『東京プリズン』(赤坂真理著、河出文庫)

 蝉しぐれとともに戦争を思う。これは、新聞記者という仕事に就いていたからこその習性だろうか。8月に入ると、6、9、15という数列がさっと頭に浮かぶ。広島と長崎の被爆、そして終戦。この飛び石にタイミングを合わせ、1945年の夏をなぞるように「戦争もの」の記事を出す。この作業を、日本の新聞は戦後ずっと、おそらくはひと夏も欠かすことなく続けてきた。
 
 この企画でもっとも優先されるのは、戦前戦中の体験を聞くことである。僕が若かったころは、たやすくそうした話に触れることができた。年長の人たちは、例外なくだれもが戦争の記憶を心に刻んでいたからだ。
 
 翻って2014年はどうか。戦後70年まであと1年。戦中に大人だった人は90歳超か、アラウンド90である。いまなお、戦時に見たこと、聞いたこと、考えたこと、したことを率直にうち明けてくれる人がいる一方、貴重な証言を胸に秘めたまま他界する人も多い。体験談を通じて戦争の実相を伝えていくことが、いよいよ難しい時代になったと言えよう。これから僕たちは、どのように戦争のことを語り継いでいくべきなのか。
 
 ここでふと思うのは、戦争を知らない僕たちが戦後史を記録にとどめることである。戦後の風景をじっと思い返すだけでも戦争の影が見えてくるように僕には思える。
 
 たとえば、1960年代の高度成長。人々を突き動かした渇望感は、戦後の喪失感の裏返しだったとも言えよう。そのことは僕が50年代、幼い目で見た埃っぽい東京を思い起こすと腑に落ちる。駅には傷痍軍人の姿があり、駅前には仮設の店がひしめいていた。
 
 そして、70年前後の学生運動。それは、ただの政治闘争ではなく、口では戦後民主主義を唱えても旧道徳から抜けきれない親や教師たちへの異議申し立てでもあった。これもまた戦争の影である(当欄2014年7月12日付「限りなく∞に近い1970年」)。
 
 戦後史は、すべて戦争に端を発している。戦争の罪深さは戦後にも尾を引いている、ということだ。だから逆説を言えば、戦前戦中世代の体験談を積分しても、それだけでは戦争のすべてを記述したことにならない。戦後史がなければ戦争史は完結しないのである。ところが僕たちは、先行世代が戦争を語るほどには戦後を伝えていない。自分自身が生きた時代の証言を後継世代に残そうとしているようには思えない。
 
 で、今週の一冊は『東京プリズン』(赤坂真理著、河出文庫)。2010年〜12年に『文藝』誌に連載された長編小説で、12年に単行本(河出書房新社刊)が出た。文庫化は今年7月。著者は1964年生まれなので、青春が日本経済のバブル膨張期に重なる世代である。ひと回りほど上の僕の青春が、経済の実のある成長と、その鬼っ子とも言える若者の反抗に特徴づけられるのとは対照的だ。そこに興味を覚えて、この本を開いた。
 
 主人公はアカサカ・マリ。ページを繰っていくと、1980年代初めと2010年前後、10代と40代の彼女が代わるがわるに出てくる。15歳から16歳にかけては米国東海岸に留学している。40代半ばには日本にいて少女時代の自分を思い返している。どちらのマリも夢想の世界に入り、時空をたやすく跳び越える。さらに、母や祖母の話も織り交ざる。過去と現在、米国と日本、仮想と現実を貼り合わせたコラージュ風のつくりだ。
 
 そこに埋め込まれた1本の筋は、日本人少女マリが、戦後35年の米国で天皇の戦争責任を論ずるという課題を与えられる話だ。マリは現地高校で1学年下に編入させられたが、全校生徒の前で「日本について」の研究を発表すれば、本来の学年に戻すと言われる。
 
