『リア王』(ウィリアム・シェイクスピア作、福田恆存訳、新潮文庫)

写真》キングズ

 政局談議から入るのは当欄の風土にあわないが、今回は例外としよう。9月に政権党の総裁選挙があって、憲法改正に執念を燃やす現首相が勝利した。いよいよ、である。改憲には国民投票という関門があるので、国会が発議してもすんなり決まるわけではない。だから、僕たちは今のうちに全方向にアンテナを張って、とんでもない改憲案が出たらダメ出しする準備をしておいたほうがよい。ここで強調したいのは「全方向」ということだ。

 

 改憲と聞いてすぐ思い浮かぶのは、第9条のことだろう。改憲派であれ、護憲派であれ、自衛権や戦争放棄をめぐって持論を展開することが多い。半面忘れがちなのが、外交防衛とは異なる分野で密やかな改悪がなされるリスクだ。僕は科学取材に携わってきた元新聞記者として、社会の合意点がまだ見出されていない先端技術を前のめりで縛ってしまう拙速改憲を警戒してきた。こっそり改悪が遂行される恐れは、理系領域以外にもある。

 

 先日、そんな僕の取り越し苦労――であればよいのだが――と響きあう寄稿を新聞紙面で見つけた。社会経済学が専門の間宮陽介さんが、朝日新聞の読書面「ひもとく」欄に寄せたものだ(2018年9月8日朝刊)。「家族と憲法24条」と題して数冊を書評している。「家族」の話は、科学技術よりはるかに馴染みやすい論題だ。だが、やはり国の一大事ではないということで、さしたる議論もなく条文が差し替えられてしまうかもしれない。

 

 憲法24条は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し……」で始まり、結婚や離婚、相続など家族関係にかかわる法律は個人の尊厳と男女の平等に立脚すべきことをうたっている。ところが自民党の日本国憲法改正草案では、24条に「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される」「家族は、互いに助け合わなければならない」とある。国の最高法規が国民に向かって家族を大事にしろと説く構図。余計なお世話ではないか。

 

 間宮書評も、ここに目をとめる。24条改憲は9条改憲と同様、「現行憲法に対する革命的意味をもつ」と断ずる。「あるべき家族を作り上げることを目的とし、この目的のために家族に介入しようとする」。たしかに戦後民主主義にとっては、ちゃぶ台返しだ。

 

 僕も、このような24条書き換えには納得がいかない。憲法は権力を縛るものであって私生活に口出しするものではないのに、ことさら「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位」と言う。家庭が社会の一単位なのは間違いないが、それはより根源的な単位である個人のつながりとして存在する。だから確執もあれば和解もあり、喜怒哀楽に富む複雑系だ。それをどうして、一律に型にはめようとするのか。あまりにやせ細った家族観ではないか。

 

 で、今週の1冊は『リア王』(ウィリアム・シェイクスピア作、福田恆存訳、新潮文庫)。作者(1564〜1616)は約40編の戯曲を残したが、この作品は四大悲劇の一つとされる。訳者も巻末の解題で「シェイクスピア悲劇の最高峰」「彼のみが書き得る、紛れも無い彼自身の刻印を持った悲劇」と位置づけている。解題の推理によれば、執筆されたのは1605年前後らしい。この福田訳文庫版は、初版が1967年に刊行されている。

 

 古典であり、名作でもあるので、ネタばらし回避にあまり気を遣わなくて済む。逆に、筋を追うのもほとんど不要だ。ここでは骨格を要約しておこう。ブリテン(英国)の国王リアはすでに老境にあり、3人の娘に領地や大権を分け、隠居しようと思いたつ。ところが心は、おべっかを言う長女、次女ばかりに傾き、未婚の末娘は追われるようにフランス王の妻となる。そして王家の内外では欲得が渦巻き、争いが起こり、血も流される――。

 

 作者が巧妙なのは、この王家の家族関係をグロスター伯爵家のそれに絡ませていることだ。グロスター伯の長男は嫡子、次男は庶子。父はなぜか次男が可愛い。二つの家庭に芽生えた偏愛が禍を招き、追われた者たちが英国の荒野に吹きすさぶ嵐にさらされる。

 

