『働くということ――グローバル化と労働の新しい意味』

(ロナルド・ドーア著、石塚雅彦訳、中公新書)

写真》アフターファイブ

 今年は「働き方」がメディアをにぎわした。まずは、働き方改革関連法案をめぐる国会の紛糾。残業時間の上限設定と専門職労働の規制緩和を抱き合わせにした法案に反対の声は収まらなかったが、6月末に可決された。そして、いま渦中にある出入国管理法改定の動きも外国人労働者の受け入れを拡げようとするもので労働力の需給にかかわる。少子高齢化、男女共同参画の世にどう働くべきか。僕たちは、そんな問いを突きつけられている。

 

 ここでは残業に注目しよう。働き方改革関連法の成立で、労働時間を規制する労働基準法も改められたが、残業は月当たり45時間以内という原則に変わりはない。ただ、繁忙期に上限が設けられた点が新しい。これまでは労使協定によって延長可能な青天井状態が続いてきたが、改正法施行後は1カ月で100時間未満(休日労働を含む)などの枠がはめられる。違反すれば雇用側に罰則が科せられるというから拘束力がある。

 

 「100時間未満」と聞いて、僕は複雑な気持ちになる。月100時間の残業は過労死を起こす危険水域とみなされているから上限はもっと下げるべきだ、とは思う。その一方で過去の記者生活を振り返り、自分は死線をくぐって来たのかなあ、とあきれてしまう。

 

 たとえば、支局勤務の新人時代。午前8時半には出勤、昼間は取材先を回り、夕方は支局に戻って原稿を書いた。その日の出稿が終わってからとりかかるのは、締め切りに余裕がある企画記事などの執筆。帰宅は深夜に及ぶが、帰っても布団に腹ばいになって原稿用紙に向かうことがあった。さらに5〜6日に1度は泊まり勤務。当時は週休2日ではなく、土曜も出社した。日曜が出番のときは平日を代休にしたが、返上することもしばしばだった。

 

 仕事に束縛された時間を足し合わせ、正規の勤務時間を引いてみると……。怖くなるから、総残業時間を正確にはじき出すのは控えよう。僕には、会社や上司に対する恨みはない。好きでやっていたことなのだ。むしろ忙しいことに陶酔していたようにも思う。

 

 あのころの自分の働きぶりを正当化して、今の若いヤツはヤワだな、などと暴言を吐くつもりもない。逆に、あの陶酔状態がもたらした負の効果に気づいて後悔する。まずは、家族に迷惑をかけた。家庭を顧みる余裕がほとんどなかったのだ。自分も多くのものを失った。例を挙げれば、駆けだしの数年間は本をほとんど読まなかった。頭の中に渦巻くのは原稿の想念ばかり。思考の対象は著しく偏り、生活人としての平衡感覚を欠いていた。

 

 で、今週は『働くということ――グローバル化と労働の新しい意味』(ロナルド・ドーア著、石塚雅彦訳、中公新書)。著者は1925年、英国生まれの社会学者。先月中旬、日本のメディアにも訃報が届いた。朝日新聞2018年11月16日朝刊には「英国の代表的な日本研究者」であり、戦後まもない50(昭和25)年に来日、農村や下町に入り、「徹底した実地調査をもとに日本社会に根づく共同体意識に光をあてた」とある。

 

 1950年といえば、僕が生まれる直前。幼少のころの大人たちの働きぶりはおぼろげに覚えているが、勤勉さは僕の新人時代の比ではなかった。著者は、そのころの日本人の労働実態をつぶさに見ていたことになる。実際、「はじめに」には51年の調査メモが引用されている。化粧品製造会社の課長に面談して、健康とは「仕事を続けうる能力」であり、休日は「つぎの週の労働のために疲れをとる手段」と認識していることがわかったという。

 

 この本は、2003年に東京であった講演をもとにしている。題名は「ますますグローバル化する世界における労働の新しい形、新しい意味」。ちょうど、日本の産業界で「正社員」「終身雇用」の柱が崩れ、「派遣」「非正規雇用」が広まったころ。あの変化を僕たちは日本社会の欧米化ととらえがちだが、本当にそうなのか。著者は半世紀余、欧米に拠点を置きながら日本を見つづけてきた人なので、その答えを教えてくれるかもしれない。

