『闘うフェミニスト政治家――市川房枝』(進藤久美子著、岩波書店)

写真》女性国会議員1割

 平成の世であまり聞かなくなった言葉の一つに「婦人」がある。たとえば、婦警さん。婦人警官は今、警官の性別を言い表す必要があるときでも女性警察官と呼ばれる。ほかでも世事全般、部署や役職や文書の名前で「婦人→女性」の言い換えが進んだ。

 

 「婦人」は差別語とされたわけではない。ではなぜ、嫌われたのだろう。「夫人」を連想するからか。「○○夫人」は夫たる○○に付随する人のような印象があるので避けたい呼び方だが、「首相夫人」「大統領夫人」は健在。なぜか、同音の「婦人」が割を食っている。

 

 もう一つは、「婦人」よりも「女性」のほうが進歩的であり、おしゃれでもあると感じる人が多いからだろう。そのことは、婦人雑誌と女性誌の語感を比べてみればすぐわかる。婦人雑誌は、専業主婦向けに家事の知恵も載せた古色蒼然の月刊誌という感じだが、女性誌と聞けば、キャリアウーマンの関心事をとりあげ、ファッショングラビアが満載されている出版物を思い描く。この差が、じわじわと「婦人」を追い払っていったのだ。

 

 こうしたバイアスを除くと、「婦人」はそれほど悪い言葉ではない。「女性」という熟語には「性」が組み込まれ、生物学的な性が強調されすぎるきらいがあるが、「婦人」なら男女の問題を社会の文脈で論じることができそうだ。ジェンダーという言葉が広まったのと同様の方向性がある。ただ難点は、「婦人」の相方が男性には見当たらないことだ。女性警官という言葉を使うとき、男の同僚は男性警官になる。だが、婦警に対語はない。

 

 僕たちが子どもだったころ、すなわち1950〜60年代は「婦人」が世の中にしっかり根を張っていた。卑近な例では、落語家が話のまくらで「今どきのご婦人は……」とよく言っていたことを思いだすが、ニュースでしばしば耳にしたのは「婦人運動」だ。

 

 余談だが、私的な思い出にちょっと浸らせてもらおう。僕が生まれ育った町内には、婦人運動の闘士といわれる高齢女性がいた。戦前、婦選運動にかかわっていたらしい。子ども心に選挙権がかつて男性の占有物だったと知ったのは、その話に接したときだったと思う。彼女については、少年にとっても解せないことがあった。いつも地味な着物姿で、政治向きのこととなると、とびきり右寄りの人だったのだ。それが、婦人運動とどう結びつくのか。

 

 で、今週の1冊は『闘うフェミニスト政治家――市川房枝』(進藤久美子著、岩波書店)。市川房枝(1893〜1981)、懐かしい名前だ。僕たちの世代には、参議院の少数会派第二院クラブに属し、院の内外で気骨のある政治活動をしたシニア女性政治家として脳裏に焼きついている。この本のカバー袖にも、彼女は「『政治は生活を守るためにある』を政治理念」に「金権政治を許さず女性の基本的人権と恒久平和を守ろうとした」とある。

 

 著者は1945年生まれ、米国の大学院でも学んだことがある元東洋英和女学院大学教授。専門は、アメリカ史とジェンダー研究で、日米の政治史を社会的性差の視点から読み解く著書を次々に出してきた。この本も、その流れにある。今年8月に出たばかり。

 

 僕がこの本に惹きつけられたのは、目次に「婦選運動」の4文字があったからだ。もしかしたら、わが郷土の着物姿の闘士が登場しないか。そんな井戸端的な好奇心から、どんどんページを繰っていったのだが、残念なことに彼女の名は見つからなかった。ただそれでも、この本は僕が少年時代にぶち当たった疑問に謎解きの鍵を与えてくれた。戦前婦選運動の様相についてだ。今回の拙稿では、そこに焦点を絞って話を展開していこうと思う。

 

 ことわっておくと、僕の関心は著者が力点を置いた主題とは必ずしも合致しない。目次を見ればわかるが、「婦選……」を章題に掲げたのは序章「婦選運動と戦争」のみ。第1〜3章と終章は、いずれも市川の戦後史を描いている。女性が参政権を得てから、彼女がどのように「金権政治」や「保守的女性観」や「再軍備化」とたたかい、生活本位の政治をめざそうとしたか、の詳述だ。だが、その底流に戦前戦中の経験があるのもまた事実だ。

 

 それは、市川がクリーン政治家としての名声を得たころ、メディアがほとんど目をつぶった史実に触れれば、わかってくる。彼女は1947年春から50年秋まで、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のもとで公職追放の身にあった。「大日本言論報国会理事の任にあった」のが理由だ。男女平等の選挙権という民主主義を追い求めていた人が民主化をめざすGHQから排除されるという皮肉。だがそれは、苦渋に満ちた自身の軌跡の帰結だった。

