『眼の壁』(松本清張著、新潮文庫)

写真》眼の先に壁

 平成最後の年越しが近づいた。世は平成回顧一色。これで昭和は、セピア色の彼方へ押しやられた感がある。昭和、とりわけ戦後期は今の世と分かち難く結びついているのに、その接続が忘れられている。ぼーっと懐かしんでいるんじゃないよ、と言ってみたくなる。

 

 そんな思いに駆られる椿事が最近あった。改造まもない内閣でサイバーセキュリティー対策を担当することになった大臣が、国会の野党質問に「自分でパソコンを打つことはない」と答えたという話である(朝日新聞2018年11月15日朝刊)。この報道で僕が気になったのは、メディアがおしなべて、あっけにとられたという取りあげ方をしていたことだ。そこには、昭和人を化石扱いしているようなイヤな感じがあった。

 

 もちろん、この大臣発言には僕も苦笑いした。ただ笑ってから、待てよとも思った。コンピューター犯罪を封じようとする人がパソコンのいろはも心得ていないのは、たしかに心もとない。だがひと昔前、それは当たり前のことではなかったか。デジタル化の旗を振る指導層にはパソコンのパの字も知らない人が多かった。企業では、万年筆を愛用し、ハンコでしか決済したことのない経営陣が社員にキーボード作業を求めたのだ。

 

 逆説めくが、日本のデジタル化はデジタル化についていけない人々が牽引してきたと言ってよいのかもしれない。それでも、これだけの水準に達したのだから見あげたものだが、後続世代がもっと早く世の指導層に躍り出てデジタル社会の設計を主導していたのなら、IT(情報技術)は今よりも上手に使われていたようにも思う。20世紀末からのデジタル化はあまりにも急速だったので、新世代の登場を待つだけの余裕がなかったのだ。

 

 僕自身の体験を語らせてもらおう。勤めていた新聞社では、1980年代半ばからワープロの導入が進み、90年ごろにはワープロ専用機が全記者に行き渡った。それが90年代半ばにはパソコンに取って代わられる。日本社会にインターネットが広まったのが95年ごろだから、これは世間標準の歩みだったとも言える。僕の時間軸で言えば、30代でワープロになじみ、40代でパソコンを覚えた、否、覚えさせられたのである。

 

 先輩世代はもっと大変だった。コンピューター用語を人前で連発するような新しがり屋もいるにはいたが、圧倒的多数はしぶしぶキーを叩き、しばしば誤操作をしていた。原稿を書くのに最後まで鉛筆やペンを手放さなかった人もいる。デジタル弱者の集団だった。

 

 こう考えてみると、サイバーセキュリティーを担当する閣僚の「パソコンを打つことはない」発言に人々があきれた状況は、この20年間の様変わりを如実に映している。デジタル弱者が社会の一線から退き、議会もメディアも大多数がデジタル化したのである。

 

 今回の騒動で心にとめたいのは、この閣僚批判をデジタル弱者に対する嘲笑に結びつけてはならないということだ。パソコンが苦手な人は、サイバーテロ対策の指揮には不向きだろう。だが、社会人として失格なわけではない。パソコンを使わないからこそ見える世界もある。そもそも1990年以前に世を去った人々は、そういう世界しか知らなかったのだ。僕たちは、かつてあった「パソコンを打つことはない」文化にもっと敬意を払ってよい。

 

 で今週は、パソコンとは無縁の清張ミステリーを選ぶ。長編『眼の壁』(松本清張著、新潮文庫)である。1957年、すなわち昭和32年に『週刊読売』誌の連載小説として世に出た。巻末にある中島河太郎執筆の解説によれば、同年は代表作『点と線』も『旅』誌に連載されており、翌58年に両作品が単行本になると「圧倒的な歓迎を受け、推理作家としての著者の地位を不動にした」という。今回手にした文庫版は1971年刊。

 

 例によって筋は追わない。まずは、時代を感じさせる言葉たちを拾おう。冒頭まもなく、主人公の昭和電業製作所会計課次長、萩崎竜雄が上司の課長とともに訪れるのが、東京駅の「一二等待合室」。課長が人と会うというので、お伴をしてきた場所だ。ドアはガラス張り、青いソファが並んでいる。壁には国内観光地のレリーフが飾られ、ローマ字で地名が添えられていた。外国人客が多く、モダンな雰囲気。今で言うVIPルームだ。