 この作品は、沙翁劇定番の一つである王侯貴族の物語でありながら、ふつうの家庭にも通じる普遍性がある。血を分かち、育み育まれる親子であっても、心のうちでは自分可愛さの思惑が膨らみ、ついには愚かな判断や醜い画策に行き着く。この現実を、作者は登場人物の台詞によって白日の下に曝していく。訳者解題も、この作品の主題は「第一に親子の間の愛情と信頼に関(かかわ)るもの」と言い切っている。だが、別の読みどころもある。

 

 長女ゴネリルはこう言う。「お父様、私がお父様をお慕いする気持は、とても言葉では尽せませぬ」「何に譬(たと)えて『これ程に』と申しましたところで、すべて私にはもどかしゅう覚えます」。歯が浮くとは、このことか。ここで僕は、今どきのコミュニケーション状況を思った。「お客様」を連発するセールストーク。座を白けさせるのがNGの飲み会。内なる本心は匿名の書き込みに化け、うわべは耳に心地よい言葉ばかりが飛び交う。

 

 これに対して、末娘コーディーリアは可愛くない。父から、なにか言うように水を向けられると「申上げる事は何も」と応じる。「確かに父君をお慕い申上げております、それこそ、子としての私の務め、それだけの事にございます」。その真意は、別の箇所の台詞で披歴される。「私は、心に無い事を聞きよく滑(なめら)かに言廻す術(すべ)を知りませぬ、こうしようと思った事は口に出すより先に、まず行いにと考えるからにございます」

 

 不言実行は、日本社会の専売特許ではない。西欧の価値観にもなじむようだ。昭和のCM「男は黙って……」の性差に対する認識も修正が必要だろう。この作品が見せつけるのは、言葉を弄ばないことの美徳。家族間の意志疎通ならば、当然の要件とも言える。

 

 その裏返しで、コーディーリアは家族のなかに硬質な議論ももち込む。既婚者である姉たちが父一人に心を捧げているような口ぶりだったことにかみついて、夫婦愛の行方に疑問を投げかける。「私でしたら恐らく、一旦(いったん)嫁ぎましたからには、誓いをその手に受けて下さる夫に、私の愛情はもとより心遣いや務めの半ばを割(さ)き与えずにはおられませぬ」。論理をもって甘言の弱点をつく。なかなかに高度で巧妙な口喧嘩だ。

 

 この作品では、娘たちに対するリアの接し方も、今風の視点から吟味できる。その心境と心理は、高齢社会を生きる現代人も共有できるからだ。「国事の煩(わずら)いや務めを、この老いの肩から振落し、次の世の若き力に委(ゆだ)ね、身軽になって死への旅路を辿(たど)ろう事にある」。その言や、よし。自らの引き際を見定めるのは潔いし、余生を構想するのも前向きだ。老害を防ぎ、世の中の指導層を若返らせることにもなる。

 

 ところが、領地や権力の分配にあたって「誰が一番この父の事を思うておるか、それが知りたい」というあたりから、あやしくなる。各人の取り分を「思うておる」度合いによって決めようというのだ。たとえ、そういう傾斜配分がありだとしても、どのくらい「思うておる」かを見極めるのは難しい。それを、発せられた言葉だけで判定してしまう愚。これも老いがなせる業なのか。高齢者を狙った詐欺が多発する昨今の世情にも通じる話だ。

 

 ただ、その愚かさは老いのせいだけではあるまい。権力者が陥りがちな罠でもある。リアがコーディーリアの取り分ゼロを宣言すると、忠臣ケント伯は意を決して言う。「権力が阿諛(あゆ)に膝(ひざ)を屈するのを目の前にして、義務は恐れて口を開かぬとでも思召(おぼしめ)すのか?」。その決定を撤回するよう諫め、コーディーリアを庇う。「空(うつ)ろなこだまを響かせぬ低い声の持主が、心のみ空ろであろう筈(はず)はありませぬ」

 

 これを聞いたリアは、権力を笠に着て怒る。「ケント、命が惜しくば、もう何も言うな!」「退(さが)れ、目障りだ!」「増長慢にも程がある」。こうしてケント伯も国外追放を言い渡される。直言に耳を貸さなかったリアが、どんな目に遭うかはお察しの通りだ。

 

 この場面で連想されるのは、日本政治の近況だ。政権首脳に対する諫言が側近からもほとんどなく、「空ろなこだま」ばかりが響きあう。こんな政治家たちに、憲法をもちだして家族のありようを説教してもらいたくはない。沙翁劇を読んで、つくづくそう思う。

(執筆撮影・尾関章、通算441回、2018年10月12日公開)

 

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