『津軽』(太宰治著、岩波文庫)

写真》スプーン、ひらり

 6月の声を聞くと、太宰治が読みたくなる。桜桃忌のせいだ。太宰は終戦からまもない1948年初夏、愛人を伴って東京西郊の玉川上水に入水する。遺体発見の6月19日が忌日となり、晩年の作品名からこう呼ばれる。その日、東京・三鷹の禅林寺にはファンの少年少女が墓参に集まる。少なくとも昔はそうだった――その情景をニュースで見て「来年こそ、僕も行こう」と思ったものだ。とうとう、それを果たさず今に至るのだが。

 

 ぐずついた梅雨空の下、文学好きの若者が墓所に群がる。決して快活な話ではない。だが不思議なことに、桜桃忌のテレビ映像には透明感があった。それは、太宰の作風にも起因するだろう。三鷹近辺に多い落葉樹の葉を雨滴が震わすような軽やかさだ。

 

 たとえば、代表作の『斜陽』をちらりとのぞいてみよう。この中編は、華族が戦後、没落の憂き目に遭う話だ。主人公の「私」は、その令嬢。冒頭では、彼女の母が朝食のスープを口に入れて「あ」と声をあげる。「髪の毛?」と尋ねると、「いいえ」と答える。

 

 ここから先の描写をそっくり引用してみよう。「お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた」。文章が句点で切れず、読点でつながることで「お母さま」の身のこなしが流れるように優美であることを読み手に感じとらせる。

 

 とくに、「ひらりと一さじ」が繰り返されるところが秀逸だ。一瞬「あ」と感じたことすらどこ吹く風の「ひらり」。家族の気づかいなど意に介さないかのような「ひらり」。スプーンが皿から口もとへ運ばれるまでの数十センチの動線に、上流社会を生きてきた女性の感性が映されている。その軽快感は、敗戦という重圧を受けても失われていない。この作品の筋書きは苦難に満ちているが、冒頭の人物描写は透明感があって軽やかだ。

 

 太宰治は、青森県津軽地方の出身。東北人というと重厚なイメージがある。ところが、太宰は「お母さまは…」の一文のように流麗な言葉づかいにも長けている。地元の平均像と異なる一面があるのは、県内指折りの大地主、津島家のお坊ちゃまだったからかもしれない。実家は戦後の農地解放まで地方の支配層だったのだ。それが『斜陽』を生んだと言ってもよい。作家太宰のなかで、東北人の重さとお坊ちゃまの軽さはどう配合されていたのか。

 

 で、今週は『津軽』(太宰治著、岩波文庫)。著者(1909〜1948)が30代半ばに故郷の津軽地方をぐるりと回った体験を描いたものだ。巻末にある同郷の作家長部日出雄の解説によると、「新風土記叢書」(小山書店)の1冊として書かれたという。その経緯からみても「紀行文」として読むのが自然だが、長部はこう釘を刺す。「ぼくはどの場面もすみずみまで、高度の構想力と想像力を働かせて細心に描かれた創作と考える」

 

 この作品のどこが実話で、どこが虚構か、それを見分けるのは難しい。ただ脚色があるにしても、そこから二つの現実が見えてくる。一つは、著者と郷里とのつかず離れずの関係だ。もう一つは、それがもたらす客観視によって活写された津軽の風土である。

 

 しかも、ここで心にとめおくべきは、約3週間の旅に向けて東京を発ったのが1944年の5月中旬であることだ。米軍機による本土空襲が本格化する前ではあったが、その心配が募りはじめていたころと思われる。そんなご時世になにをのんきな、という気もするが、作中の「私」は――ということは、たぶん著者は――ふつうに旅をしてふつうに旧交を温めた。交流する人々の言動からもそれほどの緊迫感は漂ってこない。これには驚かされた。

 

 序編を読んでまず、おやっと思う。「私は津軽に生れ、そうして二十年間、津軽において育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、その他の町村については少しも知るところがなかった」(ルビは省く、以下も)とあるからだ。人は近隣には目が向かないものだが、それにしてもずいぶん突き放した書きぶりではないか。それゆえ、この旅は「私」にとって「かなり重要な事件の一つ」になったという。

 