 

 「一二等」と聞いても、若い世代にはピンと来ないだろう。このころ、国鉄(現JR)の普通車は「三等」だった。僕たちが旅行で乗るのはたいてい三等で、一等の記憶はない。二等車は背もたれを斜めに倒せたような気がする。駅の待合室にも等級分けがあったとは。

 

 東京駅と言えば、大阪へ転勤となった専務を部下たちが見送る光景も出てくる。列車は「特急下り『はと』」。新幹線どころか在来線特急のこだまも、まだない。送る人がホームで手を振り、送られる人は窓から身を乗り出してそれに応える。あのころの定番儀礼だ。

 

 「日ペリ」には、僕も戸惑った。全日本空輸の前身、日本ヘリコプター輸送のことだ。ANAグループの公式サイトによれば、改名は1957年暮れで、それまでは愛称が「日ペリ航空」だったという。社名はヘリでも飛行機を飛ばしていた。興味深いのは、この小説の重要人物が東京から名古屋へ向かうのに空路を選んだことだ。別のくだりで、東京・名古屋間は列車なら「急行で6時間」とあるから、この選択も不自然ではなかったのだろう。

 

 僕が今回、当欄に記録しようと思うのは新聞社の通信網だ。この作品では、メーカー社員の萩崎が自社を陥れた経済犯罪の真相を暴くべく調査活動に奔走する。相棒は、元学友の新聞記者田村満吉。二人は列島のあちこちに足を運ぶのだが、旅先で力となったのが、新聞社が中小の都市に置く「通信部」だった。記者一人が職住一体で家族とともに駐在しているところが多い。ちなみに僕が勤めた新聞社では、これを「通信局」と呼んでいた。

 

 たとえば、三重県の宇治山田。「通信部といっても普通の家で、八百屋と菓子屋の間にはさまれて、不似合に大きな看板が出ていた」とある。田村が訪ねたとき、応対に出てきたのはエプロン姿の女性だった。記者の妻だ。夫は不在。局舎にあがると「六畳くらいの古びた畳の中央に応接台があり、片隅に仕事机があった。綴込(とじこ)みの新聞やザラ紙が周囲に雑然と散っていた」。畳敷きはいかにも古風だが、概ねこんな感じではある。

 

 「ザラ紙」をイメージできない向きもあろう。パソコン・ワープロ時代以前、新聞記者の机に置かれていたわら半紙の束のことだ。はがきほどの大きさで、原稿用紙だが升目はない。ザラ原とも呼んでいた。記事1行を1枚に収めて書くところがミソ。利点は、デスク(出稿責任者)が下手くそな原稿を受けとったとき、紙の順番を入れ代えて手直しできることだった。その手作業は、ワープロソフトの「切り取り」と「貼り付け」に相当する。

 

 こうした「通信部」「通信局」が新聞社の生命線だったことが、この作品からは浮かびあがってくる。長野県の白馬山麓で田村は言う。「おれは今日、松本の通信部に寄らねばならん。ほかの連中と電話連絡を取る必要があるからな」。取材データを同僚に伝えようとしても、携帯電話はない。市外通話は交換手が介在する方式だったので固定電話が欠かせないが、その普及率もまだ低かった。社の地域拠点は文字通り、通信の中継基地だったのだ。

 

 この交換手方式の電話は僕も経験していない。この作品は、その様子を教えてくれる。萩崎もあとから松本通信部を訪れると、田村は足場を木曾福島通信部に移していた。そこで、松本から木曾福島に電話をかける。受話器の向こうで田村がちょっと黙ると、交換手が「もしもし」と割って入る。話が終わりかかると「間髪をいれず、交換手が『時間です』とじゃけんに言って電話を切った」。密談しても、第三者が黒衣のように存在していたわけだ。

 

 田村や萩崎を助ける通信部の記者は、町を自転車で駆けまわり、夕方に仕事を済ませると酒を飲みに出る。大新聞は上から目線に陥りがちだが、それと無縁な新聞文化が地域ごとに根づいていた。いま新聞社は取材網を細らせ、列島には記者のいない町がふえている。

 

 歳末には清張世界に浸りたい。それは近過去のセピア色をひととき拭い去ってくれる。

(執筆撮影・尾関章、通算451回、2018年12月21日公開)

 

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