『シーシュポスの神話』(アルベール・カミュ著、清水徹訳、新潮文庫)

写真》山上の岩

 とある民事訴訟のニュースに接してネットの反応を見た。ヤフーの検索ページにキーワードを打ち込み、リアルタイム欄を選択すると、ツイッターのつぶやきが一覧できる。コメントはくっきり二分されていた。被告側を応援するが原告側の言い分にも一理ある、被告側を支持しないが原告側の主張には難がある……といった熟慮の形跡がほとんど見当たらない。なにごとにも白黒をつけて「いいね」と同調する風潮が強まっているのだろう。

 

 これはつぶやきであり、字数制限もあるのだから、当然と言えば当然だ。だがそれにしても、世の中の出来事に対して自分の見解をこれほどすっきり言い切れるものだろうか。僕にはできそうもない。だから、自らはツイッターに手を出す気になれないのである。

 

 むかし、弁証法という言葉が飛び交った時代があった。1970年代くらいまで、学園キャンパスでは日常語になっていたと言ってもよいだろう。語源は古代ギリシャに遡るが、往時の学生たちが念頭に置いていたのはヘーゲル、マルクス以来の用法だ。ヘーゲル哲学によれば、人の思考では「正」に対して「反」がある。そこには矛盾があるが、これを「止揚」すると「合」という高次の段階に至る。弁証法には、そんな動的展開がある。

 

 カタカナ語で言えば、「正」「反」「止揚」は「テーゼ」「アンチテーゼ」「アウフヘーベン」。思いだすのは、1年前の政局騒動で、新党を旗揚げした小池百合子・東京都知事が「アウフヘーベン」を口にしたことだ。これに対して、世間はキョトンとしたように思う。

 

 ここで確認しておきたいのは、「正」と「反」の対立関係は問題解決の踏み台になるということだ。両者は矛盾をはらんでいるので、すぐには決着をみない。議論を深めると新しい地平が現れ、答えが見えてくるというしくみである。ところが、昨今のツイッター発信はどうか。「正」は「正」を言いっ放し。「反」は「反」を繰り返すのみ。止揚の気配がない。ネット社会の世相を見る限り、弁証法はもはや絶滅危惧種になりつつある。

 

 だが今の時代は、「正」だけで、あるいは「反」だけで乗り切るのが難しい。容易に答えを見いだせない難題が山積だからだ。一例を挙げれば、人工知能(AI)との向きあい方。人間の弱点を補ってくれるので導入を急ぐべきだという理屈はわかる。だが半面、普及によって人間が自らの存在理由を見失う懸念もある。推進論であれ抑制論であれ、すぐには「いいね」のボタンを押せないのである。こんなときこそが、弁証法の出番ではないのか。

 

 で、昨今の世相を嘆きながら選んだ今週の1冊は『シーシュポスの神話』(アルベール・カミュ著、清水徹訳、新潮文庫)。著者(1913〜1960)は、植民地時代のアルジェリアに生まれたフランス人作家。『異邦人』、『ペスト』などの小説で知られる。前者は今夏、当欄でとりあげたばかりだ(2018年8月10日付「異邦人ムルソーのママンとは何か」)。この本は、その著者がフィクション抜きで書き綴った哲学的な論考だ。

 

 刊行は、第2次大戦中の1942年。著者が代表作『異邦人』を世に問うた年である。この小説は8月の当欄でも振り返ったように、1960〜70年代には実存主義の必読書として若者の心をとらえた。だが、それは筋立ての醍醐味やイメージの鮮烈さによって訴えかけてくる文学作品であり、明示的には哲学の記述がなかった。どう読み解いたらよいのか。そう戸惑う読者に、解説書の代役を果たしたのが本書だったと言ってもよいだろう。

 

 この邦訳文庫版は、初版刊行が1969年。語弊を恐れずに言えば、カミュが旬のころだった。あのころ、本屋で新潮文庫が並ぶ一角に立つと、カミュ本の目印であるシルバーグレーの背表紙がひとかたまりで目に飛び込んできて、そこに『異邦人』とともに本書があった。『異邦人』から『シーシュポス…』へという読書の流れは自然だったのだろう。ただ正直に打ち明ければ、僕は学生時代、前者で止まってしまい、後者は読まなかった。

 

