『イデオロギーとしての技術と科学』
(ユルゲン・ハーバマス著、長谷川宏訳、平凡社ライブラリー)

 真夏なのに背筋を寒くさせる話に、通信教育大手の顧客情報流出事件がある。子どもたちの個人データが名簿業者の手に渡って売り買いされているらしい、という気味の悪さはもちろんある。だが、それ以上に怖いことがある。ザクッと言えば1000万人規模の人々の住所、氏名、生年月日などがいともたやすく、一人の人物を介してA社からB社に届けられるという現実である。
 
 これだけの量の情報を紙の文書にしたら、どのくらいになるのだろうか。氏名プラス数項目の特性なら、1人分をなんとか1行で記述できる。A4判1枚に50行、50人分は収まるだろう。両面印刷で1枚に100人。全体で10万枚の紙が要ることになる。これは、厚さにしてどれほどか。200ページの本はざっと100枚の紙でできている。そうしてみると、1000冊の本を重ねたくらいの分量ということになる。
 
 大したことないな、と思える数字ではある。名簿を運びだすには、段ボール箱数個に詰めて台車に載せればどうにかなる。ただそれは、引っ越しのときの話だ。情報だけを秘密裏にに入れるには複写の手間がかかる。10万枚をこっそり両面コピーするのは難作業だ。
 
 だとすれば、今回の流出事件の陰の主役は手のひらに載る記憶媒体ではないか。どんな媒体が使われたのかはともかく、大容量のものが介在したことは間違いないだろう。動画でもどんどん吸い込む数十ギガバイト級なら、文字列の保存は朝飯前のはずだ。
 
 で、僕が思うのは、この出来事を被害者の視点だけで見てはいけないということだ。僕たちは、悪意の漏洩犯にならなくても、過失漏洩の当事者にはなりうる。会社や役所でコンピューターを扱っている人は、ちょっとしたことで個人情報を流出する側に回ってしまう。マウスの操作でポインターの置き場所を誤り、だれか一人に送るべきメールを一斉送信してしまったというようなミスは日常よく見られることだからだ。
 
 USBメモリーにデータを移すとき、手違いで個人情報満載のファイルもコピーしてしまったとする。そのメモリーを入れたかばんをうっかり電車に忘れたとしよう。不運にもそのかばんが良からぬ人物の手に渡ったら……。個人情報ファイルはパスワードなどで守られていることが多いが、そういう対策がとられていないときに「手違い」と「うっかり」と「不運」が重なると悪夢のシナリオが待っている。これは善意の人にも起こる災厄だ。
 
 20世紀後半の電子工学は、素子の情報密度を高める道をまっしぐらに進んできた。回路の集積度は、半導体素子の線幅を細めることで高まる。いまや、数十ナノメートルという極細の配線でエレクトロニクスが成り立つようになった。
 
 心にとめておきたいのは、そういう技術の進展で僕たちは自らの行動様式を改める必要に迫られているということだ。書類だけを相手にしていた20世紀人と違って、指先の動きにまで細心の注意を払わなくてはならない。それは、ハンコを上下逆さに押したらまずいという域をはるかに超えている。ぼーっとしていたら、全人口の何割かの個人データを全世界にまき散らし、数百億円規模の損害を引き起こすこともありうるのだから――。
 
 そこで、今週は『イデオロギーとしての技術と科学』(ユルゲン・ハーバマス著、長谷川宏訳、平凡社ライブラリー)。書名にとられた論考など5編から成る。著者はドイツの社会哲学者。1929年生まれで、第二次大戦後の世界を見つめ、語ってきた論客である。この本の原書が出たのは1968年。プラハの春、パリ五月革命、ベトナム反戦や大学紛争の高まりがあり、既成社会に対する異議申し立てが世界同時に炸裂した年のことである。
 
