『科学者と世界平和』(アルバート・アインシュタイン著、井上健訳、講談社学術文庫)

写真》国連ビル

 毎夏、ヒロシマ、ナガサキの原爆忌を過ぎて襲われるのは、いいようもないむなしさだ。言葉が宙に浮いているとでも言ったらよいのだろうか。核兵器の廃絶が人類の悲願であると耳にタコができるほど聞かされるのに、世界は依然、核の脅威に覆われている。

 

 僕は新聞記者だったので、夏にはよく反核記事を書いた。支局勤務のころは、管内にいる被爆者の体験談を聞いた。科学記者になってからは、原爆の開発期を知る物理学者の証言に耳を傾けたこともある。論説委員だったときは、核廃絶をテーマに論陣を張るべく同僚と議論を重ねたものだ。だが今、退職してOBとなってみると、すべてが空振りだったように思える。駆けだしのころと比べて、核戦争の危険が遠のいたとは到底言えない。

 

 最大の隘路は、おそらく核抑止力だ。核戦争が怖いと訴えると、それを食いとめる有効な手立てがありますよと、この用語がもちだされる。だれかが核攻撃を仕掛けようとしても、それと同等かそれ以上の反撃に遭うとわかっていれば踏みとどまる。だから、核を封じるために核をもつ、という理屈である。こう考える人がいるから、反核のうねりがどれほど高まっても核兵器容認論が跡を絶たない。だが、この思考回路には大きな穴がある。

 

 それは、核兵器は存在そのものが危険であるという事実だ。核爆弾が爆発するのは、保有国が「先制攻撃しよう」「反撃しよう」と意図するときだけではない。事故による暴発がありうる。テロリストに盗まれ、使われる恐れもある。偶発の危険因子には事欠かない。

 

 実は、この可能性については去年、国連が採択した核兵器禁止条約も留意している。前文に「締約国は、核兵器が存在しつづけることのリスクを心にとめる」と書いて、その一つとして「偶発事故による爆発」を挙げている。ここに通常兵器との次元の違いがある。

 

 そのことについては1年前、朝日新聞の言論サイトWEBRONZAに拙稿を書いた(2017年8月7日付「核禁条約は20世紀科学の総決算」)。要約すれば、通常の火は人々が慣れ親しんだ原子核外の現象だが、核の「火」は原子核のタガを外して得られるもので、人類が20世紀半ばに核の蓋を開けるまでは未知の現象だったということだ。そこには物理学の飛躍がある。物理学者なら、その怖さをもっともよく知っているに違いない。

 

 で、今週は『科学者と世界平和』(アルバート・アインシュタイン著、井上健訳、講談社学術文庫)。今年7月に出たばかりの文庫本だ。『世界の名著』66(湯川秀樹、井上健責任編集、中央公論社、1970年刊)から、表題の書簡集と「物理学と実在」という論考を切りだしている。後者は現代物理学の問題点を哲学の視点で語ったもので、著者アインシュタインの量子力学批判がどんな理由にもとづくかを知るには有用な1編だ。

 

 この文庫版では、前者「…と世界平和」には今をときめくメディアの論客佐藤優さん、後者「…と実在」には素粒子論や量子力学の理論物理学者筒井泉さんが、それぞれ解説の筆を執っている。読者心をそそる布陣だ。この本を手にしてから、さあどちらを当欄でとりあげようかと大いに迷った。ただ拙稿冒頭で触れた8月の落胆のなかで、今回は前者に決めた。後者も読みどころがたくさんあるので、機会を改めて紹介したいと思っている。

 

 さきほど「…と世界平和」を「書簡集」としたのは、こういうことだ。この1編は、三つの文章から成る。著者が1947年の国連総会に宛てた公開状、これを受けて当時のソ連の科学者4人が書いた公開状形式の反論、それに対する著者の返信だ。留意したいのは、47年の国際情勢。佐藤解説にある通り、「米ソの対立が未だ本格化していなかった」ころである。ソ連の核実験は始まっていないが、核をめぐる思惑は渦巻いていた。

 

