『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(宮崎賢太郎著、角川書店)

写真》朝日新聞デジタルの「潜伏キリシタン」遺産報道

 潜伏キリシタンにかかわる長崎、天草地方の遺産群が、世界文化遺産に登録されることになった。国連教育科学文化機関(UNESCO=ユネスコ)の委員会が6月末に決めた。最近は登録競争が過熱しており、世界遺産って何だろう、と思わないでもないのだけれど、今回の決定にはなんとなく納得した。民衆の精神生活を映した地味な文化遺産は、ユネスコにでも乗りだしてもらわなければ、なかなか守りきれないだろうと思われたからだ。

 

 日本で登録済みの世界文化遺産のなかには、日本人のナショナリズムをくすぐるものが少なくない。代表例は2013年の「富士山」や15年の「明治日本の産業革命遺産」。これらは、たとえ国際機関のお墨付きがなくとも保全の情熱がすたれることはないだろう。一方、潜伏キリシタンは日本の近世社会で異端の小集団だった。近代の自由が未成熟な時代に禁断の教えを捨てなかった少数派。その文化を伝承するにはユネスコの支援が必要だ。

 

 視点を変えてみると、これは「内心の自由」ともかかわっていないか。2017年施行の改正組織犯罪処罰法は「共謀罪」法とも名指されるような性格があり、人々が心のうちに抱く思いにまで規制の網をかけることにならないか、という懸念が拭いされていない。立法時に論点の一つとなった「内心の自由」の問題だ。江戸幕府の禁教政策は、この種の自由をあからさまに踏みにじった先行例だろう。その標的となったのが潜伏キリシタンだった。

 

 ところが僕たちは、この内心の自由の近世史に対して、あまり関心を払ってこなかった。「潜伏キリシタン」という言葉に馴染みがなかったことからも、それはわかる。学校時代に「隠れキリシタン」と習い、そこでとどまっていたように思う。今回の報道で、江戸期禁教下のキリシタンを「潜伏……」、明治以降に潜伏信徒そのままの信仰を引き継いだ人々を「かくれ……」「カクレ……」とする呼び分けが専門家の間にあることを知った。

 

 さらにいくつかの報道に触れてわかったのは、日本のキリシタン信仰は潜伏期にすっかり本家本元のそれとは違うものになっていたらしい、ということだ。言われてみれば、これはストンと腑に落ちる。そもそもキリスト教が日本に伝わったころ、宣教師はどんなふうに教えを説いたのか。言葉の壁をどう乗り越えたのか。聖書はどのように扱われたのか。そんな疑問に思いを馳せると、欧州の宗教が日本列島に複製されることの難しさは歴然だ。

 

 別の知的好奇心も湧いてくる。潜伏キリシタンは、信仰のかたちこそ本来の姿から変質していても、なんらかのキリスト教精神を植えつけられたのではないか。それは在来文化と化学反応して、日本社会の風土にいかばかりかの影響をもたらしたのではないか――。

 

 で、今週の1冊は『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(宮崎賢太郎著、角川書店)。著者は1950年生まれの宗教学者。長崎出身。東京の大学、大学院で学んだ後、郷里に戻り、2016年まで地元大学の教授を務めた。研究者としては、カクレキリシタンの在住地域を実地に調べ、日本人とキリスト教との関係をキリシタン時代に遡って探ってきた。この本は今年2月に初版が出た。世界遺産登録を見通しての刊行と言ってよいだろう。

 

 ただ、この本は、潜伏キリシタンの遺産群をめぐる世間の盛りあがりに一定の距離を置く。第一章「夢とロマンのキリシタン史」を読むと、著者には地元に目立つ「ロマン」の安売りに違和感があることがわかる。観光案内に「歴史とロマンの島」、バス乗り場に「ブルーロマン号」、店先には「ロマンの銘菓」……。僕は科学記者の一人として、宇宙の話ならなんでも「夢とロマン」で括る伝え方を批判してきたが、同様の常套表現がここにもある。

 

 これに対して、著者はこう主張する。「したたかで、強靭(きょうじん)でありながら、なおかつしなやかな現実の民衆の信仰世界」には「ロマンとはまたちがった美しさがある」。この本では、そういう「日本のキリスト教のあるがままの姿」に迫りたいというのだ。

 