 マリが、能や歌舞伎のことを話すつもりだと教師に伝えると「そんな石器時代のことを言ってなんになる。現代アメリカ人にとって最も興味のあることはひとつだ」と、たしなめられる。それは「真珠湾攻撃から天皇の降伏まで」だった。期限が近づくと「天皇(エンペラー)の戦争責任のことは、取り上げてくれるね」。さらに「発表」はディベート形式に切りかえられ、「戦争責任あり」の側に立って論陣を張るよう求められる。
 
 苛酷な話ではある。母国ではメディアですらあまり語りたがらない問題を調べ、論理を組み立て、母国語でない言葉で語る。しかも、ディベートは討論のゲームなので、主張すべき結論はあらかじめ宛てがわれている。自分の考えを述べればよいというのではない。マリは、それにどう立ち向かうのか――読み手の楽しみを奪ってはいけないので、ここでは立ち入らない。むしろ、マリ世代だからこそ見えた戦後史の断面を切りだしてみたい。
 
 一つには、米国の見え方。自動車のことをこう書く。「この密室ではなんでも起こる。人は、この密室で起こることに耐えなければならない。いいことも悪いことも、ここで起こる。人はここで暖(だん)をとり、生き延び、屈辱(くつじょく)に耐え、いちゃつき、ときに子を宿し、髪の手入れをし、銃の手入れをし、いざとなれば子を産み、死に、たまには蘇生(そせい)するのだろう。あるいは殴られ、あるいは殺され、あるいは殺すのだろう」
 
 その一方で、こうも言い添える。「でも、どんなに居心地が悪くても、ちがう風景を持ってくるところは車の最大の救いである」「時速八〇マイルで走る車は、暴力的なまでに風景を手繰(たぐ)り寄せては蹴(け)り飛ばす」。冒頭の章で、米国生活を始めてまもないマリが学校の男友だちに誘われ、鹿狩りをしに森に向かうくだりに出てくる一節だ。同じ車には、キスに耽る男女や銃の手入れに余念のない男が乗っている。
 
 巨大な冷蔵庫も皮肉っぽく描かれる。ホームステイ先の母親が大量に買い込んだ食料品を庫内に収める作業中、口にするのは「アメリカン・ウェイ・オヴ・ライフ。はい復唱して」だった。これを言うとき、彼女の指は「指揮者がタクトを振るように」宙を舞う。
 
 僕が少年のころ、自動車と冷蔵庫は米国の自由と豊かさの象徴だった。だが、マリたちの世代にとって米国は、すでに遠くから眺めてあこがれる国ではなく、中に入って体感する存在となっていた。だからこそ、車には「いいこと」だけでなく「悪いこと」も潜んでいることを見抜いたのだ。食生活を冷蔵庫に頼る米国流を屈託なく誇る米国社会の傲慢さを冷やかにとらえたのだ。
 
 もう一つは、日本国内の住まいの変貌だ。マリの実家は東京・高円寺にあったが、バブルさなかの87年、郊外へ移る。「二番目の家は、いつも薄暗いように感じていた。最初の家にある、陰陽のひだのような暗さとは別質の暗さがその家にはあった。くすんだ感じ、と言ってもいいかもしれない」。そこは、谷地を埋め立てた住宅地。20年たっても歩道は仮設のまま。「工事現場を表す黒と黄色の縞(しま)模様の柵の間が、歩道である」
 
 2010年、マリは、母のいるこの家でソファに横たわって目をつぶる。すると、昔の高円寺の家が夢想世界に甦る。その描写は、五感を研ぎ澄ましたもので圧巻だ。「居間と続きの北側の空間は、ひんやりする。ここに食卓がある。さわってみるとべたっとする。私の家の台所に近いものはすべて、水で拭(ふ)いただけではとれない薄い油膜に覆われていた」。ここには、たしかに「陰陽のひだ」、谷崎潤一郎が礼讃したくなるような陰翳がある。
 