 まずは、著者の国連に対する公開状をみてみよう。最初の段落に「技術工学的開発の進歩は人間社会の安全と福祉を増進するものにはなっていません」「平和と人類の生存そのものを脅かす危険に貢献するものになっています」とある。ここには、原爆もヒロシマ、ナガサキも出てこないが、核兵器の脅威を念頭に置いているのは間違いない。続く段落で、国連の体制ができても「原子力の管理」に大きな進展がないことを嘆いているからだ。

 

 原子力をどう管理するかで提言されるのが主権の制約だ。「国家主権という伝統的な概念を修正することなしには、原子力の国際的な制御や管理や一般的な軍備撤廃とかについての完全な意見の一致を見ることは、絶対不可能」と、著者は言い切る。どの国も現状では「国際条約にたいしてお義理のサービス以上のものを提供しようとはしない」とみて、軍事による安全保障が「その国単独の問題」とはならない状況をつくる必要があるというのだ。

 

 と、ここまで読んだだけで、著者のしたたかな現実主義が感じとれる。一般に、物理学者は平和志向が強い。背景には、20世紀に物質の根源を探ろうとして突きとめた知見が兵器開発に悪用されてしまったという後悔がある。痛切な思いから発した平和主義なのでナイーブに過ぎる、と僕は感じていた。ところが、この提言から受ける印象は違う。国際社会の力学を考察して、リスク回避の最適解を探そうとしているように見える。

 

 たとえば著者は、ただ核戦争はいけない、と唱えているわけではない。冒頭部分で「原子力の管理」「原子力の国際的な制御や管理」と繰り返していることからも、それはわかる。核物質は存在するだけで偶発事象の危険があることを強く意識していたのだろう。

 

 それを踏まえて提示されるのが、二つの選択肢だ。一つは、これからも戦争があると前提して、それに備えること。備えには核物質の貯蔵も含まれる。この道を選ぶと「人は軍事機密の保持ということから生じるもろもろの事柄に耐え忍ばねばならない」。あえて機密をもちだしたのは、物理学者仲間が秘密裏に原爆開発に関与させられたことがあるからだろう。ただ、どこかの国で特定秘密保護法が生まれる未来を見透かしたような先見性もある。

 

 もう一つが、国家主権の制限である。「あらゆる市民」は「原子力時代における安全保障と平和にたいする唯一の保証は超国家的な政府をたえず発展させていくこと」とわかれば「超国家を強化する」ために「力の限りを尽くすことになる」と、公開状は予言している。ここで押さえておきたいのは、著者が「超国家」をいきなり実現しようとは言っていないことだ。あくまで、それは「発展させ」「強化する」動的なイメージとしてある。

 

 ここで公開状は、国連を「超国家的」なものにしていくための方策を提案する。1)総会の権限を強める2)国連代表を国民の直接選挙で決める3)総会は常時開会とする――どれも具体性のある改革案だ。なかでも、もっとも目を引くのは2)だろう。これは、各国が国連に送り込む人物を大統領のように選ぶということらしい。有権者が既存国家の枠を超えて政治にかかわる点では、欧州連合(EU)にある欧州議会の先取りとも言える。

 

 さらに提起されるのは「部分的世界政府」という概念だ。超国家の「世界政府」にソ連やその同盟国が入らないとしても事を一歩進めるべきだと主張する。ゴールが見えれば同調機運が高まるというわけだ。世界政府が「世界の主要な工業的・経済的な区域のなかの少なくとも三分の二を包合したきわめて強力なもの」なら、それは「軍事機密やその他の不安定さから生じるあらゆる行動」を回避できるという。ここにも現実主義が見てとれる。

 

 ソ連の科学者たちは物理学界の巨星であるアインシュタインに敬意を払いつつ、国家主権の制限には反対する。当局の意向を代弁している感は否めないが、それが反グローバリズム経済を理由にしているのは興味深い。世界政府は「主要な工業諸国を支配している資本主義的独占が自分自身の国境を狭すぎるものと見なしているという事実の反映」というのだ。ある意味で、これも昨今のTPP(環太平洋経済連携協定)論議につながってくる。

 

 欧州でEU懐疑論が強まり、日本にも米国にもTPP反対論が根強いことを思うと、世界政府への道は険しい。いや、その道が必ずしも正解とは言えないだろう。ただ、核の管理については国家主権を限定したほうがよい。なぜなら、核は通常と次元が違うからだ。

(執筆撮影・尾関章、通算435回、2018年8月24日更新)

 

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