 この年にドイツで、まだ若手と言ってよい哲学者が「技術と科学」に焦点をあてた論考を上梓していたことの意味は大きい。時代を的確に先取りしていたというべきだろう。平凡社ライブラリー版の初版第1刷は2000年。第2刷は2012年のことだ。遅い二刷りは、3・11後の日本社会で「技術と科学」への向き合い方を見直す機運がようやく高まったことの表れとみてとれる。
 
 著者の技術観はこうだ。「技術の歴史は、目的合理的行為が一歩一歩客体化される過程、という視点から再構成することができる」のであり、「技術の発展は、最初は人間の有機的身体のもとにあった目的合理的行為の機能範囲の基本的な要素を、人類がひとつまたひとつと技術的手段の平面に投影し、自身は当該の機能から解放されていく過程」と解釈できるという(論考「〈イデオロギー〉としての技術と科学」)。
 
 「運動装置(手と足)」「(人間の身体の)エネルギー産出機能」「感覚装置(目、耳、皮膚)」の働きが次々に「技術的手段」にとって代わられ、ついには「中心制御装置(脳)」に至る。USBメモリーは、技術がそこにたどり着いたことを物語っていると言えよう。
 
 著者は、こうした技術が社会に取り込まれるとどうなるかを考察する。人間は「目的合理的行為の構造が社会システムの水準に投射されたあかつきには、homo fabricatus〔工作される人〕として、技術的装置のうちにみずから統合されもするのである」。homo fabricatusは、旧来のhomo faber〔工作する人〕に対置させた概念だ。マウスの誤操作がないかどうかでびくびくしている自分は機械の一部だなと自嘲しつつ、この指摘にうなずく。
 
 その技術観をもとに著者の批判が向く先は、ドイツ観念論が台頭した18〜19世紀以来、知識人の間に浸透してきた科学観だ(論考「技術の進歩と社会的生活世界」)。科学理論が実践面で力をもつには「理論にかかわる人間自身の生活態度に理論の刻印がおされ、宇宙全体の理解をもとに自身の行為の規範もしめされ、かくて、哲学的教養人の行為をとおして、理論がその具体的なすがたをあらわすことによるほかはない」という立場である。
 
 これに対し、著者は現代科学の実態を突きつける。「研究の過程は、技術への転換や経済的利用とむすびつき、科学は、工業社会的な労働システムにおける生産や管理とむすびついている」。いまや「科学は教養をたかめる、というドイツ観念論の信念」は色褪せたという。
 
 この指摘に、僕はちょっとたじろぐ。宇宙論や素粒子論のような実益に直結しない純粋科学の意義を言うとき、それは文化の一部だ、と僕自身が言ってきたからだ。科学イコール文化論はドイツ観念論の名残と言えないこともない、というのが反省点。だが、その一方で、「技術への転換」や「経済的利用」や「工業社会的な労働システムにおける生産や管理」とかかわりの薄い科学もある、と弁明したい気持ちが心の片隅にある。
 
 ただ、「工作される人」に変質した現代人に、昔風の教養の効能が通じないのは確かだろう。純粋科学の研究者は、自らの探究の果実が「社会システム」の「技術的装置」に組み込まれた人間に何をもたらしうるのかを自問しなくてはなるまい。
 
 著者は「教養は、もはや、個人的行為の倫理的次元だけを相手とするものではありえない。むしろ、政治という中心的な領域においてこそ、科学的に説明された世界了解にもとづいて行為に理論的な指針があたえられる、というようでなければならない」という。時代が求める教養は、私的なものではなく公的なものになった、というのである。目を引くのは「世界了解」という言葉だ。そこには、純粋科学がもたらす世界観も含まれるだろう。
 
 この本には、科学ジャーナリズムを語った一節がある(論考「政治の科学化と世論」)。著者によれば、新聞の科学欄などは研究情報を「科学外の公共世界」に出す働きがある。科学を「日常語」で語るからだ。この情報ルートは、科学者が異分野の様子を知るのに役立つ。そして「科学と政治的公共世界の大衆との、危機にさらされたコミュニケーションを再建するうえでも、有利に働いている」。科学ジャーナリストには励みとなる一言である。
 