 

 結論から先に言うと、雇用の構造を考えるにあたっては、欧米が進んでいる、日本は遅れている、という先入観に囚われてはいけないらしい。むしろ、欧米も日本もほぼ同期して激変の波をかぶったという面がある。欧米人も、その大波に戸惑っているからだ。

 

 それを物語るのが、英国の経済学者ジョン・メイナード・ケインズの読みが外れたことだ。1930年の時点で、2030年には技術革新のおかげで人は週15時間ほど働けばよいようになると予言したが、今その見通しはない。著者は「現状は予言とは逆の傾向を示しています」と断じて、米国の一部職種で労働時間が延びていることやフランスには休日減らしの提案があることなどを例示する。背景には「経済競争力強化」の圧力があるという。

 

 この本では、著者自身の見込み違いも打ち明けている。日本型雇用の代名詞であり、英国の官界も部分的に採用していた年功制度をめぐる予想だ。「イギリスでも、日本と同じように、ある種の年功制度がだんだんと官庁から伝染して普遍化してくるだろう」。1970年代には、そんな見立てをしていた。企業内で同僚間の「競争心」と「協調的努力」の均衡をとりやすいしくみだからだという。欧米にも「日本に学べ」の志向があったのである。

 

 ところが1980年代、英保守党のマーガレット・サッチャー首相は雇用制度の手本を官界ではなく民間に求めて「直接的・金銭的インセンティヴ」に重きを置く施策を進める。これは世界中に広まり、「人的資源の効率的利用」のために「整理解雇の手続きが簡単」で「臨時雇用契約がより自由に使える」ようにする政策が広まった。英労働党のトニー・ブレア首相までが「『労働市場の柔軟性』の美徳」を訴える時代が到来したのである。

 

 著者によれば、ここには「OECDコンセンサス」がある(OECDは、先進工業国が加盟する「経済協力開発機構」)。「中道左派の首相も中道右派の首相も演説で繰り返す」からコンセンサス(合意)だ。「市場個人主義」の思想が見てとれるという。

 

 それは、低所得層の安全網となる「最低賃金法」や「社会扶助」について「仕事を探すインセンティヴを低下させるような水準や条件に設定されるべきではない」とする。福祉にも市場の精神をもち込んで個人の自立を促そうというのだ。一方、高所得層では上位層と中位層の格差が広がる一方だが、それは気にしない。「大企業のCEOは平気で、次のようなことをいうようになりました」と、スピーチを提示したくだりではハッとした。

 

 「何百万ドルの年収は、会社に対する、したがって株主や社会に対する私の潜在的な貢献の客観的評価を表しています」「私の仕事に対する公正な報酬です」――現実の発言例ではなさそうだが、最近のニュースでよく耳にするカリスマ経営者の発言かと思えてくるではないか。著者は、社会規範が塗りかえられたことも指摘する。「経営者の使命は株主の利益に仕えること」とみる投資家優先論が強まり、労働者の待遇は二の次になったという。

 

 この本によれば、OECDコンセンサスは米国の「文化的覇権」と結びついている。米国のビジネス・スクールが「グローバル・エリート」を世界に輩出しているというのだ。日本も例外ではない。「経営者たちの経営理念がますます株主価値やネオリベラルな思想――特に福祉制度や、国家の経済への介入を非とする思想――に共鳴するような形で動いている」のは、米国帰りのMBA(経営学修士)取得者の影響が大きいというのが著者の見方だ。

 

 著者自身は、あくまで「労働者保護と社会保障の混合」を当然視する旧来のコンセンサスにこだわる。最終章には「社会的連帯を犠牲にしながら進む市場個人主義。その強い流れに逆転の可能性はあるのか」という問いかけもある。ただ、逆転の特効薬が示されているわけではない。そこが隔靴掻痒だが、確実に言えるのは、OECDコンセンサスは1980年代以降に巻き起こった流行であり、人類知として定着したものではないということだ。

 

 僕は若いころ、長時間労働で生活人としての平衡感覚を失っていた。これは、金銭では測れない価値の喪失だ。働くことの意味は、きっと市場の外にもあるのだろう。

(執筆撮影・尾関章、通算449回、2018年12月7日公開、同日更新)

 

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