『朝日ぎらい――よりよい世界のためのリベラル進化論』(橘玲著、朝日新書)

写真》郵便受け

 この秋、中東シリアで過激派組織に身柄を拘束されていたフリージャーナリストが解放された。朗報のはずだが、世間の受けとめ方は微妙だった。当初、ネットメディアには厳しい声があふれた。もし身代金が支払われているのなら、出どころはどこか。それが先方に渡れば、結果としてその活動に手を貸したことにならないか――そんな批判が目立った。今日的な感覚で言えば、そういう思考回路に入るのはわからないではない。

 

 では、ベトナム戦争のころはどうだったか。あのころも報道写真家が戦場の実態を伝えるために危険地帯に入り込み、安否不明になることがあった。だが、それを軽率な行動と責める声は、ほとんど聞かれなかったように思う。世間はジャーナリズムに優しかった。

 

 なぜ、様相が変わったのか。これについては当欄2016年8月26日付「ジャーナリスト失速を思い知った夏」で考察した。ひとことで言えば、権力対ジャーナリズムの構図が干からびてしまったのだ。かつて報道メディアは政権の監視役として人々の期待を集めていたが、それも今は昔。往時の新聞の政権に対する影響力(当欄2018年5月11日付「ケイとベンに教わるメディアの連帯」)は、このところすっかり衰えたように思う。

 

 今回も、ジャーナリズムの側に立つ人々は戦場報道の大切さを訴えている。戦争の当事者は不都合な事実を覆い隠しがちだ。真相を知るには、自立したメディアがもたらす一次情報が欠かせない。ジャーナリストは覚悟を決めて現地に入るのだから、一定の自己責任はあるが、その成果は社会に還元されている――そう主張する。ところが、この言い分が今はなかなか通らない。全体状況よりも、取材者個人の行動にばかり目が向いてしまう。

 

 これは、報道を生業としてきた身にはつらいことだ。「ジャーナリスト失速を思い知った夏」にも書いた通り、僕は最近「科学ジャーナリスト」を名乗る名刺を差しだすのがためらわれるようになった。ジャーナリズムという職域が存在理由を失ったような無力感。

 

 余談だが、テレビの娯楽番組を観ていても落胆がある。2時間ミステリーでは、第1の殺人の被害者はそこそこの人物だ。ところが第2の事件では、自称「ジャーナリスト」が殺されることが多い(「ルポライター」のことも)。第1の事件の犯人をゆすり、金を脅し取ろうとして逆襲される――そんな筋立てが定番だ。ジャーナリストに、昭和の記者ものドラマにあった輝きはない(当欄2014年5月2日付「ジャジャジャジャーンの事件記者」)。

 

 この変転にただでさえ凹んでいるところに、さらに追い討ちをかけてくるものが僕にはある。古巣に対する世評の下落だ。ネットを開くと、朝日新聞が悪者になっている状況がひと目でわかる。一つひとつの批判には耳を傾けるべきものが少なくないが、気になるのは背後に漂う嫌悪だ。どうして、ここまで嫌われるようになったのか。僕たちOBには、過去にさかのぼって、反朝日感情の根っこを探りあてる責任があるように思える。

 

 最初に書いておきたいのは、権力対ジャーナリズムの構図が健在だった1970〜80年代にも、朝日新聞は嫌いという人が少なくなかったことだ。その嫌悪感は、必ずしも政治の座標軸に根ざしていたわけではない。どこに難があったのか。端的に言えば「肌が合わない」と敬遠する向きがあったように思う。ひとつ告白すれば、僕自身がかつて社内にいて時折襲われた疎外感も、その「肌が合わない」感覚に通じるものだったかもしれない。

 

 このことを物語る朝日新聞自身の記事がある。バブル崩壊期に連載された「VS朝日新聞」というインタビュー企画だ。朝日に対して辛口批評する人々の声を集めた。ここに登場した当時『週刊SPA!』編集長、渡辺直樹さんの直言が僕の心に響いた。

 

 「嗅(きゅう)覚でいうと、政治家や官僚になった人と朝日新聞に行った人とは、どことなく旧制高校的価値観が共通していると感じます。地方から出てきて寮に入って、勉強ができて、そのまま社会人になり、自分たちは大所高所からものを考えているんだ、という意識。それは悪いことではないけれど、自分たちはもしかすると権力がとても好きなのではないかということを意識された方がいいと思います」(朝日新聞1992年7月11日朝刊)