 再び「〈イデオロギー〉としての……」。未来学者ハーマン・カーンの知見を借りて「むこう三三年間」に予想される技術が列挙されている。たとえば「脳と直接に交信」。実験は進むが、僕たちにとってもまだ次世代技術だ。ハーバマスを読むのは今からでも遅くない。
 
写真》USBメモリーと書物。1冊の本もバイト数で数値化される時代になった=尾関章撮影
(通算223回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
■ブック・アサヒ・コム「文理悠々」のバックナンバーはこちらへ
■「本読み by chance」は原則として毎週金曜日に更新します。
コメント
虫さま
「量が質を変える」論、僕も安易に使いたくありません。これを言いだすと、なんでも正当化することになりかねませんから。
ただ、3・11後、原子核技術のことを考えていて気づいたことがありました。
ひと言で言えば、原子力発電は間違っていたが、医療への放射線利用は許されるだろうということです。
1934年に湯川秀樹が重力でも電磁力でもない新しい力(核力)を予言し、数年後に核分裂現象が見つかる。これは未知の力なのだから、そろそろと小さなところ(たとえば医療)だけで使っていればよいものを、欲望のままに兵器や発電装置に組み込んだ。
人がなにかを扱うとき、それが制御可能な量かどうかというのは決定的な違いです。量が質を変えるのはこんなときではないか、と僕は思っています。
  • by 尾関章
  • 2014/08/05 1:43 PM
尾関さま

<20世紀の科学技術は原子力であれ、ITであれ、その変え方が旧来の枠組みに収まりきらないものになった>

科学技術が人を変える度合いが新しいレベルに突入した、ということですね。

最近、浅知恵なりに何かを考えていてふと気付くことは、「量の拡大はあるレベルに到達するとことの本質を変えるのか」という疑問が今のマイ・テーマであるらしいということです。
例えば、核兵器を「非人道的兵器」と呼ぶこと。殺戮の規模が甚大であり、放射能の影響がのちのちまでおよぶ、ということからの定義だとは思うのですが、そもそも兵器は非人道的であるから兵器なのであって、どこかに線引きして、ここから先は「非人道的」になりますという物言いには違和感を覚えます。これは「現実主義」から出る発想だと思いますが、この線引きの帰結は、限定的な殺戮なら「人道的」であり許容されるということになります。

「致死量」という概念がありますが、この示すところは、ある量を超えると生物を死に至らしめるということですから、この場合は明らかに量の拡大がものの本質を変えるといえると思います。
しかし、こと人間社会のありように関する限り、前述の核兵器に関する違和感が示すように、今の僕は「量の拡大はあるレベルに到達するとことの本質を変える」という立場ではないようです。

とは言うものの、冒頭引用の尾関さんのお言葉は経験的によく理解できます。パソコンが壊れた時、あるいは、引っ越してインターネット環境が整備されていない時に、社会から隔絶されたような、ひとり海に放り出されたような気分を抱いた記憶があります。これは明らかに「統合のされ過ぎ」からくる「病理的」反応ですよね。今や死語と化した「疎外」という言葉が心に浮かびます。
長々と失礼致しました。今気付きましたが、脚をテーブルに載せ、ノートパソコンをその膝に置いてこのコメントを書いている自分の姿は、さぞや滑稽でしょうね。
  • by 虫
  • 2014/08/05 12:23 AM
虫さま
今は「工作される人」の「される」度合いが高まった、というふうに僕は読みました。
たしかに、技術はこれまでも人を変えてきた。たとえば、文字の発明。人のコミュニケーションのみならず、思考のありようまで変えたと言えるでしょう。それに印刷技術が加わって、さらに人は変わりました。
だから、技術が人を変えるのは人類の歴史そのものなのですが、20世紀の科学技術は原子力であれ、ITであれ、その変え方が旧来の枠組みに収まりきらないものになった。
「技術的装置のうちにみずから統合されもする」という言葉が指しているのは、そのことではないでしょうか。
  • by 尾関章
  • 2014/08/04 5:33 PM
今なお密林に住む未開(とされる)部族にも、人の身体機能を「外部化」し、その機能を「社会化(共有)」している部族はあると思います。そして部族のメンバーには、社会化された機能システムが目的とする果実を合理的に獲得するために、そのシステムに取り込まれた「部分」としてルールに則って行動することが求められます。そうしなければ、最悪の場合、部族の存続に関わる危機を招いてしまうかもしれません。
このありようは既に、homo fabricatus〔工作される人〕の姿ではないでしょうか。そして、〔工作される人〕になることによって〔工作する人〕として価値を生み出すわけです。

