『カーテン――ポアロ最後の事件』
(アガサ・クリスティー著、田口俊樹訳、早川書房クリスティー文庫)

 猛暑がつづく。街へ出ると、幾度となく自販機の前に立つ。財布からコインを掻きだしてスロットに流し込むと、お茶のボトルがストンと落ちてくる。体じゅうの水がすべて皮膚から噴き出し、それをペットボトルで補っている。そんな錯覚にとらわれる。
 
 結局は水の袋か真夏人(寛太無)――最近、句会に出した拙句だ。
 
 電車に乗ったなら、エアコンで汗が引くのを待って、バッグから本をとりだす。本のカバーは、バッグに放り込んでいたペットボトルのせいで湿っている。自販機でキンキンに冷えていたボトルが、暖気に触れて結露したのだろう。額や首筋に残る汗、そして、本の湿り。どれもこれもうっとうしいが、夏とはそういうものだ。そんなときにどんどん読み進める本は、ミステリーをおいてほかにない。
 
 とりわけ読みたくなるのは、アガサ・クリスティーだ。そこに出てくる英国の田園地帯は、僕が30年前の晩夏、初めて英国を訪ねたときに見た風景に重なる。ロンドンを拠点にいくつかの町に出向く優雅な出張だった。この国の夏は短くて乾いている、と実感した。そのことは、のちにロンドン駐在となり、英国に暮してみて確信に変わる。汗っかきにも心地よい夏を思い出して、僕はこの時季、クリスティーファンになる。
 
 余談だが、僕とクリスティー作品には、ちょっとした縁がある。ロンドン特派員時代、僕の会社のオフィスが入居していたビルが、名探偵エルキュール・ポアロのいるビルの隣だったのだ。もちろん、架空の名探偵なのだから実話ではない。あのころ、ポアロを主人公とする英国のTVドラマシリーズで、彼の日常生活の場として、その建物の遠景が映しだされていたのである。今も日本で時折再放映されるドラマなので、それを見るととても懐かしい。
 
 このことでは、ひとつ忘れがたい経験をした。僕のオフィスが泥棒に入られたときのことだ。翌朝出勤してきた同僚が警察に通報すると、やって来た警官は現場をつぶさに調べ、自らの推理を得意げに語った。「賊は隣のビルから軒伝いに近づいて跳び移ってきたに違いない」。それを聞いて僕は思わず、「おかしいなあ。隣には名探偵がいるんだが……」。警官も苦笑いしていた。
 
 で、今週の一冊は、『カーテン――ポアロ最後の事件』(アガサ・クリスティー著、田口俊樹訳、早川書房クリスティー文庫)。原著は1975年に出た。おやっと思ってネットを調べると、著者の没年は翌76年。クリスティーと言えば、1920〜40年代の古めかしい英国社会が思い浮かぶが、彼女はビートルズ全盛期も生き抜いて、四半世紀、僕の同時代人として存在していたわけだ。
 
 この小説の舞台は、イングランド東部エセックス州のスタイルズ・セント・メアリ村にあるスタイルズ荘。著者にとってもポアロにとっても『スタイルズ荘の怪事件』(1920年)がデビュー作なので、著者とポアロは最晩年で自らの原点に立ち戻ったことになる。
 
 著者が、この作品を執筆したのは、発表より30年も前の1940年代初めらしい(巻末に収められた作家山田正紀さんの解説)。だから、そこに描かれている世界は70年代よりは牧歌的だ。ただ、英国社会が20世紀半ばに体験したこと、すなわち大英帝国の衰退はみてとれる。スタイルズ荘も富裕な一族の手を離れ、退役軍人とその妻が営む民宿風のゲストハウスに変わっていた。
 
 世の移ろいは、この宿に泊まる人々の境遇と重なる。女性客の一人が語る言葉を引いてみよう。「それがこういう場所の気の滅入るところですね。身分のあった人が落ちぶれて経営しているゲストハウスの。集まってくるのは人生に失敗した人ばかりなんだもの――これまでに一度も成功を味わったこともなければ、今後もなさそうな――挫折して、人生に敗れた人たち――年老いて疲れきって終わってしまった人ばかりなんですもの」
 