 台所には、ダイヤル式の黒電話。マリは母の電話番号簿を見つける。「表紙の裏に、別紙で、私のアメリカの滞在先が書いてあった」。そして、受話器をとり、「母」になりすまして過去の自分と言葉を交わす。おもしろいのは、2010年マリの電話は夢想の出来事だが、1981年マリは、それを現実と受けとめていることだ。この矛盾を作者があえて仕掛けたのは、過去が絶えず想起によって塗りかえられることを示したかったからではないか。
 
 翳りがある昭和の家とアメリカン・ウェイ・オヴ・ライフがつながった仮想の瞬間である。
 
 1980年代は、日本社会の国際化とバブル経済の時代だった。国際化で米国文化に対する崇拝は終わり、バブルで日常空間の質感が変わった。マリたちの世代は、それを肌身で切実に感じた世代と言えよう。この作品で、僕の戦後史はまた一つ豊かになった。
 
写真》今年も戦争回顧の季節がめぐってきた。いまや毎夏の回顧の積み重ねも戦後史の一部になっている=尾関章撮影
(通算224回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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コメント
虫さま
<<そろそろ私達は物事は「風化する」という事実を認め、その事実に立脚して別のアプローチを模索すべき時>>
まったく、その通りですね。
まず、自分の個人史がある。それをもとに物事を考える。その参照用として、戦前戦中史がある、ということのように思います。
  • by 尾関章
  • 2014/08/13 11:19 AM
尾関さん

戦後史を考え記録することが、戦争史を考えることにもなるというご指摘、なるほどと納得致しました。
さて、戦争に限らず、さまざまな災厄の記憶を「風化させてはならない」という議論についてですが、そろそろ私達は物事は「風化する」という事実を認め、その事実に立脚して別のアプローチを模索すべき時にきているように思います。
無論、さまざま個人的体験の聞き取りと伝承の作業は大切であり続けていくべきと考えますが、物事は風化するという厳正な事実に目を背けたのでは、目指すことを実現することに結びつかないように思えます。
それではどのようなアプローチがあり得るのかといえば、熱い感情はひとまず内に秘めて、理知的に物事に対処することでしょう。戦争ならば、それが起こった経緯を自ら詳しく分析し、その結果から、その再現を防ぐために社会を造りかえることだと思いますが、これこそが、日本の戦後史に欠落した大きな空白だと思います。我々自身がこの作業を怠ったことは大きな損失だったと思います。
間違いなく風化はします。それでも「風化させない」ためには、個人、社会を問わず、理知のレベルで考え、議論し、それを社会の形に反映させる文化と仕組みを作り上げていくほかにはないように思えます。情動に情動をもって抗しても、望んでいる結果は得られないのではないでしょうか。
  • by 虫
  • 2014/08/12 5:05 PM
<<来年は戦後70年。終戦の年に生まれた人が70歳になる>>
僕が子どものころ、戦後生まれがついに甲子園球児になった、とテレビが言っていたことを思い出します。そう思うと、1960年代と今とでは戦争の語られ方が違って当然。「親世代から地続き」の地続き部分が結構大事だと思うんです。
  • by 尾関章
  • 2014/08/10 2:47 PM
来年は戦後70年。終戦の年に生まれた人が70歳になる。それでもあの戦争の話は、今も毎夏新たに発掘され伝えられる。「親世代から聞いた戦争」としてしか体験していない私の世代(50代)も、戦争だけはしてはいけない、それを伝えなければいけない、という意見にはまず肯く。この20年くらいは毎年のように戦争体験の風化を心配する声が上がるが、一方で阪神、東日本大震災に襲われ、その都度思い出したようにあの戦争を想起させられる(原発問題も)。人種も国境も超え、人間の本質的な愚かさ、弱さ、罪のようなものを思い知らせる作用があるのだと思う。自分たち以降の世代もまた、戦争を知らない世代というより、戦争を忘れられない世代として、親世代から地続きで8.15を知るべきなのだと思います。
  • by 戦後70年と戦争の記憶
  • 2014/08/09 7:13 AM
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