 

 「旧制高校的価値観」とは言い得て妙だ。これが戦後、象牙の塔の教養主義をかたちづくったように思う。そこに巣食う欺瞞にノーを突きつけたのが、1970年前後の学園紛争であり、対抗文化だった。このころから朝日は、新しい世代の敵役になっていたのである。

 

 で、今週は『朝日ぎらい――よりよい世界のためのリベラル進化論』(橘玲著、朝日新書)。刊行元は朝日新聞出版だ。子会社が世間に親会社を嫌う風潮があることを公然と認めたわけだから衝撃的だ。だが、この寛容さは前述の連載記事同様、朝日の長所だろう。

 

 著者は、1959年生まれ。略歴欄によれば、2002年に小説『マネーロンダリング』を刊行した。「作家」の枠を超えた著作も多いようだ。この本でわかるのは、その読書領域の幅広さだ。東西の書物を読みあさり、理系研究者の原著論文にもあたっている。だから、「本書は朝日新聞を批判したり擁護したりするものではない」(まえがき)。むしろ、「朝日ぎらい」という社会現象の深層にある思考や感性を切りだしていると言ってよい。

 

 本文に入ろう。なるほどと思ったのは、朝日ぎらいの一因に1980年代の「ポストモダン哲学」を見ていることだ。著者によれば、この哲学は「真理などというものはなく、ただ無限の差異があるだけ」と考えるので、歴史の「再編集」、即ち歴史修正主義に結びつきやすい。「一般には左翼の思想とされるが、じつは右翼・保守派とも相性がいい」。そのポストモダンが「旧制高校的価値観」のモダニズムにとって代わった、とも言えそうだ。

 

 この本は、昨今の政治地図を描く。いくつかの図示があるが、ドナルド・トランプ大統領を押しあげた米国の状況を分析したグラフがわかりやすいので、それを引こう。そこで圧倒的な優位に立っているのが「コミュニタリアン右派」。国家主義色の強い共同体主義者のことで、「ドメスティックス」という呼び名も与えている。これを訳せば、自国第一主義者か。「米国を再び偉大に」のスローガンに共鳴する一群の人々と言ってよい。

 

 このグラフでは、残る少数派はひとくくりに「リバタニア」と呼ばれる。これは、平等志向のリベラル派、自由主義経済を重んじるリバタリアン、多元主義を掲げるコミュニタリアン左派から成る。著者によれば、3派は互いに敵対していても「自由(Liberty)という“普遍”の原理を共有している」。同様の分類法を米国以外にも適用すると、欧米と日本のリバタニア総人口は約2億3000万に達し、米国のドメスティックスを上回るという。

 

 興味深いのは、著者がこの勢力分布をもって世界の「右傾化」を否定していることだ。ドメスティックスは米国だけでなく欧州や日本にも存在するが、自国第一の主張は互いに対立するので手をつなげられない。一方、リバタニアは「国家よりも個人の自己決定権や共同体の自律性を優先する」ので連帯可能というのだ。その結果、「『リバタニア』と『ドメスティックス』の力関係はグローバルレベルでかんぜんに逆転する」。ほんとかな?

 

 この本は最後に、国内既存のリベラル派が敬遠してきた問題をとりあげる。安楽死の容認や薬物、売春の合法化……。著者はリバタニアの立場から、これらについて自己決定権に着眼する議論に踏み込まない日本社会の現実を浮かびあがらせる。朝日新聞も、従来の論調を変えようとはしてこなかった。「旧制高校的価値観」が根強かったからか。「自己決定権」に目をつぶってきたことのつけが、「朝日ぎらい」を増幅しているのかもしれない。

 

 著者が見せてくれた政治地図は、斬新と言えば斬新だ。経済格差をなくそうとする平等志向のリベラル派も、市場経済重視のリバタリアンも、「自己決定権」でしっかりつながっているという見方。資本主義対社会主義、保守対革新を超える構図がここにはある。

 

 100%の同意はしかねるが、目を見開かされることの多い本ではある。

(執筆撮影・尾関章、通算447回、2018年11月23日公開、同月24日更新)

 

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