 書き出しは、ポアロの旧友ヘイスティングズが列車に揺られている場面だ。スタイルズ荘に滞在中のポアロから、誘いの手紙をもらったのである。「きみにはバスルームつきの部屋をもう取ってあります(わかると思うが、あの懐かしいスタイルズ荘も今ではすっかり当世風になっているのです)」。駅で降りてタクシーに乗ると、村は一変していた。「ガソリンスタンドに映画館。それに宿屋も二軒増え、低家賃の公営住宅が何軒も建ち並んでいた」
 
 次章では、ポアロの老いが素描される。「関節炎に手足の自由を奪われ、車椅子生活になって、かつては恰幅のよかったポアロがすっかり痩せ細ってしまっていた」。本人自身も「私はもう駄目です。生ける屍(しかばね)です」と言う。ただ、「芯はまだ無傷」と言い添えることは忘れない。ヘイスティングズが「芯」を「心」ととって「あなたは世界一の心の持ち主」ともちあげると、「脳のことです。私の脳はまだ立派に働いてくれている」
 
 ポアロは、過去にあった五つの不審死や殺人事件の要約資料をヘイスティングズに見せる。解決済みとされたものが多いのに、なぜ蒸し返すのか。5件すべての当事者と接点のある人物Xが今、スタイルズ荘にいるというのだ。「近いうちにここで殺人事件が起こります」。Xが誰かをポアロは知っているが、それをヘイスティングズには教えない。一方、殺されようとしているのが誰かは、ポアロにもわからない。ここに、この作品の醍醐味がある。
 
 この小説でいいと思うのは、スタイルズ荘の同宿人が折にふれて、真面目なテーマを論じ合うところだ。たとえば、安楽死。ヘイスティングズは「正当な理由があるように思えても、現実問題として考えると、感情的に受け容れられない」という立場をとった。愛鳥家の男もこれにほぼ同調して、「長い闘病生活を送り、死ぬことが確実で、患者本人の希望と合意が確認できた場合にかぎってのみ、おこなわれるべきだ」と穏当な意見を吐く。
 
 準男爵が割って入って「でも、そこがむずかしいところでね。よく言われることながら“苦しみから解放されること”を当の本人がほんとうに望むものだろうか?」。ここで、医学者の助手でもあるヘイスティングズの娘が「衰弱している人――痛みや病(やまい)で――には誰にだって決断をくだすような力が残っていない」と言いだし、「ほかの人がかわりに決断してあげないと。それはむしろ患者を愛する者の義務」と主張する。
 
 いわば、本人同意なしの安楽死積極論。これに対して、愛鳥家はたたみかけるように反駁する。「実際にそういうことになったら、あなたもそうするとは思えませんね」「俗な言い方をすれば、そんな肝っ玉は誰にもないということです」
 
 英国の田舎町でB&Bに泊まると、夕食後はソファに席を移して、食後のコーヒーやお茶を楽しむ。そんなとき、同宿人の間に会話の輪が広がるのは、ごくふつうにあることだ。たいていは、お天気談議のように人畜無害な話に終始する。僕のような外国人は、そこにとどまることが多い。だが、ときには世間のニュースも話のきっかけになる。安楽死という重い話題が語り合われても不自然ではない。
 
 ここでふと、よかったなと思うのは、ポアロやヘイスティングズの手もとにケータイやスマホがなかったことだ。40年代はもちろん70年代になっても、ITの大波は押し寄せていない。だから、少なくとも英国社会では、見知らぬ者同士が相手の表情を読みながら言葉を紡いで談笑し、ときに論をたたかわせることが人々の楽しみだった。この作品は、そんなリアルなコミュニケーションを巧く切りだしている。
 
 それにしても、アガサ・クリスティーがしたたかなのは、最後の最後で予定調和をひっくり返す手際の良さだ。ここに僕が書いたことだって、額面通りには受け取らないほうがよい。だまされてはいけない、とだけ言っておこう。
 
写真》夏の旅にはミステリー=尾関章撮影
(通算225回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
■ブック・アサヒ・コム「文理悠々」のバックナンバーはこちらへ
■「本読み by chance」は原則として毎週金曜日に更新します。
コメント
コメントする