『アニマルウェルフェアとは何か――倫理的消費と食の安全』

(枝廣淳子著、岩波ブックレット)

写真》君はどこから来たのか

 日が、だんだん短くなってきた。この季節、たそがれどきに近所の通りを歩いていると、不審な人影が遠くに見えることがある。こちら向きなのに、なかなか近づいてこない。ところどころで立ちどまり、足もとに目をやっては、なにやら語りかけている様子だ。やがて、すれ違うほどになると、そこで交わされているのが人と犬の会話であることがわかってくる。夕闇の犬の散歩はシルエットにしてみると絵になるなあ、とつくづく思う。

 

 ネットを検索すると、ペットフード協会という団体が推計した日本国内の犬猫飼育数が出てくる。それによると、2017年は犬が892万頭、猫は952万6000頭。飼っている世帯を全世帯で割り込んだ率は、それぞれ12.84%、9.71%だという。犬、猫それぞれが10軒に1軒ほどの割で住みついている勘定。もはや社会の一員と言ってよい。これらの犬猫はもちろん、人々から家族のように愛情を注がれるペットである。

 

 この推計からも、日本社会に動物愛護の精神が横溢しているのは間違いない。愛犬愛猫の食事を充実させるためにペットフードを買いあさり、愛犬愛猫が病気になればペットホスピタルに入院させ、愛犬愛猫が亡くなればペットロス状態に陥る。これらは、最近よく耳にする話である。僕自身はペットを世話する余力もその病気や死に耐える気力もないので、大人になってからはなにも飼ったことがないが、愛犬家、愛猫家の気持ちはよくわかる。

 

 ところが、日本社会は動物を虐げているという批判を受けることがままある。2015年には、世界動物園水族館協会(WAZA)が和歌山県太地町のイルカ追い込み漁を問題視して、この方式で捕らえたイルカを買わないよう日本の水族館などに求めた。その拠りどころは、WAZAが定める「倫理・動物福祉規定」。これについては、あのときほとんど報道されなかったので、いま「動物福祉」という言葉を見て戸惑う人は多いだろう。

 

 「福祉(welfare)」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、年金、医療、介護、障害者支援……といった事柄だ。いずれも、想定されているのは人間社会。僕たちが慣れ親しんできた用語法では、福祉は人間以外の動物のありようにはなかなか結びつかない。

 

 英国での取材体験がなかったら、僕も同様の違和感を覚えたことだろう。1990年代、科学記者としてロンドンに駐在すると、そこでは人々の動物観に劇的な変化が起こっていた。「動物の権利(animal rights)」が、エコロジー思想の一要件として叫ばれるようになっていたのだ。環境保護グループは反捕鯨を訴えるときに、これを掲げていた。医学や製薬の分野でも動物実験の是非をめぐる論議で、これを等閑視できなくなっていた。

 

 動物福祉は、動物の権利という概念としっかり結びついている。ペットを飼うとは、人間が自分と異なる動物を種の垣根を超えて愛護することだが、動物ならなんでもこうした恩恵を受けられるわけではない。ただそれでも、生態系の一員として尊重されるべき固有の権利をもっているとみるのが、動物の権利論だ。この立場を踏まえて、人間という種が別種の仲間の権利をできる限り守っていこうとするのが、動物福祉の考え方である。

 

 で、今週は『アニマルウェルフェアとは何か――倫理的消費と食の安全』(枝廣淳子著、岩波ブックレット)。著者は1962年生まれの環境ジャーナリスト。大学でも教授職に就いてきた。地球温暖化などを扱った訳書も多い。この本は今年8月に出たばかりだ。

 

 「はじめに」には、著者が2年前、米西海岸の消費経済を取材したときの体験談が出てくる。スーパーや飲食店で見かけたのは「人道的に飼育された肉」「成長ホルモンや抗生物質を与えていない肉」「ケージ飼育をしていない鶏の卵」といった表示。アニマルウェルフェア(AW)、即ち動物福祉の意識が流通の末端まで浸透していることの表れだ。そこには、家畜にも「動物本来の行動」と「幸福(well-being)な状態」を保証する思想がある。

 