ハーバマスは20世紀後半の恐るべき科学技術の進歩とそれが人間にもたらすであろう問題に警鐘を鳴らすために、homo fabricatus〔工作される人〕とhomo faber〔工作する人〕とを対置概念としたのでしょうか。
この両者を対置させること、あるいは新旧のものとして捉える考え方がいまひとつ腑に落ちません。科学技術の進歩の度合いに関係なく、社会に生きる限り、人はhomo fabricatus〔工作される人〕となることでhomo faber〔工作する人〕となり得るように思えるからです。
  • by 虫
  • 2014/08/03 9:46 PM
コーセイ様、コメントをありがとうございます。
自転車の話、僕は逆だと思いますね。
自転車は「人が変わる」ように迫る技術ではなく、どちらかと言えば、人が昔ながらの人であることを求めている技術でしょう。「危ない」と思ったら声をかける。そういう人間らしい振る舞いがよく似合う、きわめて人間的な技術のように思います。
そう考えると、例にあげられた出来事は、人が非人間的技術に満ちた世界で変質してしまったために起こる、とみるべきではないでしょうか?
この場合は、行動様式を改めるのではなく、元に戻す必要があるのだと思います。
  • by 尾関章
  • 2014/08/03 8:41 PM
尾関さんへ 2014年8月3日 午後12:15

おっしゃっている次の点に注目してみました。

<技術の進展で僕たちは自らの行動様式を改める必要に
迫られているということだ>

●そうですよね。「みんな何気なくやってることでも、
考えてみたらすごく変である」ということに気づかなくなった。

そのように思う事が多い今日この頃です。

「コンピュータの使い方をうっかり間違って、本当はやったらいけない事をやってしまい、
そのまま、何気なく過ごす」
という類の話だけはないでしょう。

もっともっと、どこにもありそうな、毎日の出来事に
そうした良くない事の元になる種が潜んでる。
僕はそのように推測しています。

一例ですが。歩道を猛スピードで走行する自転車。
それを見ても、とりたて注意しないおまわりさん。

前に「ああいうの多いので困りますよね?」と
実際にそういうことがあったその場で、交番にいた警官に声をかけたことあります。
そうしたらこう言われました。
「いくら注意してもダメなんだよね」

それと別のある時、僕がたまたま危ない目にあったので
自転車の人に注意したら・・・。

怖い顔した若いママさんに「ギロっ!」と睨まれました。「何をてめえ言ってんだ!」と言わんばかりに。
しかも、自転車の後部席に幼子を乗せ、
運転席の前にカゴを付けてそこに
赤ちゃんを置いて・・・です。

なんと恐ろしい光景ではないですかあー!
もし誰かとぶつかって倒れたらどうなるのでしょう?
赤ちゃんは放り出されて・・・頭を打ち・・・。
「そうなったのはアンタのせいだ」と言われて・・・。

「夏の怪談より、もしかしたらこわいかもしれない!」

「気をつけなくてはいけないな」という注意力が現代人に欠けてきてしまった。というか
(もしかしたら自分も含めて)我々は鈍感になってしまっているのでしょう。

★僕たちは自らの行動様式を改める必要に
迫られている★

尾関さんの文を読んで
あらためてそのようなことを納得し、考えさせられた。そう思った次第です。
ではまた。
コメントする