 「私」は金木に生まれ、青森の旧制中学をめざす。そのころのしゃれっ気を、著者は「私」自身の小説『おしゃれ童子』(太宰著、1939年)を引いて素描する。「マントは、わざとボタンを掛けず、小さい肩から今にも滑り落ちるように、あやうく羽織って、そうしてそれを小粋な業だと信じていました」。あくまで小説の話なので「お道化の虚構」に彩られているが、著者本人も大差なかったのだろう。そうなら、気障を絵に描いたような少年だ。

 

 その中学では「入学式の日から、或る体操の教師にぶたれた。私が生意気だというのであった」。これも、「私」の小説(太宰著『思い出』、1933年)からの引用だ。気障がたたったのだろう。「私」即ち著者が郷里にあっては浮いた存在だった様子がうかがわれる。

 

 だが、それでも「私」には郷里への思い入れがある。それを感じさせるのが、津軽半島東岸の蟹田という町の旧友宅で宴席が催されたときのことだ。「私はその夜、文学の事は一言も語らなかった。東京の言葉さえ使わなかった」。ここで出てくるのが「オズカス」という地元言葉。三男坊、四男坊を指して言う。「こんどの旅によって、私をもういちど、その津島のオズカスに還元させようという企画も、私にないわけではなかった」と吐露する。

 

 蟹田では、友人らと町はずれの小山に登って花見も楽しむ。旅館で昼食をごちそうになり、さらに病院事務長宅に招かれる。「おい、東京のお客さんを連れて来たぞ」「リンゴ酒を持って来い」「その縁側にかけてある干鱈をむしって、待て、それは金槌でたたいてやわらかくしてから、むしらなくちゃ駄目なものなんだ」「僕がやる。干鱈をたたくには、こんな工合いに、こんな工合いに、あ、痛え」。事務長のはしゃぎぶりは半端ではない。

 

 著者は、それを「疾風怒濤の如き接待」と形容する。「津軽人の愛情の表現は、少し水で薄めて服用しなければ、他国の人には無理なところがあるかも知れない」「この愛情の過度の露出のゆえに、どんなにいままで東京の高慢な風流人たちに蔑視せられて来た事か」

 

 僕が感嘆するのは、この気風が戦中にも生き延びていたことだ。これは、「創作」ではなさそうだ。作品そのものには戦時色がにじんでいる。たとえば、青森駅で出迎えた知人は戦地帰り。南方へ出征したが、病気を患って戻ってきた。「こんどは銃後の奉公です」と言う。あるいは、「私」が来ると聞いて「配給のお酒を近所から少しずつ集めて置く」という手配をした人も出てくる。辛苦の時代でも、客人に対するもてなしを優先させている。

 

 国防への配慮は、やたらに強調される。津軽半島東岸の外ケ浜街道をバスで北上するくだり。友人は車窓の風景を解説してくれるのだが、「もうそろそろ要塞地帯に近づいているのだから」「ここにいちいち書き記すのは慎しむべきであろう」と記述を控える。半島突端の竜飛に着いても「国防上、ずいぶん重要な土地」を理由に詳しい描写を避ける。半島西岸の最北部でも同様だ。文壇にまで、特別秘密保護の気づかいが浸透していたことになる。

 

 この作品からは、津軽人が国の一大事に処しながらも、別次元で固有の生活を淡々と営む姿が見えてくる。それは、著者にとっても自己再発見となったらしい。作中、実家の場面で「私」と兄たちとの距離感が匂わされているが、それを受けて後段で「きょうだい中で、私ひとり、粗野で、がらっぱちのところがある」と書く。そこに、実家に仕えたり出入りしたりした津軽人の影響を見てとり、「私は、これらの人と友である」と宣言する。

 

 最後にひとつ。僕がいかにも太宰らしいと感じたのは、津軽平野の小さな駅に大荷物を両手にもった少女が駆け込み、口に咥えた切符を若い駅員に切ってもらうくだり。少女は「眼を軽くつぶって」「顔をそっと差し出し」、美少年は「まるで熟練の歯科医が前歯を抜くような手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた」――この軽やかさは、『斜陽』のスプーンの「ひらり」そっくりだ。太宰治はどこにいても、お坊ちゃまの軽快感を忘れない。

(執筆撮影・尾関章、通算426回、2018年6月22日)

 

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