『マジ文章書けないんだけど――朝日新聞ベテラン校閲記者が教える一生モノの文章術』(前田安正著、大和書房)

写真》直しが入る

 新聞社に長く勤めていたので、社内部署間の軋轢は退職後の今も皮膚感覚として残る。僕のように出稿部門にいた者にとって、原稿をチェックする部門はうるさい存在だった。

 

 取材記者が書いた原稿は、まず所属部の出稿責任者(デスク)が目を通す。「わかりにくい」「焦点がぼやけている」などと手が入り、ときには全面書き直しを命ぜられる。出稿後も、紙面制作を担う整理部門や編集幹部から注文がつくことが多い。そしてもう一つ待ち受けているのが、校閲部門の点検だ。固有名詞や数字の誤りなど致命的な欠陥を見つけてもらって救われることは少なくないが、反論したくなる指摘が届くこともある。

 

 校閲部門は、新聞社が定めた用語規則の守り手だ。往々にして、そのことが出稿部門との間で摩擦を引き起こす。僕自身にも、こんなことがあった。ある原稿で哲学者モーリス・メルロ=ポンティに言及したとき、外国人名の「=」は省く、という原則から「メルロポンティ」とされてしまった。これには承服しがたかったが、結局は従った。もちろん、僕の不満は規則そのものに向けられていたわけで、校閲担当者個人にはなんのうらみもない。

 

 原語はMerleau-Pontyなので、「=」が絶対ではない。ただの約束事だ。それでも「=」にこだわったのは、メルロ=ポンティの邦訳書がほとんどすべて「=」表記だからだ。キーワード検索が日常の時代、わざわざ世間の慣習に逆らい、混乱を招く必要はあるまい、と思われた。実際、社外筆者の記事では「=」を認めているのだ。社内筆者が社の用語法を重んじるのは当然としても、ときには柔らかな運用があってよいのではないか――。

 

 とはいえ退職した今、校閲部門のみなさんには感謝の気持ちしかない。他人が書いた原稿をなんども読み返し、危うい箇所があれば目ざとく見つけだすのだから、それだけでもありがたい。規則を盾に文言の手直しを求めてくるのは職務の行使であって、実際は筆者の思いがわかっていることもあったのだろう――。そんな反省を強めてくれる本に最近出あった。校閲人の柔軟思考が見てとれる1冊。ベストセラーと呼べるほどの売れ行きだ。

 

 『マジ文章書けないんだけど――朝日新聞ベテラン校閲記者が教える一生モノの文章術』(前田安正著、大和書房)。広告で副題が目にとまり、著者名を見てピンときた。同じ会社にいたあの人ではないか。先方は当方のことなどご存じないだろうが、当方は存じあげている。書名から察するに、さばけた筆致の本らしい。文章に厳格なはずの人がさばけて語る文章論とはどんなものか? そんな好奇心から、今週はこの本をとりあげる。

 

 著者は朝日新聞社で校閲部門の要職を次々にこなし、その一方で自身も連載を執筆してきた。おもに言葉や文章について語るコラムである。校閲業務に、ただ用語の守護者として臨むだけでなく、攻めの姿勢で向きあってきた人ということになろう。あとがきによると、本業のかたわら事業構想大学院大学でも学んでいたらしい。そのときに出会った仲間たちと「何か面白いことをやりたい」と盛りあがって生まれたのが、この本だという。

 

 本の主人公は、商社員の「浅嶋すず」。大学生のころ、アルバイト先の喫茶店の常連「謎のおじさん」に文章のいろはを教わったことを振り返るという筋立てだ。まったり系キャラ二人のイラストを配するデザインは、仲間の一人、浅川浩樹さんが担当したという。

 

 書名の「マジ文章書けないんだけど」は、すずが就職活動に入ったころの思いだ。喫茶店で就活本を開いたとき、「わあ、就活ってまずエントリーシート(ES)を書かないと始まらないんだ」と気づく。その様子をみて「ふーん、就活なんだ。どこ受けるの?」と声をかけてきたのが、謎のおじさんだった。元サラリーマンだが、今はベンチャー企業相手の投資家だという。「あの、よかったら私に投資してくれませんか?」と、すずは頼み込む。 

 