 これに続けて、商品が動物福祉の基準に適っていることを示す認証制度の話がある。欧米では複数の制度が広まっていて、食品会社への投資の判断材料になりつつあるという。「このようにAWが投資家すら注目する動きになっているのに、日本ではほとんど知られていないのではないか」と著者。まったく、その通りだ。僕たちには、経済活動に損得以外の物差し、たとえば倫理の価値観を組み込もうという発想が乏しすぎるような気がする。

 

 状況打開のきっかけとして期待されるのが、2020年の東京五輪・パラリンピック。食材の大量調達が見込まれるが、それが動物福祉に背馳すれば国際社会の非難は必至だからだ。著者は組織委員会内の専門委員会メンバーとして、畜産物に対する基準を厳しくすることを求めたが、緩めの落としどころでまとまったようだ。ただ、この問題はこんな外圧がなくとも消費者が意識を高めるべき局面に来ている。この本を読むと、そう痛感する。

 

 この本は、鶏、豚、牛の順で飼育の実態を浮かびあがらせていく。まずは採卵鶏。飼い方は大きく分けて4通りあるが、もっとも過酷なのは、鳥かごを上下左右に並べた「バタリーケージ」方式だ。平均して1羽が430平方センチ、B5判ほどの領域に押し込まれる。ケージが傾いているのは卵が転がり出るため。床面が金網なのは排泄物を処理しやすいように。これでは「本来の行動」はありえない。鶏は文字通り、産む機械になっている。

 

 肉用鶏はどうか。代表格のブロイラーは、バタリーケージの採卵鶏とは違って一応、動きまわれる。とはいえ、出荷時点でみて1平米に15羽ほどという過密状態。狭いだけではない。国内に多いのは、「明るい時間が長ければエサをたくさん食べる」と見込んで電灯をつけっ放しにする鶏舎だ。「幸福な状態」から遠いばかりでなく、病気にもなりやすい。その結果、「予防のため」の薬剤投与に拍車がかかる。ストレスと薬漬けの悪循環だ。

 

 鶏の受難を知っただけでもグルメ気分は失せる。だが、これは序の口だ。哺乳類に話が進むと、暗澹たる気持ちはいっそう強まる。その極みは母豚だ。国内では畜産豚の大半が食肉を得るために肥育されているが、1割弱は子豚を産む母豚として飼われている。その多くが「自分の体とほぼ同じ大きさの鉄の檻」に閉じ込められ、体の向きも変えられない。檻の呼び名は「妊娠ストール」。あまりに即物的だ。ここにも、産む機械扱いがある。

 

 母豚は「食事もトイレも就寝も同じ場所で、ひたすら立っているか座っているかしかない」。だから、柵をかじったり、エサがないのに口をもぐもぐしたり、水をがぶがぶ飲んだりという「異常行動」が現れる。人間に置きかえて考えれば、当然のことと思われる。

 

 乳牛も、酪農家が牛舎を区分けして、それぞれに1頭ずつつないでいることが多い。業界の調査では、飼育農家の7割ほどがこの「つなぎ飼い」方式をとっているという。このとき、微弱電流が通る棒状の装置が牛の背中の上方に取りつけられることがある。牛は排泄態勢に入ると背中がもちあがるので、その瞬間、電気を感じて一歩後退する。こうして、排泄が適正な場所でなされるというわけだ。ここでも、飼う側の都合が優先されている。

 

 人間の都合は、家畜の身体そのものにまで手を加える。たとえば子豚は、生後まもなく犬歯やしっぽを切りとられることが多い。犬歯の切除は母豚やきょうだい豚を噛んで傷つけないため、尾の切断は逆に自分が傷つけられないため、という。狭い場所に押し込められているという事情はあるのだろう。ただ著者は専門家の見解をもとに、これらが過剰な処置である可能性をにおわせている。動物福祉にも科学者の関与が求められていると言えよう。

 

 この本は後段で、家畜の福祉が国際社会の主要課題になっている現状を詳述している。僕がかつて欧州で見聞きした動物の権利保護の潮流が確実に強まっているのである。ただここでは、その紹介はしない。まずは飼育実態を知って、自分で考えてみようではないか。

 

 著者は、動物福祉を「エシカル消費」(倫理的消費)の文脈に位置づける。食は、安くて美味ければよいのではない。食べられる側への尊敬が食べる側の僕たちを心地よくする。

(執筆撮影・尾関章、通算回436回、2018年8月31日公開)

 

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