 人文科目の授業かなにかで、後者の要点を聞いていたのだ。シーシュポスとはギリシャ神話に登場する都市国家コリントスの王の名であり、彼は死後、地獄に落ちて大岩を山の頂に押しあげる作業を強いられる。岩は押しあげてもすぐ転がり落ちるので、なんども同じことを繰り返すという苦役だ。この本は、人生とはしょせんそんなもの、と言っているらしい。だとしたら説教じみているように思えて、読む気が湧いてこなかったのだ。

 

 だが、これは大きな怠慢だった。カミュ文学のキーワードは「不条理」だが、作品をいくら読んでも、それがどう人の生き方につながるのかは推測するしかない。著者自身の言葉がほしいのだ。明証は、希少な論考から探しださなければなるまい。

 

 今回一読してみると、その解読は難事業だとわかった。著者の筆はあちこちに走るので、すぐについていけなくなる。これを、訳者は「改版あとがき」で「若書きの哲学的エッセー」と評している。「若いカミュが、どうしても解決したいとねがう問題と真正面から向き合って、いろいろな哲学書を参照しながら、懸命になって解答を求めようと努力する」姿が見てとれるという。執筆時、著者はまだ20代。青臭くてもしかたないわけだ。

 

 その文体は、訳者の言を借りれば「ときに抽象的な思索にふけり、ときに飛躍し、ときに抒情的(じょじょうてき)にうたう」という感じ。まさに、その通りだ。だから一字一句にこだわるのではなく、伏流する思考を大づかみに汲みとるほうがよいのだろう。

 

 まずは、不条理の定義から。これも本文から正確に切りだすのは難しい。「訳者付記」の助けを借りよう。それによると、著者が考える「不条理」(l’absurde)とは「この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰(めいせき)を求める死物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙(たいじ)したままである状態」のことだという。本稿のまくらに振った弁証法に似た構図が人の内面にはあるということか。

 

 ただ、「弁証法」という用語は安易に使えない。著者は「真に重大な哲学上の問題」は「自殺」であり、「人生が生きるに値するか否(いな)かを判断する、これが哲学の根本問題に答えること」と宣言して論を説き起こすが、同じ章で「精緻(せいち)な学識にもとづく教壇的弁証法は、良識と共感との両者から発するより謙譲な精神の態度に席をゆずらねばならぬ」とも述べている。「正」「反」よりも情感豊かな対峙に目が向いていたらしい。

 

 著者によれば、不条理は人間と世界をつなぐ「絆」としてある。だから、「不条理という観念こそが本質的であり、ぼくの真実のうちの第一のものを表示しうる」。そこにある闘争では「希望のまったくの不在」や「たえざる拒否」や「意識された不充足」が前提条件となるが、「こうした要請を破壊したり、ごまかしたり、かわしたりするもの」は「不条理をなしくずしに滅ぼし、そうした要請にしたがって提示されうる態度の価値を失わせる」。

 

 これが実存哲学批判に結びつく。それは「例外なしに、ぼくに逃亡をすすめてくる」からだ。「異邦人ムルソーのママンとは何か」に書いたように著者自身は実存主義に冷淡だったので、ここは読みどころだ。たとえば、キルケゴールは「苦しまぎれにむりな逃げ道を考えだして、非合理的なものに神の顔貌(がんぼう)をあたえ、またかれの言う神に、不当、矛盾、不可解という不条理の属性をあたえる」。著者はこれを「哲学上の自殺」と断じる。

 

 実存哲学は、さまざまな仕掛けをもちだして不条理の闘争を脱しようとしている、ということか。キルケゴールの場合、それは不合理を背負った「神」を想定することだった。なぜ不条理をあるがままに引き受けないのか。この論考は、そんな問いかけに満ちている。

 

 論考最後の章は文字通り、シーシュポスの神話についてだ。著者は、押しあげた岩が転がったあと、それを再び押しあげるために山を下りる主人公に思いを馳せる。「かれが山頂をはなれ、神々の洞穴(どうけつ)のほうへとすこしずつ降(くだ)ってゆくこのときの、どの瞬間においても、かれは自分の運命よりたち勝(まさ)っている」。闘いそのものよりも闘いをやめないことを讃える――僕たちが忘れかけた美学がここにはある。

(執筆撮影・尾関章、通算448回、2018年11月30日公開)

 

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