 こうしておじさんは師匠となり、すずに文章術を指南する。第1段階は、文の主語と述語に焦点を当てた基礎講座だ。ここで、すぐにも役立ちそうな話は「が」と「は」の違い。例文として、「綾瀬はるか、月9の主役に選ばれた」と「綾瀬はるか、月9の主役に選ばれた」が比べられる。前者は「次の月9の主役は誰だっけ」という問いに、後者は「綾瀬はるかは何のドラマの主役に選ばれたのか」という問いにそれぞれ対応するという。

 

 この対比をめぐっては、問う側の視点で見たときに今まで知らなかった情報がどこに置かれるか、という分析もある。前者では「未知情報+が」となるのに対して、後者では「は+未知情報」の順になる。僕たちは無意識に、こんな高等な判別をして助詞を選んでいることになる。日本語は英語ほどに論理的でないと言われがちだが、どうしてどうして理屈はしっかり組み込まれている。おじさん即ち著者は、その一点をきちんと押さえている。

 

 第2段階には、僕が当欄の執筆でいつも苦心していることが満載だ。「しつこいと嫌われる――同じ表現を繰り返さない」と題された章をみてみよう。例文は「彼女の瞳は……愛くるしい」の後に「私も彼女のような瞳の持ち主だったら、と少しうらやましく思う」と続くが、改善例では「私もそんな魅力的な瞳の持ち主だったら……」に直される。「そんな」のような「こそあど言葉」を巧みに用いることで「彼女」の乱発を防いでいるわけだ。

 

 「生きた化石は生きている――過去形と現在形の関係」という章では、ショッピング小旅行の例文が「……軽井沢に出かけた。……お買い得の洋服がないか探した。……歩いているだけでも楽しかった」から「……出かけた。……探す。……楽しい」に直される。

 

 おじさんによれば、元の文は「過去形だけを使って書くとどうなるかっていう文章の例」だ。文法を逸脱してはいないが、「文章の幼さ」感は拭えないという。だから、「た」「た」「た」は避けたい。「だ」「だ」「だ」も「る」「る」「る」も同様だ。これは著述に携わる者にとって、日本文の美学にかかわるたしなみと言ってよい。ただ、ここでおじさんがすごいのは、「た」の連発回避について美学以外の効能も認め、理路整然と説いていることだ。

 

 それによれば、過去形は「映画をスクリーンに映してそれを見ている感じ」だが、現在形に改めると「主人公に乗り移って一緒に動いている」感覚がもたらされる。すずも、現在形の「ライブ感」や「いきいき感」に納得だ。これは、日本語の時制が緩いからこそできる修辞法だろう。そういえば、「た」も過去形専用ではない。古代魚シーラカンスは厳密には「生きている化石」(living fossil)だが、「生きた化石」と呼ぶではないかというのだ。

 

 「視点をずらすと世界が変わる――能動態と受動態を使いこなす」という章からは、著者の新聞人としての視点が見てとれる。例文「自然災害が続いたのを機に、災害予知の必要性が求められている」を能動態にしたらどうなるかという問いに、すずは「……国民は災害予知の必要性を求めている」と答える。おじさんは、受動態で隠れた主体は「国民」あるいは「私」と読みとれるとして、その答えを正解とする。だが、話はそこで終わらない。

 

 おじさん即ち著者は、受動態の「主体が明確に示されていない」表現に「客観的」という長所をみてとる。これは、世間の反応とはやや異なる。新聞が「……とみられる」を多用すると、「私」が求めているならはっきりそう書け、と批判されることがあるからだ。

 

 この箇所で、著者は取材記者の心をわかってくれているな、と僕は感じる。記者の多くは、記事に「私」の意見を書こうなどとは思っていない。そもそも、そんな資格はないのだ。報道の使命は、人々の考えや思い、望みを測りながら、それを文字化することにある(ときに測りそこねることもあるが)。だから、かんたんに「私」とは書けない。ついでに言えば人々は少数派のこともあるから、すずのように「国民」とも言い切れまい。

 

 この本は、エントリーシートの書き方教室という側面があるから、後段では自分をどう巧妙に売り込むかの実践論に力点が移る。だが前段には、新聞社という職場で日々文章に向きあってきた人が見つけた日本語の極意がちりばめられている。そこも読みどころだ。

(執筆撮影・尾関章、通算444回、2018年11月2日公開)

 

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