 

 著者は、婦選運動の起点を1924年の「婦人参政権獲得期成同盟会」(後の「婦選獲得同盟」)の発会に置く。関東大震災の翌年で「震災後の極端な物資不足への対策や救援活動のため」に「女性たちの社会的活動」が求められていたという。大正デモクラシーの風を受けて、翌25年には「婦選三案」が帝国議会に上程される。「婦人公民権」「婦人参政権」の建議案と「婦人結社権」の法律案。三つは、採択されずとも政治課題にはなったのだ。

 

 この年は、日本社会の曲がり角にあたる。成人男子の普通選挙を定める法律が治安維持法と「抱き合わせ」で生まれたのである。「普選の次は婦選」の機運が高まる一方、「婦選運動を社会主義運動と同様に『国体の変革』につながる」とみる警戒論も強まっていた。

 

 この本から市川の足跡をたどると、1921年には米国へ渡り、女性が参政権を得て間もない現地の状況を見ている。帰国後は国際労働機関(ILO)の東京支部に勤め、炭鉱や繊維職場で働く女性たちについて調べた。外で自由主義に触れ、内で労働現場にも通じたことは、度量の広い政治感覚をもたらした。彼女は28年、獲得同盟のメンバーとして婦選運動の結集を提案、その結果、「左右両翼女性組織の大同団結」が実現したのである。

 

 婦選運動には二つの方向性があった。一つは「家制度の社会で女性たちが唯一認められた活動の場は、生活の場としての家庭(台所)」と割り切る生活志向。東京市内のガス料金値下げ運動などが、これに当たる。もう一つは、女性は「清廉潔白な性」と自負して進める社会活動。男性の普選を監視するという選挙浄化運動がそうだ。興味深いことに、これらは、市川が戦後、女性議員として生活者の立場から反金権を訴えた姿勢につながっている。

 

 ただ著者は、これを弱点ともみる。生活志向であれ選挙浄化であれ、女性はこうあるべしという役割固定の通念が見え隠れしていて「保守的社会の体制にすり合わせ開発された」と分析、それらは「民主的社会のあるべき姿としての婦選要求とは、本質的に異なる」として、「体制が全体主義化するなかで、かぎりなく体制にからめとられていく契機となり得た」と論じる。実際、日本の婦選運動は、このあとその弱点ゆえに道を誤ることになる。

 

 転機は1931年の満州事変だ。議会内に婦選支持派がふえ、公民権と結社権の実現間近とも思われていたが、それどころでなくなったのである。市川は事変直後、「非戦の立場から、関東軍が自衛を口実に中国大陸で軍事制圧を拡大し続けることを強く批判した」。ところが37年に盧溝橋事件が起こると一転、政府に「ある程度協力する」立場をとるようになる。そこには、「婦人子供」の幸福を「国家社会」のそれと一体視する論理があった。

 

 そのころ、政府は国民精神総動員(精動)運動を始める。市川も婦選の同志とともに「実践すべき事柄」の絞り込みに加わる。選ばれたのは「祝祭日の国旗の掲揚」「毎朝の神仏礼拝」「質素な服装」「早寝早起き」……。僕はふと、郷土の婦選闘士のことを思った。

 

 市川らしい言動もあった。精動を「単に『上意下達』の運動にするのではなく、『下意上通』の自主的側面の強い運動に」と呼びかけたこと、家族制度を守らんがゆえに女子徴用をためらう東條英機首相に「封建時代の思想から一歩も出ていない」と反発したことだ。

 

 この本で痛感するのは、僕が市川房枝の半分しか知らなかったことだ。残りの半分からは戦時、平和主義者が戦意高揚に加担させられるからくりが見えてくる。それは「生活者」「ボトムアップ」「男女共同参画」の美辞ものみ込み、自らの栄養にしてしまうだろう。怖い。

(執筆撮影・尾関章、通算439回、2018年9月22日更新

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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コメント
虫さん
ありがとうございます。励まされます。どんな本に出会えるか、という期待感は枯渇しないですね。
  • by 尾関章
  • 2018/09/24 9:34 PM
管理者の承認待ちコメントです。
  • by -
  • 2018/09/24 9:05 PM
尾関さん

今日も拝読。いつも何か新しいことを知らされます。なるほど、と思い、コメントをお送りしようかとも思うのですが、時間がなかなか許してくれません。ともあれ、さまざまなジャンルの本の紹介、毎週楽しみにしております。
ということで、今日は感謝コメントです。
  • by 虫
  • 2018/09/23 6:48 PM
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