦笑と微笑を禁じ得ないくだりだ。最高学府に対する高ビーな定義は、あくまで作中人物の思念として書かれている。これをもって、著者の認識とみてはいけない。実際、この作品はフクシマ――架空性をもたせるためか片仮名表記となっている――事故後の原発再稼働をめざす政官産体制を批判的にとらえているので、ここでは官界の学歴依存体質を皮肉ったのだろう。ただ著者の経歴に照らすと、自虐ネタなのかなとも思えてくる。

 

 一つ言えるのは、我こそは正真正銘の最高学府出身者と自任しかねない官僚の危うさを著者が自覚していることだろう。官僚たちは頭がよい。だから、こうして自分を突き放して見つめられる。官界再生のカギがあるとすれば、この自己客体化をおいてほかにない。

 

 この作品を官僚批判の視点でみると、ルールとの向きあい方に目がいく。官僚は、やたらにルールを整えたがる。法令の条文を練り、指針や内規の類いを文章化することに長けている。だが、その一方で「ルールというのは、いくらでも穴がある」と見抜いてもいる。

 

 たとえば、原子力規制委員会の委員や原子力規制庁の職員には「『被規制者等との面談』は公開される」という決まりがある。ところがこの作品では、資源エネルギー庁高官が経済産業省同期の規制庁幹部に電話をかけて、再稼働の見通しについて探りを入れる。「被規制者でもないし、電話は面談でもない」という理屈だ。たしかにエネ庁は原子力の事業者ではない。だが、「推進官庁」だ。非公式情報が被規制者に暗に伝わらないとも限らない。

 

 穴頼みはルールに対してだけではない。政策づくりでも同様だ。このエネ庁高官は、政府が電力事業の「改革」を進めたように見せながら、「細かい穴がいくつもあって、実際には競争は進展しない状態」をめざそうと思案する。官僚が競争の枠組みを「さじ加減」して電気料金の下げ幅を1割ほどに抑えられれば、外国との価格差が残っても「『日本は島国だから』とか何とか言って理由は付けられる」。賢さが、ずる賢さと同義に見える。

 

 この小説では、原子力規制庁の中堅官僚が官産癒着の証拠を再生可能エネルギー関連の財団研究員にリークするという筋書きがある。これが新聞記事になった。だが、この官僚も高邁な志から内部告発したとは言えない。彼は経産省から原子力規制庁への出向組で、省内の出世競争で「大臣官房、内局や外局に続く、第三集団に位置づけられた」と感じていた。一発逆転には「大人しくしているだけ」ではダメ。そんな思惑が引きがねを引いたのだ。

 

 読み終えると、僕の官僚嫌いはますます強まった。同時に、今の日本社会では官僚でない人まで官僚らしくなっていることに気づく。なにごとも思惑ばかりが先行する。やたらに決まりをつくっては穴を探す。僕たちも、そんな落とし穴に陥っていないだろうか。

(執筆撮影・尾関章、通算425回、2018年6月15日公開)

 

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