 この本で好感がもてるのは、キリシタンの実態をデータで描きだしていることだ。安土桃山の世で迫害がまだなかった1590年、単純計算では1人の宣教師が受けもつ信徒の人数は1785人だった。宣教師の数に「同宿」と呼ばれる日本人の補佐役を加えても、布教側1人に対して信徒390人というマスプロ状態だ(出典は、『十六世紀キリシタン史上の洗礼志願期』ロペス・ガイ著、井手勝美訳、キリシタン文化研究会、1973年)。

 

 「外国人の関係者には日本語による十分な意思伝達能力を備えた者は数少なかったし、日本人関係者の中でキリシタンの教えについてしっかり説明できるほど十分な教義理解能力を備えた者も数少なかった」と、著者はみる。さらに江戸期に入ってしばらくすると滞日の宣教師が皆無となる。潜伏キリシタンは「ひとりの指導者も持たない信徒たち」だった。この一事からも、日本のキリシタン信仰を標準版のキリスト教とみるのは難しい。

 

 となると、キリスト教伝来後の16〜17世紀、その教えに改宗したとされる人々は本当にキリスト教徒だったのかという疑問が出てくる。著者の見方はこうだ。改宗者の多くは「仏教や神道を全面的に否定し、新たに一神教としてのキリスト教を受容したのではなく、従来の神仏信仰の上に、さらにキリシタンという信仰要素をひとつ付け加えたにすぎなかった」というのである。言語文化の障壁が宗教のありようを変えたのかもしれない。

 

 ここで見落とせないのが、改宗がどのように広まったかだ。日本のキリシタン数は16世紀半ばに約6000人だったのが、17世紀初頭には約30万人にふえている。だが、それは個々人の精神活動の所産とは言い難い。「日本における急速な信徒数の増加は、みずから率先して受洗した、キリシタン大名の政治権力によってなかば強制的にもたらされたことは明白な事実」と、著者は断じる。どうやら、そこには内心の自由がなさそうだ。

 

 たとえば、16世紀後半の肥前国大村領。領主大村純忠が家臣を伴って洗礼を受けた後、領内のキリシタン化が一気に進んだという。この本では、1574〜76年だけで領民3万5000人がキリシタンになったという統計や、神社仏閣が取り壊され、仏僧約200人が改宗したといった史実が紹介される。「キリシタン時代には、キリシタンの方が逆に仏教や神道を迫害したという事実もまた記憶の一端にとどめておくべきである」というのだ。

 

 ただ、改宗が上意下達の結果であっても、キリシタン文化には魅力があった。著者によれば、武士層は武運長久の新たな信仰対象を見いだし、知識人層は布教に伴って伝来する科学や文物に関心を寄せ、大衆は無病、大漁、豊作、繁盛など現世利益を求めた。仏教が「民衆の精神的救済機能を失い、むしろ彼らの生活を管理統制する」傾向を強めていたので、「民衆が新たな力ある南蛮の神に救いを求めたとしても不思議はない」と著者は分析する。

 

 この本は、キリシタン信仰がキリスト教そのものでないことを史料によって証拠づけていく。一例は、外海(そとめ)・五島地方に残る写本「天地始之事(てんちはじまりのこと)」。表題は旧約聖書「創世記」に由来するのだろうが、新約聖書の内容を含み、イエスや聖母マリアについての記述もある。驚くべきは、ここに「日本の民俗的世界観に基づく物語、伝説、宗教知識」が盛り込まれていることだ。著者は「まことに不思議な世界」という。

 

 天草の信仰事情を江戸後期の古文書で跡づけたくだりも興味深い。そこでは「御利益があるといわれれば簡単に洗礼も授かり、御利益がなければあっさりと捨ててしまう」というように、人の勧めでたやすく改宗棄教する村人の姿が描かれている。当時の日本社会は「だれもはっきりとキリシタンとは何かがわかっていなかった」と著者はみる。取り締まる側が、信徒を「心得違いの異宗徒」と扱って穏便に事を収めたこともあったらしい。

 

 僕には、潜伏キリシタンは近代以前に欧州の世界観に触れていたのだろうという先入観があった。それは見当違いだったようだ。この本で見えてくるのは、信仰の選択肢を一つふやしてしたたかに生きる民衆の姿。ここにこそ、内心の自由があったのだとも言える。

 

 異質のものも軽やかに受け入れる。その寛容こそが誇るべき文化遺産なのかもしれない。

(執筆撮影・尾関章、通算432回、201883日公開)

 

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